(c)その所在

 この合一の所在は、新約聖書の言葉を用いると、「心という内なる人」です。「……私たちの内なる人は日毎に新しくされていきます」、「……どうか神が、御霊を通して力をもってあなたたちの内なる人を強めて下さいますように」(エペソ三・十六、アメリカ標準訳)という句をパウロは好んで用いました。この内なる人とは何でしょう?私たちの存在の最も深い部分である、私たちの霊です。これが合一の座です。合一の性格は、もっぱら肉体的なものではありません。これは言うまでもありません。私たちと神との間の合一は精神的なものに由来するものではありませんし、感情的なものでもありません。私たちと主との間の合一は、もっぱら私たちの魂の領域の中にあるものではありません。私たちの霊の中にあります。それは私たちの魂よりも深いものです。つまり、私たちの理性よりも深く、分析したり理解するための私たちの天然的知性の力よりも深いのです。私たちの感情よりも深く、私たちの感覚よりも深いのです。主との合一の事実は、それが確立される時、たとえ私たちの感覚がことごとくそれに反する時でも残ります。私たちの理性の力がことごとく完全に混乱してしまう時でも残ります。理性の領域や感覚の領域の中に「この合一は存在しない」という極めて大きな証拠があるように思われたとしても、この合一は残ります。

 私たちと主との間の合一は、私たちの感情や理性とは何の関係もありません。この問題にきっぱりと決着をつけることが、主の民にとって重要です。たびたび座り込んで自分の理性に自分を導かせるなら、この合一は存在しないと私たちは結論づけるでしょう。このような合一に対する強固で積極的な反論がかなりあるからです。自分の感情や感情の欠如が基準となることを許すなら、私たちはこの合一をすべて放棄して、「そのようなものは完全に神話である」と宣言するでしょう。主との合一の事実に感情がすっかり反対することが時々あります。それでも事実は何ら変わりません。一度合一が生じたなら、合一は常に存在します。「それを感じる必要があるのであって、感じない限り信じない」という立場を取る人々は、惨めな時を過ごすことになるでしょう。「極めて完全な知的議論によって、この合一を説明し尽くすことができなければならない」と要求する人々にも同じ事が言えます。

 この霊の命は人の知性の及ぶ範囲を遥かに超えたものです。この命を据えてもらうことはとても幸いなことです――ただしそれは、この新生が真に生じて、この新しい命の法則を積極的に熟慮の上で意図的に破らない場合です。この命の法則を破るなら、この命は不従順のせいで麻痺して停止し、しばらくのあいだ働かなくなってしまいます。私たちは持っている光の中を、主に対して従順に歩む必要があります。主の感覚が私たちの魂の領域から消え去って、私たちの知性の領域にあるものがすべて混乱・矛盾しているように思われる時もあるでしょう。それにもかかわらず、この事実は残ります。この合一は存在します。主は私たちの感覚よりも忠実です。

 これを知ることは大いなる慰めです。私たちの感情が移り変わり、私たちの感覚が変化する時、おそらく肉体的弱さや知的弱さのせいで、こうしたいわゆる強い霊的感覚が消え去って、しばらくのあいだ霊の命の高次の恍惚状態から落ちてしまって味気ない状態になってしまったように思われる時、慰めです。しかし、少しするとこれは過ぎ去ります。そして、主は依然としてそこにおられることがわかって、私たちは再び前進します。変わったのは主ではないこと、自分が惨めな時を過ごしていただけであって、この惨めな時によって根本的変化は何も生じなかったことを、私たちは理解するようになります。私たちは不従順によって神の活動を妨げることはできます。光に対して罪を犯すことにより、神聖な命を麻痺させることはできます。しかしそれでも、「……たとえ誰かが罪を犯しても、私たちには御父と共なる助け主があります……」。ヨハネはこれを彼の手紙の中で交わりに関して述べていますが、これは慰めです。それはこう述べています、「……私たちの交わりは御父との、また御子との交わりです……」。私たちは「彼が光の中におられるように、光の中を歩む」べきです。そうする時、「……御子イエス・キリストの血はすべての罪から私たちを清めます(ギリシャ語では、清め続ける)」。

 この合一はまさに奥深くにある私たちの霊の中にあります。移ろいゆく魂の命よりも深く、思いよりも深く、感情よりも深いです。そうです、意識よりも深いのです。この問題においては、私たちの意識は神の御業の深みに達しません。「これはどういう意味ですか?」と尋ねる人もいるでしょう。その意味はレビ記が意味するところとまさに同じです。無意識のうちに罪を犯してしまった人のために、ある特定の備えがあることがわかります。無意識のうちに罪を犯す、というようなことがあるのでしょうか?これは、罪の意識はないにもかかわらず、それでも罪であることを意味します。最終的基準は意識ではありません。最終的基準は神の規準であって、私たちの意識ではありません。私たちの意識は、結局のところ、限られています。神の規準は限られていません。神の備えが関係しているのは神ご自身の基準であって、私たちの意識の基準ではありません。私たちはこれから助けを受けるべきです。神が備えて下さった備えは御自身の要求の目的に対するものであり、私たちがそれらの要求にどれだけ気づいているかという基準に対してではありません。神の働きは私たちに属するいかなるものよりも深いのです。


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