また、聖所は尽きない供給の場所である。王の厚遇を受けている時、あなたは望むものをすべて得ることができる。それは尽きることがない。なぜなら、王はすべての恵みを満ち溢れさせて、「どんな境遇でも常に満ち足りる」ようにして下さるからである。それは、われわれがあらゆる良い業に富むようになるためである。さて、われわれはこれを理論的に受け入れてきたし、「私は王の子である」と歌ってきた。しかし、まるで御父が乞食であるかのように生活するという誤りを犯してきたのである!「私は王の子である」と歌うことと、すべてを持っているかのように語り、行動し、生活することとは別問題である。われわれは昇降機や倉庫や貯水槽ではなく、管であり経路である。それを通して神は救いの川々を注いで、地上の飢えている数百万の人々を潤されるのである。われわれが蛇口を開けさえするなら、神はわれわれを通して祝福を注いで下さる。一生われわれは経済を学ばなければならない。この世のものをふんだんに持つことがどういうことか、われわれは一度も経験したことがない。だから、自分の五セント硬貨を勘定して、どれくらい十セント硬貨を支払わなければならないのかを確認しなければならないわれわれにとって、何かが十分にあるというのは凄く贅沢なことである。ああ、誤解しないでほしい。われわれは有頂天なのである。なぜなら、決して供給が尽きない地点にわれわれは達したからである。われわれは決して小麦粉の樽の底をあさったりはしない。支払い不能な請求に会うこともない。なぜなら、千の丘に牛を持つ豊かな御父をわれわれは持っているからである。謙って神と共に歩む男女が欠乏にあうことはない。

 私はあの少女に同情する。その少女は屋根裏部屋で育てられて、あまり物を見たことがなかった。彼女が海辺に連れて行かれた時のことである。「海をどう思う?」と尋ねられて、少女は「たくさんあるものを見れて嬉しいです」と答えた。私は感謝で一杯である。私は貯水槽から水を注いできた。その貯水槽はとても大きいので、人々に欲しいものをすべて与えても、なお余りがある。僕であるわれわれはすべて使うこともできるし、与えることもできるのである!望むなら、あなたは貧民になることもできる。しかし、私は貧民になろうとは思わない。私は億万長者になって、僕や、従僕や、馬車や、自分の望むそのようなものすべてを得ようと思う。

 あなたは徒歩で行くこともできるが、私は馬車に乗ろうと思う。聖書が教えているように、ペリシテ人を戦車に変えることができる。今のように多くの敵がいる限り、私は決して徒歩で進むことはないし、「一輪車に乗る」こともない!あなたも私も決して貧乏になってはならない!授業の集会で、自分たちがいかに弱いかを決して言ってはならない!自分たちがどれほど困難な時を過ごしてきたのか、どれだけ多くの十字架や損失や浮き沈みを経験してきたのかを告げる必要は無い。われわれのなすべきことは王について話すこと、王の御業を告げることだけである。そうするとき、われわれにはなすべきことがたくさんあるようになる。ハレルヤ!


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