教会の証し

 しかし次に、使徒は教会に移って、教会について語ります、「御子は教会のかしらであり……死者の中から最初に生まれた方です」(コロサイ一・十八)。イエスはこの途方もない数々の問題に対する答えですが、この事実、偉大な事実を、教会はどのように証しするのでしょう?良かれ悪しかれ教会はこの答えを与えている、と私は思います。

 良い意味で教会は答えを与えています――とはいえ、本来そうであるべきほどではありません――教会は次のような仕方で答えを与えています。すなわち、結局のところ(二千年もたったのに!)、教会は依然として存在しているのです。考えてみて下さい。敵意と憎しみと殺人の軍勢が、幼い教会に押し寄せました。史上最大の帝国が教会を一掃しようと決意していました。結局のところ、消滅したのは帝国の方です。教会は存続します。また、次の事実についても考えてみて下さい。それ以降何世紀にもわたって、あらゆるものが教会を終わらせて破壊しようとしてきましたし、今もそうしています。ああ、歴史を読み違えるほど人が盲目でなければ!もし今日の世界の列強、巨大な王国、大帝国が正しく歴史を読み解いていれば、自分たちがまったく空しい任務、まさに愚者の任務についていることがわかったでしょう。この地上からイエスの証しを滅ぼそうとするとはとんでもないことです。滅びるのは彼らの方です。

 そうです、教会がいつまでも存続し続けることこそ、これが真実である証拠です――イエス・キリストはこの宇宙の鍵であり、こうしたあらゆる問題に対する答えです。言っておきますが、教会はしかるべき明確な答えを与えているわけではありません。もし教会が当初のまま進み続けていたなら、それは何という答えになっていたことでしょう!

 しかし、教会は良い意味で答えを与えているだけでなく、悪い意味でも答えを与えています。まさに次の事実によって、教会は悪い意味で答えを与えています。すなわち、教会はかつてはこの世に対して勝利のうちに立ち、数々の嵐に打ち勝って耐えてきたというのに、今ではその中心である主イエス・キリストから外れてしまい、主の絶対的頭首権や主権に代わる諸々の代替物を取り込んでしまいました。教会の主要な関心事はそれ以外のものになってしまいました。その結果は崩壊、分裂、その他のあらゆることです。そうです、教会は否定的な意味で答えを与えているのであり、このような状態の時は常にそうなります。

 次のことを大いにはっきりとさせておきましょう。真理が崩壊したわけではありません。もし真理があなたにとって問題になるなら、それは真理に問題があるからではありません。真理と教会との間に問題が生じたのと同じように、真理とあなたの間にも問題が生じたからです。問題は真理にあるのではなく、真理を代表しているはずのものにあります。イエス・キリストの頭首権に代わる諸々の代替物――人であれ、施設であれ、宗教的関心であれ、クリスチャン活動であれ、何であれ――が主イエスご自身の地位に割り込んで来るなら、他ならぬ不一致や分裂を招きます。もっと積極的な言い方をすると、人々や指導者たちや他のすべてものが、「これを見て下さい、私たちの施設、私たちの務め、私たちの組織、キリスト教における私たちの関心はことごとく、イエス・キリストの絶対的主権に服さなければなりません」と言いさえするなら、一致が生じて一つになることがわかるでしょう。私たちはみな、この基礎に基づいて、共に流れて行かなければなりません。

 海辺に降りて行ってごらんなさい。引き潮の時、堤防はみなむき出しになっていて、海岸線を幾つもの区画に分けています。しかし、潮が満ち始めると、海岸線を分けていた防波堤は姿を消し始めます。満潮の時に戻って来ると、海岸線を分けるこうした防波堤は何一つ見えません。満ち潮が堤防をすべて沈めてしまったのです。キリストがすべてのすべてとなって、「あらゆることで第一位を得る」時、霊の命の干潮や引き潮に属するこうしたものはみな、まさに姿を消します。その証拠は教会にあります。

 グラハム博士の祖国を最近訪問した時、私たちはこれを少しばかり味わいました。そこには、一つの燃えるような情熱がありました。人生の始まりにあたってキリストにその地位に着いていただきたい、という情熱です。すべての区分がこのような願いを抱いていることがわかりました。隔て、「防波堤」、区分的なものはどこにいったのでしょう?そうしたものはなくなって、「キリストが生活の中で御自分の地位に着いて下さらなければならない」という願いの高潮の下に沈んでしまいました。これがたった三ヶ月しか続いてはならない、という理由が何かあるでしょうか?一年のうちたった数日の大会期間中しかこれを経験してはならない、という理由が何かあるでしょうか?いいえ、ありません。キリストがこのような地位に着くことを、神は常に願っておられます。その鍵はまさにこれです――キリストはすべてのすべてであるということです。

 なぜこの手紙では福音に対する言及が「福音の望み」という強調点だけに限られているのか、おそらく今その理由がわかったのではないでしょうか?そうです、「福音」や「良い知らせ」という言葉が登場するのは、「良い知らせの望み」というこの文脈においてだけです。福音の望みは、イエス・キリストはすべてのすべてであることにあります。望みはひとりの御方であって、私たちの内にある抽象的性質ではありません――「希望に満ちること」ではありません。それはせいぜい定期的に訪れる変わりやすい楽観主義にしかなりません。ここの望みとはひとりの御方です。この良い知らせの望みは、彼があらゆることで第一を得られることです。ここにこそ、あなたの望み、私の望み、教会の望み、この世の望み、宇宙の望みがあります。これが福音の望みです。


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