代表者であるひとりの人

 おそらくあなたは、「これは言葉としては美しく、思想としてはとても素晴らしいです。しかし、その実際的価値はどこにあるのでしょう?」と思っておられるかもしれません。ああ、それこそ福音であることがわかります。「神の御子である主イエスがやって来て、人の立場を取り、完成されて、神を完全かつ決定的に満足させられたのは、神がひとりの人によって満足を得るためだけだった」とあなたは思っておられるのでしょうか?いいえ、福音とは次のことです。すなわち、主イエスは神が獲得しようとしておられるすべての人の代表者なのです。彼は代表であり、すべてを含んでいます。この昔ながらの美しい福音のはじめに、あなたも私も長きにわたって親しんできましたが、私たち自身を静めてもらうために、これをもっとよく把握する必要があります。その福音とはこれです。神の御子であるイエス・キリストは一つの領域であって、私たちはこの領域の中に召され、招かれ、信仰によって入るよう招待されているのです。それは、私たちが彼の中に隠れて自分自身から逃れるためです。神がご覧になるのはただ彼だけであって、私たちではありません。素晴らしいことです!あなたは自分の理屈や疑問をすべて捨てて、神の事実を受け入れなければなりません。「キリストにあって」というこの句は新約聖書の中に二百回以上出て来ますが、これにはきっと何らかの意義があるに違いありません。

神は私たちをキリストの中にご覧になる

 これが意味する第一の点、そしておそらくすべてを包括する点は、もしあなたがキリストの中にあるなら、神はあなたを見る代わりにキリストをご覧になるということです。ここに小さな紙が一枚あります。この紙はあなた自身や私自身、ありのままの私たちだとしましょう。この紙を一冊の本にはさみます。この本はキリストだとします。すると、この紙はもはや見えなくなり、本しか見えません。これが「キリストにある」私たちの立場です。これがキリストの意義です。キリストは神を満足させておられますが、それがすべて私たちの口座に繰り入れられているのです。これが福音です。あなたや私がキリストにある時、神は私たちに満足されます――静かで、幸いであり、祝福されています。ああ、素晴らしい福音!これは理解することも説明することもできません。しかし、これは事実を述べたものです。これは満足を得た神の栄光の福音なのです。

 前の章でこれとは別の文脈の中で適用した検査を再び述べるとこうなります。あなたや私が真にキリストのもとに来て、キリストの中に自分の場所を見いだす時、私たちの意識に上る最初のことは、「圧迫はすべてなくなった」ということです。私たちは安息に達しました。天然のものではない驚くべき静けさが私たちの内に到来します。私たちと神との間の戦いはすべて終わったと感じます。これは素晴らしいです。祝福された幸いな状態です。さて、これが私たちの経験です。しかし、その意義は何でしょう?その意義は、幸いな神の御霊が私たちの心の中で神の幸いを証ししておられる、ということです。「祝福された神の栄光の福音」。その第一段階は地位です。私たちはキリストにあります。


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