さて、注意して下さい。私たちは初穂を持っている、とパウロは述べています。これは真実ですが、私たちの存在の中には依然として空虚な領域の下にある部分があります。私たちの体は依然として死の支配下にあります。私たちはまだ完全には贖われていませんが、御霊の初穂を持っています。すでに私たちの内におられる御霊により、復活の命を持っています。これが御霊の初穂であり、希望の根拠です。私たちの内側にはすでに復活の命が宿っているので、私たちの体もまた復活することが保証されています。

 これには現在、どのような益があるのでしょう?「ですから、今や罪に定められることはありません……」。裁きや呪いはありませんし、神の呪いの下にとどまることもありません。「ですから、イエス・キリストにある者たちは、今や罪に定められることはありません。なぜなら、キリスト・イエスにある命の御霊の法則が、罪と死の法則から私を解放したからです」。主イエスの復活により、私たちは呪いから――すなわち、空虚さをもたらす死から――解放されています。そして、進み通して神の御旨に到達できる地点にもたらされています。もはや空虚さが私たちの上にとどまることは全くありません。もはや足止めを食らうことはありません。ある点までは進むのですが、そこで終わりで、それ以上進めない、という立場にはもはやありません。今、進み続けることができます!命の実は成熟に達することができます。なぜなら、呪いによる死の力は、キリストの復活の力によって無効化されたからです。罪定めは取り除かれました。

 キリストの外側にあるすべての人々の上にとどまっているこの大きな罪定めは別として、次のことは真実ではないでしょうか?すなわち、敵からの罪定めの霊の下に落ち込むことを自分に許すなら、私たちはたちまち捕らえられてしまい、その結果、それ以上進めなくなって、手前で立ち止まり、、私たちの生活のすべては枯れ果てて、実は落ち始めてしまうのではないでしょうか?これが罪定めの効果です。敵は常に神の子供たちを罪定めの立場に戻らせようとしています。それは、キリストの復活の証しを覆すためであり、復活の立場に基づくキリストとの合一の実を台無しにするためです。自分がローマ八章一節の立場にあることを絶対的に確信しておらず、この問題に決着をつけていない人々は、大して進歩しない人々です。そこそこ進んで停止してしまい、その実は熟す前に落ちてしまいます。つまり、彼らは確信をもってはっきりと、「キリスト・イエスにある者たちは、もはや罪に定められることはありません」と確証できる人々ではありません。また、さらに進んで、「キリスト・イエスにある命の御霊の法則が、罪と死の法則から私を解放ました」と確証することもできません。私たちはこれを喜び確信しつつ生きなければなりません。その確実さと素晴らしさに浴しつつ生きなければなりません。すべてを駄目にする敵の力は、私たちが次の事実を見るとき滅ぼされます。その事実とは、私たちの立場は主イエスの十字架に根ざしているということ、そして、私たちはキリストの復活の力により、油塗りの聖霊により天におられるキリストと結ばれているため、もはや罪に定められることがなく、キリストの豊満に至らずにいるべきいかなる理由ももはや存在しないということです。私たちがこれを悟る時、敵は力を失います。


オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ

コメント
トラックバック
トラックバックURL
コメントフォーム
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
全記事表示リンク
検索フォーム
個人のブログに関するリンク集
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

電子書籍
Glorious Secret
ジェシー・ペン-ルイス
「栄光の奥義」


The Cross of Christ
アンドリュー・マーレー
「キリストの十字架」


ランキングサイト
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ

人気ブログランキングへ ブログランキング

ブログのまどランキングへ ブログ王へ

ブログランキング【くつろぐ】

QRコード
QR
カウンター

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ