気質による困難

 さて、困難は常に私たち自身の気質に対応します。つまり、私たちがいかなる者であるかが、私たちの受ける試練の性質を決めているのです。テサロニケ人たちの場合もそうでした。あなたの性質がある特定のものでなければ、何があってもあなたにとっては試練ではなかったでしょう。何かがあなたにとって試練だったとしても、私にとってはまったくそうではないかもしれません。あるいは、逆のこともあるかもしれません。私にとっては恐るべきもの、私を殴打して転倒させてしまうものでも、他の人々は平然と通り過ぎて、「あの人は何でこんなに大騒ぎしているのだろう?」と不思議に思うかもしれません。私たちの問題や試練の大部分は私たちの性質から生じるのです。

 さて、これを理解していただきたいと思います。このテサロニケの信者たちは、徹底的であったからこそ、数々の特別な試練を受けました。これは常にそうです。もしあなたが徹底的でないなら、数々の徹底的な困難にあうことはありません。多かれ少なかれ、容易に切り抜けることができるでしょう。もしあなたが徹底的なら、数々の徹底的な困難にあうでしょう。あなた自身の性質や気質から、ごく自然にそれらが生じるでしょう。

 さて、ご存じのように、人の性質や成り立ちは様々な方法で形成されます。一般的に、私たちはみな似ていません。これはかえって好都合です!しかし、人の性質の大部分はいくつかの異なる種類――いわゆる気質――に分類することができます。主として、七つの異なる気質、人の性質に関する七つの分類があります。それを詳しく扱うつもりはありませんが、この問題にはとても有用な一つの点があります。このテサロニケ人たちは極めて明らかなことに、「実際的」気質の持ち主でした。彼らが特別に受けた苦難の激しさは、大部分、彼らがそのような人々だったからです。もちろん、「他の人々は苦しむことがない」などということではありません。他の人々は別の方法で苦しみます。

 実際的気質の持ち主の普段の生活は、迅速かつ直接的に応答する生活です。お金を稼ぐために迅速に物事を見なければなりません!これは商売気質であり、商売人の気質です。この気質の人を支配している原則は、手っ取り早く成功を収めることです。実際的気質の持ち主にとって、「成功」は重要な言葉です。成功が後に続きます。成功を収めること――この特別な気質の人にとってはこれが偶像なのです。

 この気質の人々にとって、感情はあまり重要ではありません。この人々は感情のために立ち止まることができません。彼らにとって実際的でないものは、単なる「感傷」と見なされます。彼らはもちろん感傷的ではありません。しかし、このような仕方でマルタはマリヤに反応しました。マリヤは感傷に浸っていたわけではないのに、「マリヤは感傷に浸っている」とマルタは思いました。というのは、マルタはあまりにも実際的だったからです。また、この性質の人の内には想像力がほとんどありません。いかなる繊細な気持ちにもずけずけと踏み込みます。立ち止まって、「自分が言ったことを人々はどう感じるのだろう」と考えることがありません。ひたすら先に進み続けます。

 そして次に、この気質の人は時として恐ろしい過ちを犯します――状況を混乱させてしまいます。例えば、この気質の人は知的好奇心を深遠さと勘違いします。なぜなら、知的好奇心のある人は際限なく質問せずにはいられないからです。「実際的な」人々は常に質問攻めにします。質問、質問、質問です。彼らはあなたを質問攻めにして、それを霊的深遠さの証拠だと思っています。「自分たちは物事の表面的価値しか見ていないのではなく、大いに実際的であって、しかも深いのです」と思っています。しかし、知的好奇心と深遠さとは全く別です。両者を混同するおそれが大きいのです。

 さて、このテサロニケ人たちとこの福音の効果について理解したいと思います。いま私が述べたことと照らし合わせるなら、彼らの描像を描けるのではないでしょうか?彼らは迅速に応答しました。とても実際的な方法、とても徹底的な方法で応答しました。数ある重要な主題のうち、彼らが反応した主題の一つは主の再来でした。まさに冒頭でパウロは言います、「あなたたちは偶像から神に立ち返り、生ける真の神に仕えるようになり、天からの御子を待つようになりました」(一・九、十)。この主の再来は彼らにとって一大事でした。そして彼らは、「主の再来はすぐに、自分たちが生きている間に起きる」と結論を下しました。彼らは福音に対してこのように実際的に応答し、それはそれなりに良いことでした。しかしご存じのように、パウロのこの二つの手紙のほとんどは、この応答の誤りを正すために費やされています。

 さて、彼らはこの件で問題に陥ったことがわかります――彼ら自身の成り立ちから生じた問題です。彼らは自分に向かって次のようなことを言いました。「主は来られます――『主は来られる』という話を私たちは聞きました。私たちは『主の再来は近い』という知らせを受け入れて、いつ主の再来があってもおかしくないと信じました。また、『主が再来される時、主のものである人々はみな携え上げられて主と会う』という話を聞きました。信者はみな引き上げられ、携え上げられて、そのように共に栄光の中に入る、と私たちは結論しました。ああ、何と素晴らしいことでしょう――みなが主の御前に集まるのです!しかし、私たちの友人の中には死んだ人もいます。昨日死んだ人もいますし、先週死んだ人もいます。また、依然として生きている人々もいます。これは全員が一緒に携え上げられるというこの話をすべて覆すものではないでしょうか?」。彼らは混乱し狼狽しました。主が戻って来て自分たち全員を御許に集めて下さるどころか、自分たちの中には墓に入ってしまった人もいたのです。これは彼らのように実際的な性質の持ち主にとって妨げだったことがわかります。

 そこで、使徒は彼らに書き送ります。使徒は彼らに福音、良い知らせを書き送ります。このように失望して困惑と悲しみの中にある人々に宛てて書き送ります。使徒は言います、「あなたたちに知ってもらいたいと思います、親愛なる兄弟たちよ、あなたたちに理解してもらいたいと思います。この問題は最終的には同じことなのです。主が来られる時、死んだ人たちが私たちに先立つことはありませんし、私たちが彼らに先立つこともありません。この問題には何の違いもありません。イエスにあって眠った者たちと、生き残っている私たちとは、みな共に引き上げられるでしょう。この問題でこれ以上悩む必要はありません。何の希望もない人々や、自分たちの偉大な希望をなくしてしまった人々のように悲しんではなりません――主の再来というこの偉大な希望を身近な信者たちの死によって打ち砕かれてしまったかのように悲しんではなりません。実際のところ、この問題には落胆すべき何の要素もありません。これは愛する者を失った人たちへの良い知らせです――これは生死の問題に関する良い知らせです――私たちはみな共に上って『空中で主と会います。そして、私たちは永遠に主と共にいるようになります』。これは実に素晴らしいことです」。

 ですから、ここでパウロはこの福音――良い知らせ、良いおとずれ――を伝えられたことがわかります。それは彼らの性質や気質から生じたある困難を克服するためでした。


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