今日、二つの重要な任務が私たちに与えられている。私たちは従うことと治めることを学ばなければならないのである。人はみな、この二つの学課の訓練をしばしば受ける。みなが従わなければならず、みなが何らかの方法で治めなければならない。この二つの事柄――すなわち、神から下って来た合法的な権威に喜んで服従することと、自分たちに委ねられた権力が何であれ、それを行使するにあたって完全に自制すること――これが人が負うべき全責任である。第一の義務は迅速に喜んで果たさなければならない。第二の義務はしっかりと、しかし、その上に私たちが立てられた者たちに対する極めて優しい心遣いをもって果たさなければならない。治めるよう召される時はいつでも、神からそうしてほしいように私たちもしなければならない。

 さて、弱い被造物が果たしている一つの役割は、明らかに、これに関する訓練の機会を私たちに与えることである。また、たとえ利益や情熱が絡んでいたとしても、「力は正義なり」という利己的な処世訓を認めたりしないことを示す機会を私たちに与えることである。このような機会はすべての人に与えられている。他方、動物たちが目の前にいなかったら、権力の誘惑の下で行動を試される可能性のなかった多くの人々がいる。猫や鳥を飼っている子供、ロバを飼っている少年、犬や馬を飼っている労働者は、正義、優しさ、自制といった学課をめいめい学んでいるにちがいない。科学者もまた知覚を持つ他の被造物の要求を認め、「すべての知識の木から実をもぎ取るのは合法的ではない」と告白しなければならない。

 しかし、これらの真理を認めている人は僅かであり、無数の残虐な行いが――しばしば考えなしに――日毎に、否、毎時行われているのである。これはおそらく取るに足りぬ事と思われているのであろう。しかし、今から後、「あなたがはかるはかりで、あなたもはかられるであろう」という御言葉は人に対する取り扱いだけでなく、獣に対する私たちの取り扱いにもあてはまることが確実にわかるようになるであろう。正義のはかりは公平でなければならない。それゆえ、すべての不必要な行き過ぎた残虐さもまた、もしそれが習慣になるなら、再聴取を受けることになるであろう。なぜなら、かの日――

「裁く方が座に着く時、
 隠れた行いはすべて裁かれ
 復讐されずにすむものは何もない。」

からである。

「動物 その過去と将来」完


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 一つ目の引用については以上である。二番目の節は伝道者の書3章21節に見つかる。この節は古代のすべての翻訳者と現代の多くの注解者――その中にはデリチェとゼックラーもいる――によると、私たちの英語聖書では間違って訳されており、疑問文でなければならない。この節はソロモン王の懐疑的な瞑想の一つの中に現れる。それらの瞑想からわかるように、ソロモン王は幸福な時代の後に経験した実りなき労苦の数々を思い巡らしていた。伝道者の書はそれらの労苦の例をいくつか示した後、気高い結論を述べる。この結論の段落は18節から始まる。その箇所で、王は過ぎ去った出来事を思い返しつつ、神は決定的裁きの時を先延ばしにしておられることを述べている。その理由は、神が人の子らをふるいにかけるためであり、また、人は神を離れたら獣に優る者ではないことを人の子らに気づかせる機会を与えるためであった。なぜなら、人も獣も両方とも同じ運命が待ち構えているからである。すべての生き物にとって死は避けられないものである。みな同じ場所に向かって急いでおり、やがて塵になって混ざり合い、大きな共同墓地、母なる大地に帰るのである。死後、人と獣は同じ運命を共有しない可能性があるものの、それは不確かなことであり、決して答えられたことのない問いである。なぜなら――

「誰が知るだろう?
 人の子らの霊について、
 それらが上に昇って行くと。
 また、獣の霊について、
 それが地に下って行くと。」

 これがヘブル語原文が伝えるこの節の意味であると思われる。しかし、英語聖書の意味を認めて、この節を肯定文と見なしたとしても、それでも動物の霊が消滅する証拠にはならないのである。ヘブル人の考えによると、「地に下って行く」という表現は「ハデスに下って行く」ことを意味する――ハデスは肉体から分離した霊のいる所であり、しばしば地下の低い部分、地球の中心にあるものとして述べられている。コラとダタンとアビラムは、地が口を開いた時、生きたままハデスに下って行った。また、そこからサムエルの霊は上って来て地上に現れた。それゆえ、この場合でも、詩篇9篇17節で人々について述べられているくらいのことしか、動物たちについても言えないのである。

「邪悪な者はハデスに戻って行く。
 神を忘れるすべての国々もそうである。」

 この二つの節のどちらも、被造物たる動物を軽んじてよい証拠にはならないことは、このように明らかである。「動物の諸部族が存在するようになった唯一の目的は私たちに娯楽を与えるためであり、いずれ永遠の虚無に消え去る運命にある」などと軽んじてはならないのである。私たちが導いた結論には何の問題もないし、被造物に対する私たちの取り扱いに強い影響を及ぼすべきである。被造物には私たちと同じような未来があるように思われるし、また、被造物は地上における私たちの訓練のために決して取るに足りないものではない役割を果たすよう定められているように思われる。

 動物たちに対する私たちの権力はほぼ無制限である。また、動物たちはすべての面で私たちより劣っていることに議論の余地はない。この二つの事実を反論できない証拠として挙げて、「それによって私たち自身や私たちの種族が何らかの益を受けられるなら、動物たちを残忍に扱っても構わない」という主張がしばしばなされる。仮にこの論理が正しかったとしても、いささか不穏当であろう。なぜなら、理性的に考えて、正義は宇宙のどこでも同じであり、私たちより強い生き物もいるからである。しかし、偉大な造物主の知恵と力は私たちより遙かに高くそびえ立っており、それと比べるなら、私たちと動物の違いは無きに等しい。この造物主が世の命のために愛するひとり子を与えられた時、彼は劣った者たちを見下すような利己的な手本を私たちに示すようなことはなさらなかったのである。


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 新約聖書で主ご自身が、弱い被造物に対する御父の顧みについて、驚くべき洞察を私たちに与えて下さっている。ある時、すずめは人々の間ではあまり値打ちがなく、二羽一アサリオンで買えることを主が聴衆に思い起こさせた後、主はさらに言われた、「あなたたちの父なしに、その一羽も地に落ちることはありません」(マタイ10:29)――すなわち、傷ついたり、凍えたり、嵐に打たれたり、あるいは、他の何らかの方法で障害を負うことはないのである。「あなたたちの父なしに(without your Father)」という表現は、大いに注目に値する。どのギリシャ語原典を読んでも、これに変わりはない。アンシャル体でも草書体でもそうである。いくつかのラテン語の新約聖書と、クリスチャンの初期の書き物の一つか二つでは、「あなたたちの父の御旨でないかぎり」となっている。しかし、これは曲解にすぎない。それゆえ、私たちはこの言葉を省き、テキストを完全にありのまま受け入れなければならない――「あなたたちの天の父の御旨、臨在、助けなしに、その一羽も地に落ちることはありません」。

 第三福音書の同様の節で、私たちの主はすずめの価値の無さという周知の事実を、さらに強い光の中に置いておられる。あなたが二組のすずめを買うなら、ただで五羽目をもらえるのである。これは驚くにはあたらない。なぜなら、今でもパレスチナでは、この小さな被造物たちが屋根の上でさえずりながら列をなして座っている様子や、トウモロコシ畑の上をまるで小さな雲のように群がっている様子を目にすることができ、小さな子供たちでも簡単につかまえて市場で売ることができるからである。五羽のすずめは二アサリオンで売られていたのではないだろうか?しかし、その一羽たりとも神の目に忘れられることはないのである(ルカ12:6)。しかし、偉大な造物主がこれらのさして重要でない生き物をこのように優しく気遣っておられるとするなら、造物主の素晴らしい作品に対して人が常に行っている無思慮で野蛮な取り扱いを造物主はどのように感じておられるのだろうか?

 奇妙に思われるかもしれないが、動物たちには神の愛と顧みに対して、少なくともある程度、感謝する力があることを聖書は明らかにしているように見える。なぜなら、聖書のいくつかの箇所を見ると、動物たちが神を見上げている様子が描かれているからである。これは、動物たちには神に食物を与えて下さるよう神に願う手段があることを示唆する。詩篇作者は言う、「若いライオンは獲物を求めて吠え、自分たちのための食肉を神に求める」(詩篇104:21)。また、「神は獣に食物を与え、また鳴く小ガラスに与えられる」(詩篇147:9)。ヨエルもまた、祖国の荒廃を描写して、叫んで言う、「野の獣たちもあなたに叫びます。川の水は涸れ果て、火が荒野の牧草を焼き尽くしたからです」(ヨエル1:20)。また、全能者ご自身、族長の魂が必要な訓練に対して反抗していた時、ヨブに対する素晴らしい呼びかけの中で尋ねて言われた、「小ガラスが神に叫ぶ時、カラスに食物を与えるのは誰か?」(ヨブ38:41)。

 動物たちの現状と将来の運命に関して聖書が啓示していること、また、暗示していることは以上の通りである。しかし、これらの事柄は何と少ししか顧みられていないことか。否、これらの事柄を少しでも知っている人は何と僅かなことか!私たちの知識階級の大部分は、この主題を一顧だにしていないように思われる。たとえ彼らの注意が何かの拍子でこの主題に向いたとしても、「聖書によると、『獣は滅び失せる』運命にある」というような結論で、この問題をすべて片付けてしまいがちなのである。あるいは、おそらく彼らはこう答えるのである、「これらの被造物たちはあまり考慮する価値がありません。彼らの霊は、人の霊のように上に昇って行く代わりに、死ぬと『地に下』って塵に分解するのですから」。私たちが引用してきた聖書の節の上に異なる光を投じる別の聖書の箇所があるなら、もちろん、私たちは進んで私たちの推論を修正しなければならない。しかし、少なくとも、この二つの節について検証することにしよう。この二つの節は丁度引用されたばかりであり、私たちの反対者はいつもこの武器を使う用意ができているからである。

 この二つの節のうち、一つは詩篇49篇に現れる。この詩篇では、わずかな違いはあるものの、12節と20節で同じ句が二回繰り返されている。20節は次のようになっている――

「それにもかかわらず、人は栄華の中にとどまることはできない。
 人は滅び失せる獣のようだ。」

 さて、この節について最初の論評を述べると、「滅び失せる」というヘブル語は字義通りには「沈黙させられること」を意味する。したがって、フュルストの「口を利けない動物たち」という翻訳と同程度の根拠しかないのである。それゆえ、この御言葉は議論の根拠としてやや心もとない。

 しかし、たとえこの最初の論評を放棄して、この節を現行の聖書翻訳の通りに受け入れたとしても、この「滅び失せる」という言葉のヘブル語は獣だけでなく人にも使われている事実に私たちはまたもや出くわすのである(ホセア10:7, 15、イザヤ6:5を見よ)。それゆえ、ここで獣の運命が何であれ、人もそれと同じ運命なのである。

 最後に、この節の最上の訳はおそらくデリチェの訳である。彼は「人」と「獣」を両方ともこの動詞の主語にしている――

「人は栄華の中にとどまることはできない。
 人は獣のようである。人も獣も滅び失せるのである。」

続く


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 偉大な造物主は動物たちの将来に関して恵み深い目的を持っておられることがわかった以上、「動物たちに対する現在の顧みを示すいくつかの証拠が、少なくとも彼の啓示のあちこちに散らばっているのが見つかるはずであり、探すなら失望することはない」と期待するのはもっともなことである。

 創世記の最初の章からわかるように、実を結ぶ木々はアダムに食物として与えられ、他方、すべての青草は野の獣と空の鳥に食物として与えられた。人の堕落の後、人の食物は変わり、人もまた「野の草」に頼らざるをえなくなった(創世記3:18)。しかし、つつましい被造物に対する神の顧みはやむことはなかったのである。なぜなら、詩篇作者が述べているように、「主は家畜のために草をはえさせ、また人のために栽培する植物を与えられた」からである(詩篇104:14)。

 時がたつにつれて、人々の邪悪さがあまりにも酷くなったため、神は地の面からすべての生き物を一掃せざるをえなくなった。しかし、そうする前に、神は新しい個体群となる核を保存する措置を取られた。そして、それらの措置には八人の人間だけでなく、動物の王国のそれぞれの科の中から少なくとも一組が含まれていたのである。それは、動物たちもまた、回復された世界の中で自分たちの種を繁殖させるためであった。動物たちはノアとその家族の同じ箱船の中で救われた。彼らがしばらくの間、彼らの薄暗いひつぎの中に閉じ込められた後、「神はノアと、彼と共に箱船の中にいたすべての生き物と、すべての家畜とを心にとめられた」と聖書は私たちに告げている(創世記8:1)。

 弱い被造物に対する同様の配慮がバラムの歴史の中にも示されている。ロバが口をきいた時、「ロバが引き返していなければ、私は今頃確実にあなたを殺し、ロバは救って生かしておいたでしょう」と御使いは言ったのである(民数記22:33)。

 ニネベに対する裁きが延期されたことに対するヨナの愚かしい怒りは、次のような言葉で叱責された。「私は右手と左手の区別がつかない十二万あまりの人々と、多くの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」(ヨナ4:11)。十二万の幼児と多くの家畜とに対する神のあわれみが、この巨大な都市を救ったのである。

 その少し後、ハバククがカルデヤ人の冷酷さを非難し、恐るべき天罰について警告していた時、彼はカルデヤ人の罪状として、人々の血を流したことや、暴力をもって町とその住人を苦しめたことだけでなく――もし私たちが正しく訳しているなら――次のような罪状も付け加えている。「あなたがレバノンになしたあの暴虐と、獣たちを恐れさせたあの破壊とが、あなたに降りかかる」。このように、恐ろしい犯罪の話を数え上げる時、彼らが無情にも杉や糸杉を切り倒し、森を燃やし、それにより、野獣たちに恐怖と滅びをもたらしたことを、神はお忘れにならなかったのである。このような行為は加害者たちに跳ね返り、彼らをその重みで打ち砕き、打ちのめしたに違いない。

 詩篇36篇の壮大な二行連句を引用して、旧約聖書に訴えるのを終えるのは適切なことであろう。

 「あなたの裁きは偉大であり、深遠です。
  おお、主よ、あなたは人と獣を保護して下さいます。」

 まことに、主の裁きははかりしれない大海のように究めがたく、主の道は見い出しがたい!主が奥義を成就して、それを喜んで知らせて下さらないかぎり、誰がその奥義を理解することができよう?しかし、今はその素晴らしい働きを説明することができず、時として困惑して異邦の詩人と共に

 「彼の御思いの道は暗く薄暗いため、
  死すべき人の目では見通すことはできぬ」

と言い始めたとしても、それでも少なくとも一つのことを私たちは知っているのである。私たちは神の御旨に関して決してあいまいではない。神の御旨は罪と死のこの廃墟の中から大勢の者を救って生かし、保護することである――神は誰を保護されるのだろうか?人だけでなく、人と獣を保護して下さるのである。



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 この点は事実であると認められるし、上で述べた議論と張り合う反証の言葉は一つも聖書にない。そこで、しばしの間、恵みの座の上のこのような姿の外観の意味が何か考えることにしよう。

 この箱は契約の箱であり、その上にはシェキナがあった。したがって、神の目から見て完全な者、神に受け入れられている者以外の誰も、あえてその前に立つことはできなかったのである。この恐るべき臨在に他の者があえて近づこうものなら、炎の剣がたちまち現れて、ナダブとアビフのように焼け焦げた死体となって地に倒れたであろう。

 しかし、なぜ被造物はこのように厳しく造物主との交わりから締め出されたのだろう?神は愛であるだけでなく、聖であり、義であるからである。また、被造物は罪を犯して、造物主の律法を破ったからである。この律法は「私たちに対する戒めの規定」であり、契約の箱の中に置かれ、黄金の蓋もしくは恵みの座で完全に覆われた。この恵みの座はキリストの贖いの功績を示すものであった。キリストの完全な義は、神の刺し通す目をもってしても決して貫くことのできない唯一のものである。したがって、考察中のこの象徴において、恵みの座は破られた律法を神の義から隠し、他方、ケルビムはこの蓋の上で安全に安息することができたのである*。これは人々に二つの事実を絶えず思い起こさせる。第一に、神は救うことを約束したこれらの部族の記念を常にご自分の前に置いておられるのである。第二に、ケルビムが示すこれらの部族は、主イエスの贖いの犠牲を通して罪と腐敗から解放され、神の臨在の光の中に住むよう力づけられるのである。

 * 多くの人は「この象徴は教会を示す」と主張しており、彼らの見解を擁護するため、「このケルビムは金を打ち叩いて造られたものであり、キリストを示す恵みの座と一体であった」と言う。しかし、今日のクリスチャン以外の他の者たちも究極的にはキリストと結合されることを彼らは忘れている。このケルビムに内包される預言は、教会の栄光化の遙か彼方、時満ちた時代にまで及ぶのである。その時代、神は万物を、天にあるものも地にあるものも、キリストの中で一つにしようとされるのである(エペソ1:10)。

 しかし、ケルビムは人だけでなく被造物たる動物をも示している。したがって、被造物たる動物も人と共に贖われるであろう。

 「この主題はとても重要であり、通常の神学的教えを覆すものなので、象徴に基づいて議論することは許されません。象徴の解釈を間違う恐れがありますから」と言って私たちの推論に反対する人がいる場合、私たちは次のように答える。「旧約では贖いの奥義は常に象徴の中に隠されてきました。しかし、新約では、被造物の救いは明白な間違えようのない言葉で私たちの前に示されているのです」と。

 その十分な証拠は、有名なローマ書8章19節から24節の中に見いだすことができる。ここでパウロは、「被造物は切なる願いをもって、神の息子たちの出現を待ち望んでいます」と宣言している。その日、一瞬のうちに、神の選民の卑しい体はキリストの栄光の体のように変えられる。そしてこの時、「被造物もまた」腐敗の束縛から解放されて神の子どもたちの栄光の自由に入る時が来るのである。

 全被造物の呻きと産みの苦しみはこうして終わりを告げる。そして、御霊の初穂を持つ私たちと同じように、被造物たる動物は望みによって救われているのである。なぜなら、被造物たる動物が虚無に服したのは服従させた方によるのであって、「望みがある」からである*。

 * ローマ書8章20節、24節と比較せよ。

 このように直接的な予言が私たちの前にあるのだから、イザヤ書11:6-9、65:25、エゼキエル書34:25、28、ホセア書2:18といった節の文字通りの意味を受け入れることを恐れる必要はない。これらの節が述べているように、その後、狼は小羊と共に臥し、ライオンは雄牛のようにわらを食べ、毒蛇とまむしは子供たちの遊び相手になる。なぜなら、贖いの時が来て、人から罪が取り除かれる時、被造物たる動物の中から有害なものは姿を消すからである。それどころか、残忍な地も呪いから解放されるのである。

 それゆえ、この時代の終りの時の偉大な贖いの光景を描写する際、ヨハネが次のように述べたのも不思議ではない。「また私は、天と地、地の下と海の中にいるすべての被造物、そして、それらの中にいるすべての者が言うのを聞いた、『御座に座しておられる方と小羊に、祝福、栄誉、栄光、権力が、永遠にありますように』」(黙示録5:13。詩篇148篇と比較せよ)。詩篇作者もまた、来るべき王の幻に魅せられて大声で言った――

「天は喜び、
 地は楽しみ、
 海とその中に満ちるものとは鳴りどよめき、
 田畑とその中のすべての物は大いに喜べ。
 そのとき、森のすべての木々は、
 主の御前で喜ぶ。主が来られるからである。
 主は地を裁くために来られる。
 主は義をもって世界を裁き、
 まことをもって諸々の民を裁かれる」
(詩篇96:11-13)

 主は戻って来て悪魔の働きを滅ぼし、悪魔の働きによって長い間隠されてきた神の栄光を啓示される。そして、すべての生き物はエデンの園の平和と調和に再び回復され、地は彼らの必要を満たすために豊かな供給を再び生じさせるのである。

続く


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