エリシャが示していること

 エリシャが何を示しているのかに進む前に思い出さなければなりません。彼は復活の命の力、死に打ち勝つ命、十字架の完全な結果を示しています。エリシャの起源はヨルダンにあり、そこから彼は始めました。ですから、次のことが分かると思います。エリシャが預言者の未熟な息子たちと関わっていたとき、彼らは自分たちの務めにとって何が本質的なのかをエリシャから教わっていたのであり、その教えをエリシャ自身が体現していたのです。つまり、エリシャがすべての務めに必要不可欠な要素を持っていることを彼らは見るようになったのです。

 第二章の、ベテルとエリコにおける、この預言者の息子たちに対する最初の言及を取り上げましょう。彼らは言いました、「主が今日、あなたの師事する主人をあなたから取られるのを知っていますか?」。ここで、とても初歩的なことから始めることにします。おそらく、言及するにはあまりにも初歩的すぎるかもしれません。しかし、この中の誰かはこれに注意を払う必要があるかもしれません。この章のこの時まで、これらの預言者の息子たちはエリシャを敬っていなかったことがわかります。それどころか、彼らはやや軽々しいぶしつけな態度で彼に話しかけます。エリシャはたんなるエリヤの僕と見なされています。ですから、この偉大な主人が先に進んで行って、エリシャが彼と一緒にいるのを見るたびに、彼らはぶしつけにも、「主が今日、あなたの師事する主人をあなたから取られるのを知っていますか?」と言ったのです。エリシャは単なるエリヤの僕であり、彼らの態度、姿勢、言葉が、「自分の方が優れている」という彼らの考えを表しています。

 これは霊的高ぶり、欺瞞です。彼らはこの平信徒を少しも尊敬していませんでした。彼らは預言者の息子です。主の働きの道の中にあります。「奉仕するよう召されて」います。公職者のような風格があります。この人には何の官職もなく、最近主人に従うようになったにすぎません。主人が行く所に僕はどこにでも行きます。その霊的意義を彼らは何も感じません。だから、彼を見下します。エリシャが神と共に過ごした隠れた過去を何も知りません。神がエリシャに何をしておられるのか、彼らは全く感知していません。だから、このような高ぶった姿勢、おそらくは見下した姿勢を取ったのです。

 これから、とても初歩的な要素が分かります。しかし、この要素は現代の預言者学校では珍しいものではありません。これはこの施設が抱えている危険性の一つです。ああ、主に仕えるには「召し」を受けなければならない、という危険性。ああ、主に仕えるための「召し」の危険性!ああ、「自分は主に選ばれた」という意識の危険性!同じようにこの召しを耳にして選ばれていない人々とは違う、と思ってしまう危険性!霊的未熟さの印の一つは――顕著な特徴ではないかもしれませんが――欺瞞、高ぶりです。これはとても厳しい言葉です。膨大な知識があるかもしれません。その知識はどれも、特別な大学だけでなく一般的な学派でも与えることができるものです。聖書の教えを極めて包括的に理解しているかもしれません。そしてそれに付随して、霊的高ぶりと優越感があるかもしれません。この道に入らなかった人々、これらの学校を卒業しなかった人々を、何か劣った者と見なしてしまうのです。このような知識がどれほど包括的で膨大なものだったとしても、もしそこにこのような霊的優越感の痕跡が一つでもあるなら、「未熟である」と即断することができます。それは霊的成長を少しも示すものではありません。このような人々は最初から学びなおさなければなりません。「霊的高ぶり、優越感、欺瞞から私たちを救って下さい」と絶えず主に求めようではありませんか。「欺瞞」という言葉の意味は、「諸事を自分の内に持つ」ことに他なりません。私たちは時々、「問題の根源は自分の内にある」と言いますが、この句はそれとはまったく違った意味です。欺瞞の反対は、すべてを主の内に持ち、自分の内には何も持たないことです。これが霊的成長です。

 ここでは、預言者の息子たちのあまり良くない面が示されています。しかし、彼らは未熟な準備段階にあったことを思い出さなければなりません。むしろ、彼らの例から私たちに対する警告を受けなければなりません。神はエリシャの内に何かをしておられました。神は御手をエリシャの上に置いておられました。エリシャと主、主とエリシャの間には、他の誰にも見えない内なる歴史がありました。公職にある人々はまったくそれを見抜くことができず、そのせいで誤解しました。私たちも注意しようではありませんか。主が他の人々の生活の中でなさっている、まだ外側には現れていない働きを、「自分は才能ある、ひとかどの者である」と自惚れて、無視してはなりません。生活の中で進行している深い働き――主がなさっている目に見える働きは今はまだ現れていません――は、私たちには決してわかりません。

 「霊的高慢を帯びているものはみな、人を盲目にする」というのは至言です。それは霊的に視力を麻痺させます。ですから、いかなる自己充足も、神が他の場所でなさっていることを見えなくさせます。「主は自分たちと実際に密接な関係にあり、主の関心は最初から最後まで自分たちにしかない」と自己満足しているなら、主がどこか他の場所でなさっている働きを見ることは決してできません。高慢は人を盲目にし、霊的感覚を鈍らせます。もしエリシャが実際よりも器量の小さな人間だったなら、預言者の息子たちの軽薄でぶしつけな態度のせいで、酷く痛みを感じたとしても無理はありませんでした。しかし、彼は器量の大きな人であり、彼らに対するその後の関係から、彼が少しも恨んでいなかったことがわかります。彼は真に、自分が示しているものを生かし出していました。下界にいかなる関心も持たない生活、天的な生活、天上の生活を生きていたのです。


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