クリスチャン生活の方法

 この地上におけるクリスチャン生活に関する二つの理論が、今も昔も、平均的信仰の尺度である。

 第一に、教えや規則による生活。

 ここに大きな真理がある。聖書は義に関する偉大な指導書であり、人間生活に関する神の御心の偉大な啓示である。いかなる内なる光も、この神の啓示に取って代わることはできない。それは道徳的に完全であり、完成している。しかしそれには、何の力も与えないという致命的欠点がある。「律法は何も完成しませんでした」。

 教えは生活に関する完全な規則を与える。そしてそれによって生活は常に検査されなければならない。しかし、教えにはそれを実現する力はない。「律法は(中略)肉によって弱かった」。海図はわれわれを運んで海を渡らせてはくれないが、われわれが深海のどこにいるのか、どこに行くべきかをわれわれに示してくれる。教えによる生活が律法の下で試みられたが、それにより人類の全世界は神の御前で言語を絶する咎の中に取り残された。

 さらに絶望的なのがキリストの模範による生活観である。

 「キリストならどうされるだろうか?」がその公式である。不道徳、自己中心性、俗っぽさについては、答えるのは簡単である。生活の現実的危機のどれにおいても、この公式は完全に破綻する。

 「キリストならどうされるだろうか」に関するわれわれの結論は、思考習慣上の限界、霊的でないことによる限界、キリストに関する無知という限界によって、損なわれる。その地上生涯で、キリストはパレスチナのすべての宗教人――パリサイ人、サドカイ人、ヘロデ党――を驚愕させることを常に行われた。「彼はそうするべきである」と彼らが考えていることを彼は行わず、むしろ毎日、「メシヤ職と矛盾する」と彼らが考えていることを彼は行われた。

 それでは、クリスチャン生活とは何か?

 それは、われわれの人格に関して、またわれわれを取り囲む諸々の条件の下で、キリストが御自身の生活を生かし出されることである。われわれは「キリストならどうされるだろうか?」とは問わず、「もはや私ではありません」と自分に向かって言う。そして、自分の力を内住のキリストの支配に委ねる。

 「常にこの身に主イエスの死を帯びています」(これは、われわれがキリストと共に十字架に付けられたことは「肉に何の信頼も置かないこと」であることを、実際的に表現したものである)「それはイエスの命もまた私たちの身において現わされるためです」。

 われわれは諸々の失敗によって落胆してはならない。自己の支配につきものの諸々の力や能力に対する完全な支配を、キリストは一度で完全に獲得されるわけではない。むしろ、「御霊にあって歩むこと」により、平安・安息・喜びの感覚が確実に増し加わって行くのである。


オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ

プロフィール
カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
全記事表示リンク
検索フォーム
個人のブログに関するリンク集
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

電子書籍
Glorious Secret
ジェシー・ペン-ルイス
「栄光の奥義」


The Cross of Christ
アンドリュー・マーレー
「キリストの十字架」


ランキングサイト
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ

人気ブログランキングへ ブログランキング

ブログのまどランキングへ ブログ王へ

ブログランキング【くつろぐ】

QRコード
QR
カウンター

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ