エリシャは試みを通り抜けました。一方において、彼自身の主人が試みの原因であり、他方において、霊的な立場にある人々、すなわち預言者の息子たち――霊的知識を持っているはずの人々――は励ましどころか、むしろ落胆させるものでした。多少なりとも公的に霊的地位にあるがゆえに助けとなるべき人々がまったく励ましにならないことが、あまりにも頻繁にあります。私たちを引き戻そうとするのです。私たちに残されているのはただ、「主は私を召して下さいました。私はそれを承知しています。主は私をこの道に導いて、私が取ったこの一歩を踏み出すようにされました。私は自分の橋を燃やし、全ての絆を断ち、主に向かって踏み出しました。今、私がこうしたのに、主は私を試しておられます。私に確証や励ましを少しも与えて下さらないように思われます。主の公的な代表者たちは全く助けになりません。それにもかかわらず私はそれを固持して、神と共に進み続けます」ということだけです。このように進み続けることのできる男女は、神にとって価値あるものとなります。

 召命と思われる道を行くとき、あらゆる方面から励ましを受けるのはとても素晴らしいことです。主が同行して下さって、あらゆる方法で召しを確証して下さるなら、そして、他の人々がみな、「私たちはあなたの味方であり、あなたを支持します。私たちはあなたを支援して支えます」と言ってくれるなら、それはとても素晴らしいことです。私たちはその道を元気に進んで行けます。しかし、主が特別かつ明確な御旨や主権的行動を私たちに示して下さらない場合はどうでしょう。主が御自身を隠されて、私たちが目にするのはむしろ前進を阻もうとするものの場合はどうでしょう。主の側から見てもそうだったらどうでしょう――最大の困難の一つは主が御自身を隠されることです。ですが、主はそこで隠れて事を行っておられ、見事に事を運んで拡大と豊かさに導いて下さいます。ただしその間、主は肉が手にできるものを何もお許しになりません――このとき重要なのは神と共に進み続ける信仰です。主が御自身を隠して、私たちを落胆させるものを視野の中にたくさん残しておられるかのように思われる時でも、神と共に進み続ける信仰が大切です。そのような時、その中に立ち入れる人は誰もいません。目を向けて何か助けを得られそうな他の人々は、私たちに対して何の役にも立ちません。彼らに言えるのは憂鬱なことだけです。「主が今日、あなたの師事する主人をあなたから取られるのを知っていますか」。エリシャはこれに対して少しもイライラしているようには見えません。こんな風に言えたかもしれません。「あなたたちは病んでいる人々です。もっとましなことが何も言えないなら、私がすぐにあなたたちを黙らせましょう!」。彼らはまったく元気を与えてくれません。励ましを求めて私たちが目を向ける人々も、おうおうにしてこうです。彼らは困難や、物事の暗い面を見て、私たちが頭を突っ込むことになる問題や、私たちに襲いかかるであろう災いについて私たちに告げます。問題は、「あなたは神と共に進み続けるのか?」ということです。エリシャは進み続けました。御言葉は「彼ら二人は進み続けた」と述べています。さらに広い場所に至る何か、主にとって重大な何かがここにあります。


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