次に、われわれの宝は土の器の中にある事実をわれわれは悟らなければならない。「主が私たちに語って下さっている」とか、「主がわれわれを導いて下さっている」という強烈な思い込みに気をつけるのは悪い考えであるとは、私は信じない。「主が私にこれを語られました」「主が私にこれをするよう仰せられました」「夜、主が私に語られる夢を見ました」という言葉を、われわれはたびたび耳にする。さて、人々に語りかけるのは主ひとりだけではない。聖霊はわれわれを導いておられる。それは確かである。しかし、聖霊の導きは三重であり、常に声によるとは限らない。摂理、書き記された御言葉、霊的直感やわれわれの思いに臨む印象――まるで耳に聞こえる声のように鮮明なこともある――によることもある。しかしわれわれは、霊を試すよう命じられているように、声も試さなければならない。なぜなら、サタンの語りかけも度々あるからである。サタンは腹話術師であり、まるで自分があなたの存在の中心にいるかのように声を発することができる。そして、それを主の語りかけのようにあなたに思わせようとする。イエスの足下にひれ伏して、書き記された御言葉によってすべての霊、すべての声を試そうではないか。聖書をでたらめに開くことや、まるで宝くじのような他の方法で、声を聞くことができると主張する人々もいる。そのような方法を主は用いられない、とは言わないが、そういった方法が信頼できるものとは限らないことは確かである。こうした方法や他の方法によって深刻な過ちに陥った人もいるのである。

 ギデオンが羊の毛皮を広げて、「羊の皮は湿っていて、その周りの地面は乾いているようにして下さい」と求めるのは一向に構わなかった。彼が羊の毛皮を二度目に広げて、「羊の皮は乾いていて、その周りの地面は湿っているようにして下さい」と求めた理由も分かる気がする。しかし、われわれは今まったく異なる経綸の中におり、主は御言葉、摂理、御霊によって語られるのであって、しるしによって語られることはそれほど多くないのである。

 「自分のメッセージは神の権威に由来すると思い込むことに注意せよ、むしろメッセージをしてその証拠たらしめよ」という昔のクエーカの条項――私はその下で育てられたのである――は悪いものではなかった。もしあることが神聖なら、その正しさは自ずと明らかになる。人々が自分のメッセージを生み出す前にそれに値札を貼るのを私は時々見てきた。しかし、生み出されたメッセージに値札分の価値はなかったのである。聖霊はわれわれの益をことごとく心に留めていて下さる。そして、御旨を見いだす時間をわれわれに与えて下さる。慌てて奇妙な声を追いかける必要はない。最上の極めて堅固な確信は、一人っきりで御前に退いている時に形成される。たいてい、誰かにせっつかれているように感じる場合、それは悪魔であり、少なくとも疑いのまなざしで見るべきである。主はとても親切で優しい方なので、ある事柄についてあなたに何らかの疑問がある場合、それを考慮して試す時間を与えて下さる。天から発した確信を得て、それについては決着済みであると感じるようになるまで、保留する時間を与えて下さるのである。


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