さて、この手紙を分解することができます。「キリスト・イエスは神から私たちに至る知恵とされて、義と聖別と贖いとになられました」(一コリント一・三十)。彼は私たちに至る義と聖別と贖いとになられたのです。残念ながら、クリスチャンの中には地位上の恵みを重視しすぎるのを恐れる人もいます。地位上の恵みを重視しすぎるなら、自分たちのクリスチャン生活から何かがなくなってしまう、と彼らは思っているのです。というのは、実際の状態に関して聖別される必要性を、彼らは大いに強調しているからです。彼らは内省に陥り、自分の状態というこの問題に没頭して、この問題を対処しようとするあまり、キリストにあって恵みにより与えられた自分たちの地位から来る喜びをすべて失っています。

 この問題についてはバランスを保つ必要があります。そもそもの始まりは、主イエスの恵みが私たちに臨むことです――たとえ私たちがコリント人のようだったとしても――主イエスの恵みは「キリスト・イエスにあって聖別された」聖徒としての地位に私たちを置きます。そして、私たちのことを聖徒と見なしてくれるのです。これを描写することはできません。恵みは私たちの表現力をまったく超えています。しかし、そこに主イエスの恵みの素晴らしさがあるのです。実を言うと、キリスト・イエスにある者となった後でも、また長年キリストにあって過ごしてきた後でも、実際のところ私たちが見いだすことといえば、「自分は何と惨めな被造物なのだろう」ということです。キリストにある時間が長ければ長いほど、ますます自分が酷くなっていくように見えるのではないかと思います。ですから、もしキリスト・イエスにあるなら、自分自身がどうであるかは意味がありません。私たちの地位は、私たちが実際的に文字通りまさしく完全であることにはよりません。まず第一に、この良いおとずれはキリストにあって着いている私たちの地位と関係があるのです。

 ああ、しかし、それで終わりではありません。これからはいかなる種類の影も生じませんし、生じることがあってはなりません。神に感謝します、この良いおとずれはこれさえも超えるものなのです。主イエスの恵みは状況を変えることができます――私たちの立場を新たな状況にすることができます。これが主イエスの恵みです。今や、私たちの実際の状態を私たちの地位にふさわしいものとすることができるのです。恵みにより、私たちは功績がなくても受け入れてもらえる地位に置かれます。それだけではありません、恵みは働く力であって、私たちを自分の置かれた地位にふさわしい者にしてくれるのです。恵みには多くの面があります。恵みにより私たちは受け入れてもらえますが、恵みは働く力でもあるのです。「私の恵みはあなたに対して十分です」(二コリント十二・九)。これこそ必要とされている、力ある大能の御言葉です。私たちの主イエスの恵みはまさに良い知らせです――クリスチャン全員に対する良い知らせなのです。


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