二.御座の生活への小径

 さて、文字通りのイスラエルと、霊のイスラエルあるいは教会との比較に向かうことにしよう。われわれはこれらを一つの有機的なまとまりとして見ることにする。あるいは、その個々の信者について見ることにする。その目的は、彼らの歴史の三つの段階における諸々の誘惑について理解することである。これらの誘惑は(御座の生活に向かって進みつつある信者の)体・魂・霊を攻撃する誘惑に対応している。

 (一)一番目の予型の段階……はエジプトにいるイスラエルの子らの住まいの中に見出される。それは享楽と苦難のどちらかと言うと肉的な類の経験だった。彼らは肉の欲に耽り、肉の諸々の危機を通った。彼らの食欲は肉鍋、メロン、きゅうり、ニラ、ニンニクを楽しんだ。他方、彼らの手は疲れ果て、彼らの背はパロの使役人の鞭の下で痛んでいた。彼らは、まだエジプトにいたとき、過ぎ越しの血の下で、エジプトの滅びを免れることを約束された。しかし彼らは、さらにエジプトの交わりからも逃れる必要があることを、後で雲の柱に導かれて海の底を通るまで理解しなかった。それは本質的には初歩の段階にすぎず、言わば、外面的・肉体的段階だった。

 (二)二番目の予型の段階……はイスラエルの子らが荒野の中をさまよったことと関係している。彼らはもはやエジプトにはいなかったが、エジプトが明らかに依然として彼らの中にあった。エジプトから解放されたが、彼らはただちにエジプトを慕った。パロの束縛から逃れたが、彼らは自分たちの内にあるパロの似姿に対する束縛の中に喜んで陥り、自ら課した自己の支配の下で呻き続けた。すべてがエジプト化された。彼らの表面上のエホバ礼拝すらもエジプト化された。彼らは昔の肉鍋、メロン、きゅうり、ニラ、ニンニクをあえぎ求め、マナを嫌がった。彼らをエジプトから連れ出した神の御名により――したがってエホバを礼拝するつもりで――彼らは金の子牛の前にひれふした。そして次に、エジプトの偶像崇拝者たちの流儀に倣って、いわゆる「主の祭り」を祝った。「民は座っては飲み食いし、立っては戯れた」と記されている。このように彼らは誓いと失敗、つぶやきと悔い改めを続けた。こうしたことを彼らは、義なる律法に逆らって、しかもエホバの臨在を認識していたにもかかわらず、行ったのである!言わば、彼らの信条や言葉は「正統的」だったが、行いは間違っていたのである。文字については良く知っていたが、その霊についてはほとんど知らなかったのである。揺れ動く肉と霊の下で、変わりやすい意思と混ざりあった諸々の欲望が戦っていたのである。それは誘惑の魂的段階であり、「目の欲」すなわち魂的欲望が実を結ぶ段階だった……。

 この段階は自己に関する深い知識を持つために不可欠なように思われる。クリスチャンはみな、ある程度、この段階にあずかる。しかし、神がこの段階を許されるのは、移行段階としてにすぎず、この段階は短くなければならない。それゆえ、神の御旨は、イスラエルの子らが予型として、律法の下で短い指導を受けた後、また荒野で諸々の危険を少しだけ経験した後、約束の地の境界に到達することだった。しかし、彼らが不信仰のゆえに入れなかったように、今、故意に肉の重荷を負っている多くの弟子は、自分のためにここに残されている魂の安息の中に入るようまさに天によって定められた時だというのに、不信仰のせいでそれに達していないように思われる。そして万一、弟子が引き返して、イスラエルの子らのようにまたもや行きつ戻りつしようものなら、彼のあてのない旅はずっと続き、遂にはその骸を荒野にさらすことになる。そして、死の間際になるまで、何という祝福の可能性を自分が失ったのか、決して理解しないのである!しかし、神はほむべきかな!すべてのクリスチャンがこのように不誠実なのではない。カレブやヨシュアのように、忠信であり続けて、約束を偽りとする報告に困惑しない人々もいる。エシュコルのブドウを自ら食した彼らは、その後、良き地で財産を得るまで、決して満足しない。

 (三)三番目の最後の予型的な誘惑の段階は、人の霊の戦いに対応しており、この戦いの結果は――それが失敗に終わった場合――「生活の傲り」である。この段階は約束の地におけるイスラエル人の住まいと関係している。最初、彼らは恭しく、従順だった。団結しており、勝利していた。しかし、堕落の過程がやがて始まった。そしてすぐに、不従順、偶像崇拝、分派主義、隷属が主な特徴となった。彼らはカナン人を絶滅させるよう命令されていたが、自らの怠慢のせいで、カナン人は彼らの手に負えず、「その地に住む」ことになった。さらに、これらの諸国民は彼らを道徳的に征服し、社会的・政治的同盟を締結した。そしてそれにより、彼らはエホバ礼拝を様々な形態のカナン人の偶像崇拝に公然と置き換えた。個人主義に向かうこの初期の傾向は、士師たちの時代に絶頂に達した。「各々、自分の目に良しと見えることを行った」と書いてある通りである。国家解体のこの過程は、サウル・ダビデ・ソロモンの統治のあいだ食い止められていたが、再びかつてなかったほどの著しさで、その後まもなく勃発して、国を二つに引き裂いた。最終的に、道徳的・政治的堕落が悪化したため、彼らをユーフラテスの向こうに追放して捕囚にするしか、神には解決策がなかった。つまり、レビ記一八・二八でモーセが予め警告していたことが成就したのである。その地は、諸国民をイスラエル人の前から吐き出したように、同じ忌むべきもののゆえに、イスラエル人をも吐き出したのである。


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