私も今まで度々たびたび自分の生活を省みては、その足らざるを歎いた。信仰に入りて既に幾年、なおかくのごとき歩みは何事かというように、自分に目を着けては悲しんだ。しかし今は私は全くそれをめたのである。自分を省みては歎く事を私は全然廃めてしまったのである。

 何故か。その事の無意義を私は知ったからである。少なくとも私の場合に於いては、それは意義を成さぬ事であった。自分を省みる事は、自分について何等かの希望をいだき得る者にこそ適わしけれ、もはや少しの余地なきまで自分について絶望した者に取っては、それは意義を成さないのである。「私は弱い」とか「私は穢れたものである」とかいう事は、私自身については無意義なる空虚の響きに過ぎない。例えば「闇はくらい」「熱はあつい」というと異ならない。誰がくらからざるやみ、熱からざる熱の存在を想像しようか。「私はまだ足らぬ」と言う心はいつか「私はもう十分である」と言い得る心であろう。「私、私」といって自分に目をつける人は、なお自分を問題となし得る人である。しかし私にはその時は過ぎたのである。今や私には私自身が問題にも何にも成らないのである。足るとか足らぬとか、善いとか悪いとか、弱いとか強いとか、すべてそれらの相対的批判の対象には成らない。「私」が何であるか。私はそれに愛憎をつかしてしまった。私はそれを眼中から棄ててしまった。私はそれの存在を無視してしまった。

 私は早くから罪の問題に悩んだものではあるが、しかし人に比べては、自分は低くともなお水準より下るほどの者でないと信じて居った。そののち聖書の光に接して、自分に対する私の評価は頓みに一変した。罪人としての自分の地位は限りなく低いものである事を私は知った。或る意味に於いては自分について絶望もした。しかしそれでもなお多年自分を省みては歎くことを続けていたからには、私は未だ絶望し切らなかったに相違ない。ただ近年に至って私は始めて自分の正体を見届けたのである。自分が弱いというは果たしてどのくらい弱いのであるか、殊に神のまえに罪人として自分は果たしてどんな処に位置すべきものであるか。それらの事を如実に見せつけらるる痛ましき日が遂に私に臨んだのである。

 鳴呼、過る数年、私はどんな内的生活を送ったか。ただ彼のみぞ知る。誠にただ自分の偽りなき姿を明白に発見せんがための試煉であったと見てさえ、それは十分に意義ある経験であった。

 私はかようなる事を公言するを好まない。しかしここには明らかにせねばならぬ。私はパウロの口調をかりていう、誰か弱りてわれ弱らざらんや、誰か罪を犯してわれ犯さざらんやと。自殺者狂者は私の親友であり、殺人者姦淫者盗賊は私の兄弟である。今や私はたとえ如何なる悪名を以て呼ばれようとも甘んじてそれを受けねばならぬ。

 かくのごとき私が今更に「足らぬ」などと言い出すほど笑止の沙汰があろうか。実際私はもはや自分を見るに堪えない。その事は余りに心苦しい。もし私をして何時までも己に省みさせるならば、私は自ら果つるのほかないであろう。

 この故に私はやむなく目を自分よりそむける。しかして之を何処に向けるか。「われ山にむかいて目をあぐ」(詩一二一の一)。私はただ目をあげて彼に着ける。自分を見ておる暇に、私はただ彼をあおぐ。然り、ただ、ただ、彼をあおぐ。

 しかして福いなるは彼をあおぐものである。その人は自分を忘れ得るからである。自分の責任からのがれ得るからである。「なんじの荷を我にゆだねよ」と彼は言ってくれる(詩五五の二二)。私は罪ふかい、私は弱い。省みてそれを憶うとき心くずおれる。しかしすべて私の責任を私はみずから負わなくとも善いのである。彼が代わって之を負ってくれるのである。彼は己をあおぐ者を無責任の地位に置いてくれるのである。十字架のキリストに頼るとき、私は彼の功績のゆえに無責任者である。私に多くの恥辱がある。しかし私は彼にそのすべての始末を附けていただく。私が真実に彼に頼るかぎり、私の恥は掻き棄てにすることを許される。

 然らば私が彼に頼る理由は何か。彼が私の祈りに答えたもうからであるか。彼が私に恵みを加えたもうからであるか。否、すべて「私」のために彼が何かを為し或いは為したからではない。すべて私のために彼が何かであり又はあったからではない。そうではない。私は今や何の恵みにも好意にも値するものでない事を十分に知っている。彼が私のために何をなさずとも、彼が私に対してどんなに冷淡であろうとも、然り、どんなに無慈悲、残酷でさえあろうとも、それをもって私は彼を疑うの理由とすることは絶対に出来ない。

 しかして現に私は自分の関するかぎりに於いては、幾多の躓きをもっている。私には聴かれざりし又は聴かれざる祈りがある。私には奪われし恵みがある。私には時々見失われし聖顔みかおのなげきがある。私は信仰の先輩が余りに安く祈りの応答についてあかしした事をうらむ。私をして言わしめよ、祈りは多くの場合に於いてはそのままに聴かれないのである。霊魂に関する祈りのほかは、聴かれたと見えるものも実はそうではない。「たとえわれ彼を呼びて彼われに答えたもうとも、わが言を聴き入れたまいしとはわれ信ぜざるなり」とのヨブの告白は、近代基督者の経験よりは遥かに深刻である(ヨブ九の一六)。「求めよ、さらば与えられん……天の父は、求むる者に聖霊を賜わざらんや」とある。これこの世に於ける祈祷応験の原則である。聖霊は必ずこれを賜う。しかし健康や成功や金銭などは、多くの場合に之を賜わない。霊魂以外の事についての私の祈りは聴かれない事が多い。

 しかし右にも言った通り、たとえ私の祈りが悉く拒絶せられたとしても、それをもって私は神を信じ或いは疑うの理由とすることは出来ないのである。何となれば、私は素々彼の前に立つ資格さえないものであるからである。神が私に対して聾者みみしいとなりたもうはげにうべなる事である。

 私が神を信ずる理由は、「私」の側には少しも存在しない。私はただ神を信ずる神が神でありたもうがゆえに!神はキリストの十字架に於いて御自身を明白に現わしたもうたが故に!神は御自身の永遠的公義の要求を満たさんがためにおのが独子キリストを惜しまず世に送って敢えて之を十字架につけたもうたが故に!

 私が神を信ずるの理由は之よりほかに一つもない。キリストに於いて、殊に十字架上の彼に於いて、私は神を見たのである。私はもはや彼を見識っているのである。彼処に神の神らしさは悉く現われ尽くしたのである。たとえほかの事はどうあろうとも、十字架のキリストが変わらないかぎり、私の信仰は変わらない。勿論私は屡々神を疑おうとする。しかしその試みに出遇うとき、私はただちに十字架のキリストに帰る。彼は私の唯一の避所さけどころである。さればたとえ地は変わり山は海の中央もなかに移るとも、私は恐れない。よしその水なりとどろきて騒ぐとも、その溢れきたるによりて山はゆるぐとも私は恐れない。何となればそれらの騒ぎのなかに、なお十字架の上に永遠に変わらざる神を私は見出すことが出来るからである。かしこに神は己の義を顕わして、自ら義となりまた人を義とするの途を開きたもうた。かしこに彼はその独子をけるほどに世を愛したもうた。この一つの事実を打ち消す何ものがあるか。我らの社会に何事が起ころうとも、人が何をなそうとも、自分の上にいかなる悩みが加わろうとも、この一つの永遠的事実を如何にするか。

 私は時として自分に臨むことあり得べき一切の患難を想像して見る。自分が陥り得べき最も呪われたる谷底を想像して見る。しかしてそれでもなお私は神に信頼し得べきかを考える。よろしい。何処まで往っても宜しい。私の幸福がたとえどうなっても、神は変わらないのである。十字架のキリストの神は永遠に変わらないのである。しかして私にとって最大の問題は、私の幸福の如何ではない、神が神でありたもうか否かである。神が神でありたもうかぎり、私はただ彼に信頼すればよいのである。たとえ私は地獄に落ちても、なおひたすらに彼に信頼して彼の名を呼べばよいのである。まことに大いなる患難、大いなる呪いが私に臨めば臨むほど、私はいよいよせつに彼にすがるのほかないのである。

 かくいえばとて、勿論私は如何なる場合にも泰然自若としてあり得ると言うのではない。断じてそうではない。私自身は前に言った通りの者である。たとえば今にも死が私に臨むならば、私は或いはいかばかり見苦しき様子を示すかも知れない。しかしその事の故に私の信仰は変わらない。否、さほどに言い甲斐なき者であればこそ、私は自分を見ずしてひとえに彼を仰ぐのである。私が絶対に彼に信頼することは、私自身の憐れさをこそ証明すれ、断じて私の功績にはならない。

 かくて私の生涯は聖旨のままである。自分がどうあろうとも、社会がどうあろうとも、私は関わない。自分のために思いわずらわない私は、また世を憂えず人を憂えない。私はただ神をあおぐ、しかして一切を彼に委ねまつる。彼の聖旨の成らんこと、その事のみを私は願う。聖旨の成るにまさる善き事はない。故に彼の成したもうがままに私は従う。私の信仰は之である。

〔第六七号、一九二六年一月〕

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