ピリピ人への手紙第三章を見て下さい。そこでパウロは価値のあるもの、人々が尊んで持つ価値があると見なすものを挙げていますが、それらすべてを踏み越えて行きます。そして、それらすべてを要約して言います、「結局のところ、それらのものが人の目にいかに偉大に映ったとしても、私はそれらを塵芥と見なします。私はあらゆることで損失を被っていますが、それは私がキリストとその復活の力とを知るためです」。この女はこれをとても深く知るようになりました。息子が与えられましたが、これはまったくもって驚異でした!しかし、それでも依然として、「その理由は天然的に説明がつくものであり、子が与えられたことは天然的な理由で何とか説明がつくのではないか」という考えが残っていたのかもしれません。心理学はこれまで、神が目的をもってなさる神だけが行える働きの領域全体を、攻撃する傾向がありました。しかし神は、これが全く自然の領域の外側にあったことを示されます。ですから、息子は死んで、生き返らされます。そして、それを押さえていた天然の疑問はすべて封じられます。死者からの復活という問題になると、天然的なもののための余地は全くありません。これが究極的証しです。これを説明できるのは「神」をおいて他に何もありません!復活とは神を知ることです。心理学はクリスチャンの経験の多くを説明しようとします。そして、私たちの中には、宗教的経験の心理学的説明のせいでとても痛ましい経験をした人もいます。しかし、主は私たちをその領域の外側に置いて下さいます。それは、心理学が決して説明しえないもの、「キリストとその復活の力」を私たちに知らせることによってです。心理学は死者をよみがえらせることができません。キリストの復活の力という理由以外では説明がつかないような仕方で主を知ることには、隠れた内的な経緯があるのです。

 証しはここに極まります。これは、イエスは死者の中からよみがえらされた、という証しです。これは証しの基礎にすぎないかもしれませんが、たんなる信条や教理ではなく、復活の主を内的に知る知識です。原則として、すべての疑問が払拭されるまで、これがこの女のまさに存在中に造り込まれなければなりませんでした。その全き御旨は何だったのでしょう?子たる身分です。ローマ人への手紙の八章とガラテヤ人への手紙を読んで、子たる身分が何なのか、その完全な意味を見て下さい。子供が生まれた時、それはわれわれが再生によって神の子供となることについて新約聖書が述べていることを示すものでした。子供がよみがえらされた時、それは復活による子たる身分について新約聖書が述べていることを示すものでした。新約聖書が二つの異なるギリシャ語で教えているように、私たちは新生によって神の子供(children)になりますが、子たる身分(sonship)は幼年期の先にあるものです。子たる身分は、子供が復活の力によって円熟にもたらされたものです。ご存じのように「採用(adoption)」という言葉が使われています。しかし、新約聖書が言う採用とは、外部の者を家族に迎え入れることでは全くありません。これが意味するのは、自分の子供が成年に達した時、その子を誉れと責任ある地位に採用することに他なりません。ギリシャ人の父親は、自分の息子が成年に達した時、その子を採用しました。それが、その子が子供(child)ではなくなって息子(son)になった瞬間でした。これが新約聖書の教えです。

 ここに子供を得た女性がいます。これは素晴らしいです。私たちが再生される時、それは奇跡であり、輝かしいことです。しかし、主が私たちに様々な経験を通らせて、私たちのまさに存在中にキリストの復活の力によってキリストを知らしめる時――これは私たちの外側でなされることではなく、私たちの内側になされたことです――私たちがどん底を通らされて、遂には私たちのまさに内側でキリストとその復活の力とを知るようになる時、それこそが証しです。満ち満ちた証しと関係があるのは、霊的赤子ではなく、霊的円熟です。この女は偉大でしたが、それでも「しかし」がありました!私たちは多くのものを持っているかもしれませんし、私たちのクリスチャン生活や働きにおいても多くのものを持っているかもしれませんが、それでもこの「しかし」が残っているかもしれません。外面的なもの、表面的なものがたくさんあるかもしれません。肝心なのは、これが私たちの内なる存在の深みに降りてくることです。それは、私たちが自分の存在のまさに本質において、復活であり命であるキリストを知るようになるためです。

 この立場に到達するとき初めて、主の民は主の全き証しの器に成ることができます。これが、主がいま子供である私たちにどん底の経験を通らせる理由です。それは私たちがキリストを知ることを学べるようになるためです。

 どの方面でもこの原則は同じままです。周囲にいる敵勢との戦い、私たちに責任がある集会の奉仕、生活、主の全き御旨に至ること、そのどれについてもこの原則は同じままです。この一つの支配的原則とは「キリストとその復活の力」であり、主の復活の命を知ることです。


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