信ずるとは何か。ヘブル語にて「アーマン」という。アブラハムがエホバを信じてその信仰を義と認められたという時に、「彼はエホバを(に)アーマンした」とある(創世一五の六)。アーマンはアーメンと同義の動詞である。アブラハムはエホバに対してただアーメン(然り)と言ったのである。いかばかり理性にかなわず常識にそむく事であっても、いやしくもエホバの言いたもう事、為したもう事である以上、アブラハムはただ然りと言って無条件に之を受け入れたのである。ただそれだけである。それが彼の信仰であった。しかしてその信仰をエホバは彼の義と認めたのであった。

 信ずるとはかくのごとくにアーマンすることである。ただアーメンのみを以て神に対することである。彼の一切を単純に無条件に肯定することである。彼が与えるというものは、よしいかばかり値せざる高大なる恩恵であっても、遠慮せず狐疑せず辞退せずしてこれを受けることである。彼が奪い取るものは、よしいかばかり手放しがたき惜しきものであっても、つぶやかず逆わず背かずしてこれを聖手に委ねることである。いかなる場合にも目を閉じ彼の為すがままに従うことである。即ち文字どおりの盲従である。神に対して盲従すること、これを信仰という。

 少しく言い換えれば、信仰とは神を義とすることである。神の道はすべてそのままに「義しい」と定めてしまうことである。神が神である限り、これは当然の事でなければならぬ。「されば汝ものいうときは義しとせられ、なんじ審判さばくときは咎なしとせられたもう」とダビデはいった(詩五一の四)。そのとき彼は真の信仰を言い表わしたのであった。「なんじの道は義なるかな、真なるかな」と殉教者らが歌うをヨハネは聞いた(黙示録一五の三)。そのとき彼は真の信仰の告白を聞いたのであった。神は永遠より永遠までを目ざして、人の解しがたき大股を以て、憚らず踏みつけ踏みつけ歩み給う。我らは踏みつけられながら、ただ神の道であるがゆえにこれを不義とせずして義とし、しかして之を甘受する。その時我らはすなはち神を信ずる者である。

 アブラハムは夫妻ともにすでに年老いて死にたるごとき状であるにも拘わらず、天の星にたぐうべき数多の子孫を与えんとの神の約束を聞いて、神を義とした。しかしてアーメンを以てこれに応じた。彼はまたその後、漸くにして与えられたる独子イサクを燔祭として献げよとの神の命令を聞いて、再び彼を義とした。しかしてアーメンを以てこれに応じた。理性は何とでも言わば言え、常識は何とでも言わば言え、人情または道徳または世の人は何とでも言わば言え、アブラハムはただ目を盲にし、心を石にして、頭から無条件に神の道を義としたのである。

 私は如何にして神を義とすることを学んだか。五年前に私の妻が逝った。人には何でもなきこの出来事が、私には嘗め得るかぎりの苦杯であった。私のいのりは投げやられ私の信頼は裏切られた(と私は思った)。私は神を見失った。私は彼を恨み、彼を責め、彼を疑った。告別の式の日が来た。某教会堂の教壇の前に彼女のなきがらをすえ、数多の会衆に取囲まれながら、黙然として私は坐した。私の心は暗黒そのものであった。友人の司会により式は始まった。恩師は壇上に立った。力づよき錆び声の演説は始まった。あたかも私の心を代言するかのごとき数句がつづいた。しかしそののちに「しかしながら神様にもまた申し分があると信じます」との前置に次いで、左のごとき一句が来た、曰く「私どもは神様の御言葉を聞き、その聖業みわざを義とし奉るべきであります」と。神の聖業を義とし奉るべきであります!この一言が私の耳に響いたときに、私の心の奥底から確実なるアーメンが湧き上った。ほんとうにそうである。神の為したもうた事である。私は有無をいわず頭を下ぐべきである。たとい死であればとて、彼のみわざを彼是あれこれと批議すべき筋が何処にあろうか。アーメン!アーメン!

神を義と!ああ然り、私のために
 準蝿なわはトペテの谷に落ちても
 わたしは神を義とすべきである。
さらば私は血まみれのまま
 受けよう、感謝して、すべてのむちを、
 讃めたたえよう、聖名を、とこしえに。
かく思いさだめしその時に
 わたしの霊は会堂をけて
 かがやく栄光の国にあった。
――羔の婚姻第一歌より


 そのとき真実に私の霊は私の肉体を離れ、会堂を脱けて、何処かいとさいわいなる国に入った。私の周囲には光が充ち満ちて居った。私ははじめて鮮やかに神を見た。

 かくして私は神を義とすることを学んだ。それは私にとっては最大なる経験であった。私の回心であり更生であった。その時までも回心更生の前味はなかったではない。しかし私が確実に新生命を獲得したのは実にこの日であった。

〔第八四号、一九二七年六月〕


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コメント

No title

ちょうど昨日読んだ山崎亭治訳レテー・カウマンの『荒野の泉』の八月四日のメッセージと重なる部分がありました。

ー「賛美は事を変化させる」
 …わたしはかつて中国で、このことに関して大きな祝福を受けた。わたしは自分の家庭から、悪い悲しい知らせを受けたとき、深い蔭がわたしの魂をおおうた。わたしは祈ったが、暗さは消え去らなかった。わたしは自分を総動員して耐えようとしたが、暗さは深くなってゆくばかりであった。やがてわたしは奥地の伝道所に行ったが、そこの壁に次の言葉がかかげられていた。
  『感謝をささげよ』と。
 わたしは賛美したが、その瞬間すべての蔭は離れ去って再び帰って来なかった。たしかに詩人は正しい。「主に感謝することは良いことです。」ーヘンリー・W・フロスト

Re: No title


藤井武やプーさんが紹介して下さったカウマンの証しはとても深くて、心を打つ内容だと思います。深みのあるクリスチャンはみな、逆境を通していっそう高い信仰の境地に達しています。そのような深みのある成熟したクリスチャンになりたいものですし、この日本にそのような成熟したクリスチャンがもっと増えて欲しいものだと心から願います。

オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー管理人
オリバー

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