二章七節に進むことにします。この出来事の後、エリヤは携え挙げられ、その外套は落ち、エリシャはヨルダンの水を打って、「エリヤの神、主はどこにおられますか?」と叫びます。すると、水は左右に分かれて、エリシャはその間を通りました(二・十四)。

 これから十五~十六節に至ります。ここには進展、良い動きがあります。今や、預言者の息子たちは、エリシャのこと、神が彼にしてこられたこと、神が彼に与えた地位を、幾分認識します。エリシャは復活の力を現していることを思い出して下さい。預言者の息子たちがこれをこのような言葉で表現しなかったことは、間違いありません。しかし、彼らの行動を霊的に解釈して解き明かすとこうなります。すなわち、彼らは復活の力の絶対的卓越性を認識し、受け入れ、生活の中でそれに服したのです。つまり、これが自分たちをも支配しなければならないこと、自分たちの全生涯、奉仕、前途は復活のキリストの支配の下になければならないことを、彼らは理解して受け入れたのです。彼らは自分たちの務めをキリストの復活の力によって果たさなければなりません。「復活の命が支配しなければならない」という原則に基づいて、復活の主に服さなければなりません。これが霊的解き明かしです。これが、ここでのエリシャの立場の典型的意義であり、この原則を認識して受け入れ、それに服した預言者の息子たちの典型的意義です。しかしさしあたって、これは形式的かつ外面的なものにすぎませんでした。つまり、エリシャが霊的に真に示していることの意義や真価が、まだ彼らの内に造り込まれていなかったのです。

 これを今経験して適用すること、これがまさに意味するのは、ある偉大な事実、包括的事実に直面する時が来る、ということです。その事実とは、その時から先、生活と務めはすべてキリストの復活の力によるものでなければならず、他の力はまったくあってはならない、というものです――復活の主の復活の命の絶対的主権、統治、支配の下になければなりません。私たちにこれが示されて、私たちはこれを見、守り、考慮して、「確かに、これは真実です。これが真理であることはわかります。私はこれを受け入れ、これに明け渡し、これに服します」と言うかもしれません。そのつもりです。それから逃れることはできません。それに反駁することはできません。これは私たちにとって決定的真理です。それに黙って従います。それは憤りを催すものではありません。これは私たちのための神の道であること、神がこれを定められたこと、神の御旨はこれであることがわかります。そして、この預言者の息子たちのように、それに従い、その時から、復活のキリストという偉大な真理、キリストの復活の命の統治という偉大な真理に同意するようになります。私はそれに自分を委ね、明け渡し、それを受け入れます。その時から、これは私の生活の第一原理になります。

 このような境地に預言者の息子たちは達しました。私たちもそこに達します。しかし依然として、このような立場を受け入れることと、その意義を自分の存在のまさに本質中に造り込まれることとの間には、大きな違いがあります。その時から、これは彼らの中に実際に造り込まれなければならなかったことがわかります。それは、これを知性で理解して一般論として受け入れるだけでなく、実際に経験するためです。


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