イエス以外に模範はなく、聖書以外に律法はない。われわれは新約聖書をわれわれの行動規範として、イエスをわれわれの唯一の模範として受け入れなければならない。われわれはお互いを模範とすることを拒否しなければならない。経験、実演や感情、感覚やいかなる種類の見せかけにも倣ってはならない。他の誰かの生活で自分を測ることはできない。他の人はあなたより長く砥石車の上にあったかもしれない。何年も研磨紙で磨かれてきたかもしれない。罪はわれわれの生活の中から瞬時に除き去られるが、角やざらざらしている所は一度にすべて除き去られるわけではない。あなたがあるクリスチャンを自分の模範とするとき、その人は着飾ってしっかりしており洗練されているかもしれないし、あなたが始める前に、神は何千ドルにも値する恵みをその人に注いできたかもしれない。しかし、その人があなたより若干進んでいるからといって、その事実に落胆してはならない。忍耐して主に信頼するなら、主はあなたのことも砥石車の上に乗せて磨き上げ整えて下さるので、あなたは叫ぶだけでなく輝くようになる。自分より六ヶ月進んでいる人と自分とを比較してはならない。われわれは彼らに追いつくよう最善を尽くすべきだが、神がわれわれ自身の生活の中に授けて下さった恵み、力、能力に落胆してはならない。多くの時、われわれには自分の内にある最善のものが見えない。聖められた人は自分を見ることをあまり好まない。モーセの顔は輝いていたが、彼はそれを知らなかった。人々が自分自身の経験や他の人の経験ばかり見ている時、彼らは輝きを失う。われわれの唯一の仕事はイエスを喜ばせることである。この一事をあなたの目標とせよ、「私は後にあるものをすべて忘れてこの一事に励んでおり、突き進んでいる」。標準はイエスである。われわれは彼に注目しなければならない。彼を見つめ彼に耳を傾ける時、主の喜びがわれわれの魂の中に注がれて、われわれは神聖な力を帯びる。御名に栄光あれ!


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Re: No title

プー様

主イエス・キリストの御名を賛美します。

コメントを拝見して、友人を思いやるプーさんの優しさは素晴らしいと感じました。

ところで、プーさんの友人が受けたバプテスマの有効性についてですが、やはり信仰を伴わないバプテスマには効力が無いと思います(マルコ十六・十六、ローマ十・九~十)。しかし、プーさんも指摘しておられるように、効力の無いバプテスマでも、それがきっかけでその後キリストに導かれることもあるかもしれませんので、プーさんの友人のために祈る必要があると思います。

また、キリスト教会の大多数が「父、子、聖霊の御名(単数形)」(マタイ二十八・十九)によってバプテスマを施しているのは事実です。しかし、プーさんも指摘しておられるように、新約聖書の中には「イエスの御名による」バプテスマも出てきますので、イエスの御名によるバプテスマでも何ら問題は無いと思います。

それから、「御名」とは何か?というご質問ですが、これは単純でありながら奥が深い問題です。通常、「名」と言えば「実体を指し示す記号」にすぎないわけですが、もっと深い意味でこの言葉を用いている箇所が聖書にはたくさんあります。例えば、旧約において宮は「御名」を住まわせるために主が選ばれた場所でしたが、それは同時に主の臨在が宿る場所でもありました。このことから、この場合、「神の御名」=「神御自身」だったことが分かります。これをマタイ二十八・十九にあてはめて意訳すると、「父と子と聖霊の三つの格位からなる唯一の神の中へと(into)バプテスマしなさい」となります。ちなみに、日本語の聖書では「父と子と聖霊の名によって(by)」と訳されていますが、これは原文の意味をあまりよく伝えていません。本来は「父と子と聖霊の名の中へと(into)」と訳されるべきものです。こう意訳するとバプテスマの意義がいっそう明瞭になります。つまり、バプテスマとは三位一体の神の中へと信者を浸し込んで、信者を三位一体の神と有機的に一体化するものなのです(この有機的結合は例えばヨハネ十五章のブドウの木のたとえ話などに明確に示されています)。ですから、「聖霊の御名は何か?」と思い悩む必要は全くなく、ただ三位一体の神と一体化された事実を単純に喜べばいいのではないでしょうか。

プーさんの友人をバプテスマした教団は、調べたところ、いわゆるワンネス異端の嫌疑がかけられているようです。ですが、今のところ、「いわゆる三大異端ほど酷くはない」というのが私の率直な感想です。この件については、今後も動向を見守りたいと思います。

どうかプーさんと友人の上に主のゆたかな恵みとあわれみがありますように。

オリバー

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Re: 断食の祈り

プーさま

年末年始のドタバタで返事が遅れてしまい申し訳ありません。

病の癒しの祈りについては、1)癒しの受け手の問題と2)祈り手の問題を分けて考える必要があります。まず、癒しの受け手の側についてですが、癒しの受け手には癒されるのに十分な信仰が必要です。例えば主イエスの場合、癒しは常に受け手の信仰に基づいてなされました。そのため、信仰の無い所では癒しを施すことができませんでした。次に、祈り手の側についてですが、こちらにも当然信仰は必要ですが、それだけでなく主から授かった霊的権威が必要です。使徒たちは病を癒す霊的権威を主から授かっていたので、病に「命じる」ことすらできました。ブルームハルトや柘植不知人らは、おそらく命じる祈りはしなかったでしょうが、主から授かった霊的権威があったので、彼等が祈ると病人は癒されました。このことから、最も重要なのは霊的権威であって、祈りの形式は二の次であることが分かります。

それから断食については、「この類のものは祈りと断食によらなければ追い出すことはできない」(マタイ十七・二十一)という主イエスの御言葉から、特別な効果があることが分かります。しかし同時に、聖書は多くの箇所で真の断食と偽りの断食について述べています。有益なのは真の断食だけであって、偽りの断食は有害無益です。ここで、真の断食と偽りの断食の違いは何か?という問題が生じますが、両者の決定的違いは内面的動機にあります(マタイ六・十六~十八等)。通常、真の断食では、主から何らかの霊的負担を受けて、その負担の重さのあまり自然に食事ができなくなり、結果的に断食することになります。ですから、最も重要なのは霊的負担であって、断食はその外面的現れにすぎません。結局のところ、このような霊的負担の有無が、真の断食と偽りの断食を分ける分水嶺です。

信仰、霊的権威、霊的負担の三者が揃う時、新約聖書に描かれているような諸々の奇跡が自然に現出することを、キリスト教会の歴史から見ることができます。そして、この三者は通常、霊的成長に伴って増し加わります。ですから、主の民が霊的に成長して成熟に達する時、初代教会を上回る様々な奇跡が自然に生じるようになるでしょう。すでに、その兆しが現れつつあります。

どうかプーさんの上に主の豊かな恵みがありますように。

オリバー

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