1.主との合一の事実

 御言葉に向かってこの事実を確立するのには、あまり長くかかりません。これをはっきりと確立するには、御言葉の一部分だけ取り出せばすみます。しかし、それ以上のことが遥かにたくさんあります。ヨハネによる福音書を例にとると、主との合一がこの福音書の大きな特徴の一つであることがわかります。まさに最初からこれが様々な方法で描写されています――二章、三章、四章、五章、六章もそうです――主との合一という様々な面を持つ一つの真理が示されています。次に、主がその描写と強調を終える時が来ます。これが御自身と弟子たち、弟子たちと御自身との間の関係の極めて深い現実であることを示した後、主は去ることについて話し始めます。遅れることはなく、間もなく去ることについて、多く話されます。このような発言によって、主は弟子たちの間にかなりの不安を引き起こします。それで弟子たちは大いに困惑します。

 次に、この不安、恐怖、恐れ、心配が弟子たちの間である点に達した時、したがって、状況が圧倒的絶望に立ち至ろうとしていた時、主は慰めの言葉でこの状況をすっかり変えてしまわれます、「心配してはいけません……」。この時から主は続けて次のことを示されます。すなわち、主がそれまで合一について述べてきたことは、弟子たちとの間の主のいかなる地的関係よりも深くて強い性格を帯びた霊的なものにならなければならないのです。去って行くけれども、依然としてとどまっていることを主は示されます。主は天にいるようになりますが、依然として弟子たちの間におられます。この合一は途方もない現実です。これは地上における人々の関係よりも遥かに現実的であることを、主は極めて明確に話されます。

 この福音書からヨハネの第一の手紙に移ると、そこでもこの同じ事がどれほど強調されているかがわかります。「……私たちの交わりは御父との、また御子との交わりです……」。これがこの手紙の基礎です。その性質がこの手紙の中で展開されています。しかし、私たちはその性質について扱っているのではなく、天の主との合一という事実を見ています。

 これは異教における神と礼拝者たちとの関係のようなものではありません。異教の神々とその礼拝者たちとの間にはある関係があります。しかし、それを合一と呼ぶことは決してできません。これは創造主と被造物との間の関係ではありません。主人とその僕たちのような関係ではありませんし、職人とその道具のような関係でもありません。こうしたものはみな、ある関係を表していますが、決して合一を表していません。主が計画されたものは、そのような関係とは大いに異なっています。このような関係しか知らない人々が少なからずいるのではないかと、私たちは恐れます。神は彼らにとって創造主であり、彼らはその被造物です。神は彼らにとって神――おそらく唯一まことの神――であり、彼らはそのまことの神の礼拝者です。しかし、それは合一ではありません。神は合一を望んでこられました。これは聖書全巻を通して啓示されている偉大な事実です。


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