すでに述べましたが、あなたが神の義の状態を見出す時、裁きの面に関する神の活動はすべてやみます。アブラハムと平野の都の事例が、その古典的な例です。神は御自身の使者を通して「私はこの都を滅ぼそう」と宣言されました。そして、アブラハムは神との論争の中に入りました。義人についてはどうでしょうか?あなたは義人を悪人と共に滅ぼされるのでしょうか?神は言われました、「いや、決してそんなことはできない。そんなことは、事実上、私自身を滅ぼすことである。だからアブラハムよ、行って義人を探すことがあなたの責務である。もしあなたが義人を見つけられたら、私は滅ぼすことはできない。私の手を翻さなければならない」。そこでアブラハムはさらに進んで、言わば、神に対する自分の訴えを正当化してくれると思われる義人の数の上限と下限を探ります。神の要求に応じる適切な根拠と思しき数を探ります。彼は何度も何度も何度も数を減らさなければなりませんでした。五人の義人!駄目です、彼は五人の義人を見つけられませんでした。それゆえ、神の裁きは正当化されました。アブラハムがソドム人の間に義人を僅かでも見いだせていれば、神の裁きの力は食い止められていたでしょう。義――神の義であって、私たちの義ではありません――は途方もないものです。「私たちの義はことごとく汚れた衣のようである」。私たちの内に義はありません。否、神の義が私たちの前にあります。そうです――アブラハムの時代の前から――アベルの時代から、聖書全体を通して、この問題は信仰から発する義の問題です。イエス・キリストを信じる信仰による義についての、パウロの途方もなく包括的で詳細な議論がなされている手紙が思い起こされます。

 さて、御自身の民に対する神の御旨は、彼らが神御自身の義を着て立つべきこと、神の御前にあるように立つべきことです。何という状態になければならないことか!まさに神の義が私たちの周りを包んでいます。ですから、神が私たちを御覧になる時、神に見えるのは御自身の義だけであり、生来の私たちは何も見えません。ああ、愛する人よ、これはあまりにも幼稚であると思わないようにしましょう。これは究極的事柄であり、つまるところ勝利者に対する大きな論点の一つです。そして、これに対してサタンは最後まで戦います。もしサタンがあなたや私や神の子供の誰かを、信仰の立場・確信の立場を失う地点にもたらして、彼の訴えの下で有罪宣告を受け入れさせることができるなら、彼は勝利したことになります。訴えのかぎりを尽くし、天然を掻き立て尽くし、また、怒り・残忍さ・憎しみ・訴え・力によって大きな赤い龍であるサタンが為しうるかぎりを尽くしても、それでも信仰の立場に立って、「そうです、それはみな真実かもしれません。しかし神の目には、キリスト・イエスを信じる信仰のゆえに、私はまさに彼の義にあずかる者なのです」と言う一人の神の子供に出会う時、サタンは敗北します。これは信仰による状態の問題です。


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