このことからナアマンは最終的にこの道具、命の器――この命は豊かな命であり、彼の内に働いている死に勝利する命です――と直接接触するようになります。しかしその時、彼の真の困難が始まります。彼が命本体と接触するようにならない限り、この人の真の状態は明らかになりません。彼は自分がらい病であることを知っています。すなわち、所有するすべてのものにもかかわらず重大な欠け目があること、この欠け目が直らない限り、人生は彼にとって結局のところ幻滅させるものであり、決して満足を与えられないものであることを知っています。すべてが影で覆われています。この一つの欠け目のせいです。しかしながら現実には、この人の状態全体の真の性格は、彼を解放する手段と直接接触するようにならない限り明らかになりません。その時、別の種類の過程が始まりますが、これは最善の状態にあったとしても天然の人がいかなる性質のものなのかを真に私たちに見せています。

 これをすべて一つの包括的文章にまとめると、彼の困難は十字架のすべての意義を受け入れることだった、と言えます。自分が重大な必要を抱えている事実を彼は受け入れることができます。自分の必要はある道順で全く満たされるという事実を受け入れることができます。そして、自分の必要を満たしてもらうために、その道を進む覚悟もあります。しかしその時、この道が意味する完全な意義に出くわします。そしてその時、その意義を完全には受け入れられないことに気づきます。彼は天然の人なので、自分自身の資質を多少は認めてくれるよう求めます。自分自身の人となりを考慮してもらうことが必要です。彼は評判の良い人であり、尊敬を受けています。したがって、彼の立場にふさわしい相当立派な方法で扱ってもらわなければなりません。こういうわけで、彼にとって、また彼の立場から見て極めてみすぼらしい方法を採用してその道を進むよう提案された時、彼は自分がパウロの言う「十字架のつまづき」に直面していることに気づきます。「ダマスコの川アバナとパルパルはイスラエルのすべての川水にまさるではないか。私はこれらの川に身を洗って清まることができないのであろうか?」。私のような者には立派な方法、もっとふさわしい方法があるのだ!これが彼の問題の根幹です。

 これは多くの方法で適用できます。様々な人が別の道筋でこの同じ行き詰まりに直面します。知的行き詰まりに直面する人もいます。彼らは知的救いを受けることに固執します。すべてを自分の知性で了解できない限り、それは彼らにとって考慮に値しないもの、自分にふさわしくないものです。他の人々は自分たちの素養にふさわしい他の器や他の手段によって救いを受けることに固執します。しかし、それがどうであれ、神には十字架によって示されている御自身の立場があります。神が髪の毛一筋ほどでもこれから逸れることは決してありません。神の立場は徹底的自己放棄です。これが十字架です!ヨルダン川に行くことは、名声、地位、栄誉、天然の人の領域にあるそのようなすべてのものを完全に放棄することを意味します。そうしない限り、ヨルダン川には決して辿り着けません。ナアマンは他の群衆が戦いに直面したように、この全く同じ立場に関して戦いに直面したかもしれません。しかし遂には、自分を全く無価値な者と見なして、自分のことを全く顧慮しなくなる境地に達しました。ヨルダン川の水は人に対する神の裁きを依然として象徴するものである以上、それは人をとても低い所に置いて、名声も栄誉もない者に低めます。天然の人が空っぽにされて、神の前に何の価値もない者と見なすようにならない限り、突き抜けて主の豊かな命に至ることは決してできません。

 これらは単純な真理ですが、未信者にあてはまるのと同じように信者にもあてはまります。長年の間、十字架の完全な意義は主の民の前に明確に保たれてきませんでした。不幸なことに、福音の宣べ伝えの大部分は人の満足、人の益と祝福しか強調してきませんでした。その結果、後になって、数年後、主は天然の人を排除するものとしての十字架の事実を痛感させなければなりません。その結果、私たちはクリスチャンを聖別するために大会や特別集会を開かなければなりません。しかし、聖別とは実は全き明け渡しの問題です。しかし、これは何と明らかな間違いであることか。これはみなまさに最初のうちに何も保留せずになすべきことだったのです。十字架の完全な意義がまさに最初から示されていれば、信者は最初から大会の水準に基づいて生きていたでしょう。私たちはみな、この間違いの被害を受けてきました。私たちの大部分、私たちの多くは、大いなる弱さと効率の悪さの中でもがきつつ年月を費やしてきました。私たちに関する十字架の完全な意義を最初から全く見ていなかったためです。私たちはカルバリが罪人のための救いであることは見ましたが、カルバリはその人自身を排除したことをはっきりと見ていなかったのです。これを見る時はじめて、私たちは豊かな命に到達します。私たちは自分の天然の命からとても多くのものを新創造の立場の上にもたらしてしまいました。そして、それを用いようとして、それが絶えざる重荷であり障害であること、それに対して、すべては神からでなければならないことを十字架は意味することに気づきました。この「すべて」は包括的・総括的な「すべて」です。

 ナアマンに対して十字架の完全な意義が示されました。彼の肉は少しも顧慮されませんでした。彼の肉のための備えは何もなされませんでした。彼は華やかに従者を引き連れてエリシャの庵に来て、人を遣わして自分の到着を知らせました。しかし、預言者は椅子から立ち上がってどんなに素晴らしい人なのかを見ようともしませんでした。彼は自分の作業をひたすら続けて、「ヨルダン川へ行って七回身を洗いなさい」と言いました。この誉れ高い人は自分を無視されたことに傷つき、憤慨して立ち去って、「見よ、私は、彼がきっと私のもとに出て来て立ち、その神である主の名を呼んで、その箇所の上に手を動かして、らい病を治すと思っていた」と言いました。エリシャの態度は、「断じてそんなことはしません。私は肉に敬意を払いません!」というものでした。神は天然の人を少しも顧慮されません。


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