前に指摘しましたが、ローマ人への手紙の第七章の終わりの節と第八章の始まりとの間には何と大きな変化があるのでしょう。この同じ変化が列王記下のこの第二章にも見られます。ローマ七章をエリコの水の章と呼べるでしょう――呪いのせいで死と空虚さの中にあります。これは痛ましい章です。目標に到達できず、何もやり通せません。すべてが停滞していまいます――「何と惨めな人でしょう…」。第八章は命の中で進み通す扉を開きます。なぜでしょう?使徒がここに第七章を挿入したのは第六章の帰結である第八章の栄光を示すためだったからに他なりません。第六章はヨルダンです。「もし私たちが彼に結びついてその死の様に等しくなるなら、さらに、彼の復活の様にも等しくなるでしょう」。「私たちの古い人は彼と共に十字架につけられました。それは、この罪の体が滅びて、私たちがもはや罪の奴隷となることがないためです。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからです。もし私たちがキリストと共に死んだなら(中略)また彼と共に生きます。キリストは死者の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを知っているからです」。「このように、あなたたち自身も、罪に対して死んだ者であると見なしなさい」。パウロがいわゆる第七章をここに記したのは、これに完全に矛盾することを示して、「これは理論的には真実ですが、自分自身の経験には全く反します」と言うためでしょうか?いいえ!彼が第七章を書いたのは、第六章で扱ったことを示すためです。第七章は実は、第六章で対処された状態なのです。続けて彼は言います。「この状態は対処されており、これが私たちの真の立場であることが、今わかります。これは第六章のおかげです」。――「ですから、今や罪に定められることはありません」。「キリスト・イエスにある命の御霊の法則が罪と死の法則から私を解放しました」。第七章と第八章を一緒にすることはできません。例えば、「しかし、私の肢体の中には別の法則があって、私の思いの法則に対して戦いを挑んでいるのを、私は目にしています」「自分の欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っています」という経験を、「もはや罪に定められることはありません」という経験と共にすることはできません。パウロが述べているのは、第六章は第七章に見い出されるものを対処する神の方法であり、その結果が第八章である、ということに他なりません。それは開けた道を切り開くキリストの復活の力であり、競技場で死体を引きずって行き詰まっているこの人は、この出口の無い人生、この目標に到達することのない人生から抜け出して、キリストの豊かさへと至る開けた道の中に入ります。なぜなら、復活の立場の上にあるからです。

 キリストは眠った者たちの初穂であり、私たちはこの初穂を持っています。ですから、私たちは初穂であるキリストと復活の中で結ばれています。初穂は常に、それに続く収穫全体の保証として刈り取られます。それに続く収穫はすべて、素晴らしい収穫になります。その一部として、私たちの体の贖いもあります。


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