この状況に対する答え

 さて、「この手紙には神秘的な題材がたくさんある」と感じるかもしれません。たとえば、旧約聖書の数々の予型を描写するにあたって、パウロはハガルとイシマエルの事例を比喩として用いています。私たちはこの出来事を詳しく知っていますが、まったくそのようには見ていませんでした。パウロが議論のために用いている神秘的な題材がたくさんあるように思われます。しかし、この手紙を読み通して、それについて熟考し、その衝撃力を感得する時、一体どのような結果になるのでしょう?この手紙を学んで、その深刻さに印象づけられる時、私たちには何が残るのでしょう?律法主義に関する結論だけでしょうか?――「律法は私たちをもはや束縛しておらず、私たちは律法から解放されている」ということだけでしょうか?「この面について自由な経綸が始まったのであり、律法の諸々の原則はもはや私たちを束縛していない」ということだけでしょうか?このような立場だけでしょうか?「キリスト教には真理についても実行についても、いかなる義務もない」ということだけでしょうか?「私たちは律法に違反し、その諸々の原則を破ってしまったが、恵みがそうしたものをすべて覆ってくれる」ということだけでしょうか?――そのような解釈はまさに恵みの誤った解釈です!――しかし、それだけでしょうか?要点は何でしょう?

 このような手紙の価値を本当に理解したとしても、結局のところ、単なる神学や単なる教理しか残らない場合もありうることがわかります。確かに、ガラテヤ人への手紙が教えているところによると、私たちはもはやモーセの律法の下にはなく、神の子供として自由です。大いに結構なことであり、とても麗しいです!しかし、この手紙はあなたをどこに導いているのでしょう?その結果は何でしょう?こうしたことはみな消極的なものにすぎません。

 私は疑問に思うのですが――これがさしあたっての要点です――この手紙が示している福音の秘訣や核心を本当に享受しつつ生きている人が、私たちの中にどれくらいいるのでしょう?パウロはここでこの福音、良いおとずれについて多くのことを述べています。この手紙、この特別な文脈に示されている福音、良いおとずれとは、実際何なのでしょう?結局のところ、福音とは「クリスチャンたちは『解放される』ことを欲している」ということだけではありません――「あらゆる制限、束縛、義務から解放されて、何でも好きなことを行うことができ、自分自身の好みに従うことができる」ということだけではありません。福音はまったくそのようなものではありません。あなたも私も、これより積極的なものを知りたいと願っています。消極的な事柄だけでは満足できないのです。


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