私は言いたい。いとも容易にわれわれに絡みつく罪を、われわれは捨て去るべきである。この絡みつく罪は生来の罪である。先日、ある人が「私の絡みつく罪はせっかちさです」と言った。「私のは高慢です」と言う人もいるし、それは「自己中心性」等であると思っている人もいる。しかし、それは誤りである。絡みつく罪は生来の罪であって、高慢、短気、悪意、自己中心性、怒り等は、その副産物である。生来の罪は、この一覧全体の原因である。邪悪なあらゆるものの温床であり、根株である。老女が言うには「困らせる罪」である。人に不親切なことをさせる罪である。自己否定や無私の心から人を遠ざける罪である。生来の罪は、真のクリスチャンではあるのだがまだ聖められていない人の生活の中にあるあらゆる不正行為の原因である。それを取り除く行動を終えて、「自分はそれを取り除いた」と言う人が、とても大勢いる。しかし、その誤りを彼らの生活が証明している。生来の罪は、たんなる暗示や、しるしや、決意では、その霊的性質を手放そうとしない。叫んで追い出せるとか、数回跳ねれば威嚇して追い出せると思ってはならない。肉的な性質が人の魂にその牙を突き立てており、あなたの存在の繊維そのものを握っている。そして、そのかぎ爪をあなたの道徳的性質の最も深い部分に隠している。神の全能の力があなたの魂の上に臨んで、それに去るよう命じない限り、それは決して去らない。多くの人は思い違いをしている。聖められたと思っていても実はそうではない人々が、今朝ここにいる。生来の罪は狡猾であり、欺瞞的であり、説得力を持っている。

 生来の罪は古い人、罪の体と呼ばれることもある。古い人は、魂の中にとどまることを許されさえするなら、あらゆる種類の取り扱いや懲らしめによる服従を耐え忍ぶことにも同意する。とどまることを許されさえするなら、極めて狭苦しい不快な片隅に行くことにも同意する。古い人は消滅することを恐れる。残酷な行為や排斥されることに、断固として反対する。

 十字架は厳しい道であり、古い人はもっと楽なものを求める。しかし、罪の体の真の磔殺だけが、クリスチャン生活における不正行為の治療法である。神に感謝すべきことに、本物を得ることは可能である。聖霊と火のバプテスマは肉的性質を滅ぼし、われわれを安定させ、他のどこにも見いだされない堅実さをわれわれに与える。

 これはわれわれを重みのある者にし、つまらない、軽薄な、馬鹿げたものをすべて除き去る。いわゆる聖潔派の人々の間に見られる軽薄さのゆえに、深い心の痛みを覚えることがよくある。全く聖められた魂は堅実になって、ある種の霊的落ち着きと確固たる目的をもって進むので、いかなる困難や試練に遭うよう召されたとしても、自分の道を進み続ける。


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