さて、ガラテヤ人への手紙に移ることにします。この手紙には実際、今回の考察の基礎となる句があります――それは「私が宣べ伝えている福音」という句です。この句は二章二節にあり、その別の形が一章十一節にあります――その別の形とは「私によって宣べ伝えられている福音」です。すでに述べましたが、パウロの手紙にはこの「福音」という言葉が何度も出てきます。この言葉が彼の手紙中に散りばめられています。このようにこの言葉が何度も出てくるということは、結局、彼が実際のところ何について書いたのかを示しています。同じ事がこのガラテヤ人への短い手紙にも言えます。クリスチャンの真理全体が名詞形で「福音」と呼ばれています――この言葉はこの手紙に八回出てきます。次に、その動詞形は英語に正確に訳すことができない言葉であり、「福音する(to gospel)」とか「良い知らせする(to good news)」という意味なのですが、便宜上、英語では「宣べ伝える(preach)」、「福音を宣べ伝える(preach the gospel)」、「良いおとずれをもたらす(bring good tidings)」等と訳されています。しかし、それは原文では一つの言葉であり――その動詞形がこの手紙に六回出てきます。ですから、このごく短い手紙の中に、この言葉が十四回出てくることになります。

 さて、この手紙が示す状況を再現しえたなら、あるいはその実際的現実に出くわしたなら、何がわかるでしょう?ここに示されている状況が今日どこかに存在していて、その状況が進行中のその場所を訪れたとしたなら、私たちは何に出くわすでしょう?三つどもえの凄まじい論争がなされているのを見いだすでしょう。一方には、苦々しい心でパウロに激しく反対している一群れの人々がいるでしょう。他方、心底激高しているパウロがいて、その姿は彼のどの書き物や旅行の際にも見られないものでしょう。そして、この二派の間に、この進行中の途方もない戦いの直接のきっかけとなったクリスチャンたちがいるでしょう。その場その時の問題よりも遥かに大きな数々の問題をはらんでいます。というのは、それは遥か彼方まで及ぶ福音の永続的性質の問題だからです。さて、パウロは戦いの中、「私が宣べ伝えた福音」を再び述べています。それは彼の務めを脅かし、無効化して滅ぼそうとしている人々に対抗するためでした。福音とは一体何でしょう?

 まず第一に、反パウロ派を見てみましょう。彼らの問題は何だったのでしょう?彼らが打ち立てようとしているものは何でしょう?手短に一言で言うと、彼らの目的は昔ながらのユダヤの宗教的伝統を確立することでした。彼らはこの体系を永存させることを熱狂的に支持しました。彼らは論じました、「この体系は直接神から来たものであり、直接神から来たものは変わることも、脇にやられることもありません。この体制は古い伝統に支えられています。この体制は何世紀にもわたって広く行き渡り、存続してきたものです。ですから、真新しいパウロの教えとは違います。代々の昔にこれは確立されたのです」。彼らはさらに続けるでしょう、「イエスはモーセの律法を廃止されませんでした。『モーセの律法は廃棄された』とは何も言われませんでした」。このような議論や、さらに多くの他の議論があったでしょう。「ユダヤ教、モーセの律法はクリスチャンに課せられた義務である」というのが彼らの立場でした。「もしお望みならクリスチャンになりなさい。しかし、あなたは自分のクリスチャン信仰にモーセの律法を付け加えなければなりません。そして、この伝統やこの体系の『あなたは……しなければならない』、『あなたは……してはならない』という全ての戒めに服さなければなりません。ユダヤ教やモーセの伝統の諸々の教えや実行に順応しなければなりません」。手短に言うと、これが彼らの立場でした。

 他方、パウロがいます。パウロはモーセを知らないわけでも、ユダヤ教の組織を知らないわけでもありません。そういったものの中に彼は生まれ、それによって育てられ、訓練され、徹底的に教えを受けたのです。それにもかかわらず、ここに見られるパウロの姿は、モーセやユダヤ教の立場とは真っ向から大いに対立しています。彼は論じます、「確かに律法は神によって与えられましたが、神が律法を与えたのは人の弱さを明らかにするためにすぎません。律法の真価、真の効力とは、人がどのような者かを示すことです――つまり、人が律法を守るのは不可能であることを示すことなのです。神の要求を前にするとき、人は何と絶望的でしょう!『あなたは……しなければならない』、「あなたは……してはならない』というこの戒めの体系全体を前にするとき、人は何と絶望的でしょう!キリストは律法を廃止されませんでしたが、それを脇にやって、『律法はすべて成就された』と言われたのです。律法を守ることができたのは、キリストご自身ただ一人だけです。かつてこの地上を歩んだ全人類のうち、ただこの御方だけです。キリストは律法を守り通されました。神の律法の隅々の点に至るまで、キリストは神を満足させられました。そして、神を満足させ、律法を成就した上で、キリストは神との関係の基盤となる別の基礎を導入・構築されました。こうして律法はこのように脇にやられました。イエス・キリストは神と共なる生活の別の基礎を据えて下さったのです」。

 手短に言うと、これがパウロの論旨でした。もちろん、そこには詳細な点がたくさんあります。しかし、このユダヤ主義者たちが達した結論とは正反対の結論にパウロは達します。モーセの律法がユダヤ人を縛っていましたが、もはやそのような仕方でクリスチャンたちを縛ってはなりません。キリストにあって私たちは律法から解放された、というのがパウロの論旨です。この手紙の重要句は、律法からの解放です。

 この手紙で用いられている強烈な言葉から、当事者たちの感情がいかに激高していたかがわかります。もちろん、このユダヤ主義者たちはとても強硬でした。パウロがどこに行こうと、彼らはパウロの後を追い回しました。彼らはあらゆる手を尽くして、個人攻撃、議論、迫害により、パウロの働きを台無しにしようとしました。そして、パウロの回心者たちをパウロから引き離して、モーセに立ち返らせようとしました。前に述べたように、パウロはここで完全に激高しています。パウロは忍耐、辛抱、我慢の人でした。前章でコリント人たちのケースについて見た通りです。コリントでパウロは怒りをもよおさせるあらゆる種類の出来事に出会いました――コリント人たちに対するパウロの忍耐と我慢はとても素晴らしいです――しかしここでは、この人からそのような忍耐強さがすっかりなくなってしまったかのようです。ここでパウロはこの人たちに対して文字通りアナテマを投げつけます。二重の強調を込めてパウロは二度言います、「その人はアナテマです……今再び言いますが、その人はアナテマです」――すなわち、呪われよ言っているのです。

 さて、パウロがこうなっている以上、何か理由があるに違いありません。パウロのような人がこのようにいきり立っているからには、「何か深刻な状況があるに違いない」と結論しなければなりません。まさに深刻な状況があったのです。そしてパウロがこのように大いに激高していることから、この二つの立場の違いがいかに深刻なものだったのかがわかります。


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