燭台の教訓

 さて、締めくくりに一言述べたいと思います。幕屋にある聖所の燭台・灯台からアジアにある諸教会の灯台への変化はありますが、原則は同じであることを覚えておいて下さい。原則はイエスの証しであり、両方とも同じです。さて、幕屋に戻って、この灯台または七つの枝を持つ燭台があった聖所を見ると、そこには型として何が示されているのでしょう?第一に、その灯台の場合、自らを照らす光があります。燭台の明かりが燭台自身を照らすべきことが、明確に指示されており、述べられています。燭台は自らの明かり、自らの証しの中に立ちます。次に、それに加えて、その光は備えのパンの机を照らし、さらに、香の祭壇を照らします。それは自分自身を照らし、他のすべてのものを照らします。

 さて、ここにとても貴いものがあります。というのは、次のことに注意しましょう。すなわち、この原則は黙示録にも持ち込まれているからです。それは証しにおいては同じ事です。中心の幹と七つの枝を持つこの灯台・燭台は、キリストとその教会の絵図です。新約聖書はそれをキリストのからだと名付けています。キリストはこのからだのかしらであり、その中心的・至高的要素です。彼の教会は彼と一つであり、一つのからだであり、彼の一つの御霊、この一つの油をみなが共有しています―― 一つの証し、イエスの証しを共有しています。しかし、絶えず明るく保たれるべき、この燭台の生ける炎は、燭台全体を照らします。そして、イエスの証しは一つの生けるからだの中になければならないこと、そして、このからだ自身もこの証しの光の中になければならず、自分自身の証しで輝いていなければならないことを告げます。他の事柄や他の人々のために光を掲げて、自らは暗闇の中にある、ということではいけません。「イエスは生きておられる」と宣べ伝えていながら、自らは死んでいるようではいけません。教会自身の活気こそが、証しです。教会は世に対して真理を掲げるだけでなく、自らその真理の益に浴していなければなりません。「イエスは死を征服して生きておられる」と告げるだけでなく、「私はその益に浴しています。私はその生ける証しとしてここにいます。なぜなら、その光は私をも照らすことができるからです」と言えなければなりません。教会はその証し自体の光を担えなければなりません。その光を得て、その光に浴し、「私は自分自身に言えないことを述べているのではありません。私はその教理の生ける表現なのです」と言えなければなりません。


オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ

プロフィール
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
全記事表示リンク
検索フォーム
個人のブログに関するリンク集
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

電子書籍
Glorious Secret
ジェシー・ペン-ルイス
「栄光の奥義」


The Cross of Christ
アンドリュー・マーレー
「キリストの十字架」


ランキングサイト
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ

人気ブログランキングへ ブログランキング

ブログのまどランキングへ ブログ王へ

ブログランキング【くつろぐ】

QRコード
QR
カウンター

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ