しかし、締めくくるに当たって、調停する弁証論的思想を一つか二つ示して、読者に供したいと思う。

 聖書には、真理全体、神の御旨全体、神の完全な性格が記されている。しかし、神の性格は二重である。神は義なる統治者であり、支配下にある者たちに従順を要求される。しかし、神はまた憐れみに満ちた主権者であり、被造物に諸々の恵みを与えて下さる。この神の二つの属性という山の頂から交互に眺める時、人は二重の性格を帯びる。神は至高の創造者であって、その御旨は堅く立たなければならず、あらゆる混乱に対して最初から永遠の御旨が備えられている、としたらどうだろう?ああ、この場合、人は物にすぎないのである!揺らぐことのない数々の法則の下で陽光を浴びる塵にすぎないのである!人の善はすべて創造者から発しなければならない。

 しかし、我々は神をこの宇宙の支配者と見ることができるし、そうするべきである。神は律法の授与者であって、被造物がご自分に従うことを期待しておられる。この御方は約束を与え、警告を与える。その約束は永遠の命であり、その警告は無限の炎と苦しみである。ああ、この時、人は人格を持つのではないだろうか?人は自由な独立した支配者となり、自分の意志のままに選ぶことができ、神もまた人の行いに応じて人を正しく裁くことができるのではないだろうか?この見方によると、人は反逆者であり、神の数々の律法を破り、神の御心を痛めているのである。そして、義なる統治者を怒らせた罰を永遠にわたって受けることになるのである。

 この二つの見方は異なっているが、両方ともおおむね真実である。聖書は両方とも主張している。人は能動的であり、受動的である。人は神のに関して能動的であり、神の主権に関して受動的なのである。

 キリストの十字架という福音的観点がなかったら、神の義と神の憐れみというこの対照的な要求は到底満たせなかったであろう!キリストの十字架において、神の完全な義と完全な憐れみが無限の調和のうちに現れたのである。この両方の特質はそれぞれ、人々に対する将来の裁きと報いの時、この素晴らしい出来事の時と同じように、見事な調和のうちに働くであろう。しかし、福音の啓示がなければ、人は知る事ができなかったであろう、人の罪に関して、この二つの特質の相反する要求がいかに満たされるのかを。この二つの特質は今や、人類の振る舞いや将来に関して、調和のうちに働いているのだから、たとえこの二つの特質を均衡させてその要求を調整しようとする企てに困難があったとしても、それは素晴らしいことではないだろうか?そのような企てによって、我々は自分の分を踏み越えてしまったのである。

 ここに、処方箋に従って薬を調合している薬剤師がいる。客が店に入ってきて、処方箋に目を通し、「シアン化水素にキニーネを混ぜると、何かいいことがあるのですか?」「同じ小瓶に強壮剤と消炎剤を混ぜても大丈夫なのですか?」と尋ねる。「こんなにも正反対の性質を持つ薬品を混ぜて、どんな良い効果があるというのでしょうか?」。薬剤師はこう答えるであろう――「そうお尋ねになっても、お客様、それは私の専門ではありません。この処方箋を作成した人は、私より遥かに薬物の専門家なのです。私はただ手順に従っているにすぎません。この薬の効用について、私には責任がありません。私の義務はこれらの薬品を混ぜることです。私の責任はただこれだけです。病人に対する効能について、私はご質問にお答えする立場にはないのです」。この薬剤師にとっては、この返事で十分ではないだろうか?なぜなら、薬剤師の知識は医師より劣っているからである。それゆえ、神の僕が宣べ伝えたり教えたりする時、魂の医者である全知なる御方の権威に基づいて、相反するように思われる真理を組み合わせても良いのである!しかり!神の薬局の薬剤師なのである!手順に従って処方せよ!結果は、処方箋を書いた御方に委ねよ!

 聖書は正面が二つ以上ある家のようなものである。いつも東の道を通って家に来る人は、家の色は黒だと確信するかもしれない。いつも西の道から家に入る人は、それと同じ確信、同じ正しさをもって、家の色は白だと確信するかもしれない。しかし、両方の道を歩み、家の周りを巡って、あらゆる角度から家を眺めるなら、前面と背面の黒と白の壁それから切妻が一軒の頑丈な建物を形造っており、それは神と人の両方の性質に深く根ざしていることがわかるであろう。真理の半面しか受け入れない人は豹変しやすい。また、熱心であればあるほど、ますます意固地になって一方に偏ってしまう。熱心なアルミニウス主義者は、強力な反対者や真理の力によって、神の主権を確信するようになると、強情で頑固なカルバン主義者になってしまうことが少なくない。そして、多くの良いわざを行うことから出発した人が、最後には、そうした良い行いを非難して拒否するようになるのである。

 どうか主が我々に単一の目と聖霊の教えを与えて下さり、御言葉の一つ一つの箇所が、我々の判断と心と振る舞いに、しかるべき印象を残すようにして下さいますように!



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XVI. クリスチャンの兄弟たちよ、聖書を丸ごと受け入れようではないか。ある人々が聖書を重んじているのは、聖書が保守的な原則を教えて具体化しているからであり、この世や教会における特権、地位、能力の多様性を、力強い絶え間ない声で確証しているからである。

 他の人々は聖書の中に、支配者や富める者の不正に対する恐るべき非難や、進歩のための原則や改善のための原則しか見ることができない。人の起源は一つであること、偉大なる審判者の御前に魂はみな平等であること、この御方に対して皆が同じ責任を負っていること――聖書が示すこうしたことを彼らは熱心に握りしめる。

 しかし、聖書はこの両方の真理を支持しているのである。聖書は神の書であって、人の書ではない。いと高き方の量りは公平である。聖書は王たちの数々の罪について告げているし、人々の不正についても告げているのである。

 真理のこの二重性から諸々の困難が生じるが、それは計画通りなのである。こうして神は人類を試されるのである。こうして神はご自分の民を試されるのである。神の単純な主張に基づいて、彼らは神の両方の宣言を受け入れるだろうか?大部分の人は受け入れない。彼らは片寄っている。何でも無理やり調和させようとする。彼らは聖書の段落に現れる矛盾や「過ち」に我慢できず、自分たちの見解に反する証拠をすべて無視する。このようなことはやめなければならない。心の単純な人は耳を傾けるであろう。「主は何を語られたのか?」という事実が重視されるようになるなら、クリスチャンたちの間の距離はいっそう縮まるであろう。我々の理論を調和させるまで、神の真理を後回しにしてはならない。これを見て証しする時、我々は一致に向かう道を大いに前進するであろう。

 陸や海を旅する時、我々を勢いよく進ませる、あの強大な力は何か?火と水の産物である。火か水を取り去るなら、エンジンは活動を停止した鉄の塊のままである。火と水は正反対の性質を持つ。しかし、区別を保ったまま接触させると、何と素晴らしい結果が生じることか!

 さて、蒸気エンジンについて未開人に完全に正しく説明したとしよう。未開人からすると、極めて馬鹿げた矛盾に思われるのではないだろうか?彼らに動いている蒸気エンジンを見せよ!彼らの間に二つの党派が生じるのではないだろうか?――「火炎派」は炉が全ての力を生み出していると考え、「水派」は液体のみから力が生じると見なすのではないだろうか?これと同じように、互いに排斥し合っているカルバン主義者とアルミニウス主義者は、私には不合理に思われるのである。

 説教者よ!二本の手綱を握りたまえ。片側ばっかり引いてはならない。さもないと、あなたもあなたの馬も溝にはまるであろう!

 それゆえ、私は読者に勧める。神が言われたことを受け入れよ。たとえ矛盾しているように思われたとしても、一方において神ご自身の主権と無限の力を、他方において人の自由と責任を受け入れよ。神がこれを証ししておられるからである。これを受け入れるにはこの根拠だけで十分である。最初にこれを体系づけて、理論の枠組みの中に収める必要はないのである。

続く

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XIV. 神の経綸も、この同じ真理のもう一つの例である。神は不変である。しかし、神は様々な時に、ご自分に関する様々な見方を示されたこと、そして、それに基づいて異なる一連の命令を設定されたことも、同じように真実である。神の善なる、喜ばしい、完全な御旨を理解して、それに従うことを願うなら、この諸々の経綸を区別しなければならない。しかしここでも、他の事例と同じように、人の盲目で、性急な、ひねくれた知性のせいで、混乱が生じたのである。いと高き方は右と左に垣根を巡らされたが、人の知性は反対向きの二つの方向に進んで、その垣根を突き破ってしまったのである。

 1. 古代の最も恐るべき誤謬は、キリストの教会をユダヤ教の経綸に反するものとしたことであった。それぞれの戒めや原則があまりにも異なっているので、この二つは同じ神から出たものではありえない、としたのである。それによると、キリスト教は善なる神から出たものであり、ユダヤ教は邪悪な創造神から出たものである。これがグノーシス主義者の見解であり、昔の自信過剰な哲学者の理論であった。

 2. この冒涜と誤謬の体系は過ぎ去った。しかし、この体系は今日、再びよみがえって、昔の冒涜的な言葉と忌まわしい行いとを再現する定めにある。しかし、名ばかりのキリスト教が優位に立って、皇帝たちの厚意を受けた時、別の体系が生じた。ユダヤ教とキリスト教の体系が混同され、融合してしまったのである。キリスト教は世襲的、国家的なものになった。幼児洗礼が確立された。クリスチャンの教会の長老は、ユダヤ教の宮で犠牲を献げる祭司となった。そして、ユダヤ人に対する地的な約束は教会の分である、という主張がなされた。これがローマの根本的誤謬である。ローマは宗教を形式や儀式の問題にしてしまった。そして、ローマに信頼する、信仰を告白するクリスチャンたちを、律法の行いに連れ戻してしまったのである。ローマはバビロンである。バビロンとは混乱を意味する。多くの人が依然としてこの悲しむべき立場に部分的にとどまっており、キリストの僕たちですらそうである。しかし、この誤謬は、キリストにある真実な心の持ち主の思いの中から、光の力により、すみやかに消え去るにちがいない。聖霊は最近、この問題に関して、御言葉からその光を解き放って下さったのである。

XV. 最後の例として、神の御言葉に向かうことにする。

 1. 聖書の中には奥義的で理解の困難な箇所が確かにある。そうした箇所にローマは立脚して、「これほど難解な書を無知な人民の手に渡していいのでしょうか?」と問う。ローマは勝ち誇って問う、「学識の無いあわれな人に、どうして解釈の原則がわかるでしょう?」と。

 2. しかし、ローマの嘲りに対する答えは、神の御言葉のもう一つの面にある。聖書はすべてが奥義的なのではなく、すべてが深い探求や、言葉に関する知識や、解釈の法則を必要とするわけでもない。単純で、子供の理解力でもわかる箇所もある。理解が困難な箇所もあることを聖霊は認めておられ、邪悪な心の持ち主はそうした箇所を曲解して滅びに至っている。他方、主イエスはサドカイ人の過ちを叱責された。なぜなら、彼らは聖書を知らなかったからである。聖霊は一人のユダヤ人の母親の行いを良しと認められた。その母親は自分の子供に幼少の頃から聖書を教えたのである。聖書は人に知恵を与えて救いに至らせることができる。

 このように聖書には二重の性格がある。聖書を与えて下さった神と同じである。ある箇所には、我々を導く神の御旨が文字の形で記されており、それを走りながらでも読むことができる。別の箇所では、神の永遠の御旨という広大無辺な海にそびえる岩の上に我々は立つ。また、不動の確固たる重みを持つ奥義が我々に押し迫ってくる。我々より遥かに良く知っていた者と共に、我々は叫ばざるをえない、「ああ、何という深遠さよ!」と。

 書簡を見よ。人には理解力がある。書簡は指示をもって人を照らし、神に対する自分の関係や、自然には見いだしえない目に見えない事柄について、人に理解させる。しかし、理解力の光では不十分である。人は知的な思索する存在であるだけでなく、活動する存在でもある。それゆえ、書簡は教理的であるだけでなく、実行的でもあるのである。

 神の御言葉には文字通りの場合と、比喩の場合とがある。この二つの原則は相容れないのであろうか?断じてそんなことはない!この二つの原則の一方を強調して度を越すことが誤りなのである。神学者たちは律法を文字通り我々に適用した。こうして、幼児洗礼、聖水、聖衣、聖所や聖日、戦争、宣誓が入り込んだ。しかし、神学者たちは預言者たちの書を霊的に解釈して、ユダやエルサレムに対する約束を教会の相続財産とし、預言を絡まった蜘蛛の巣のようにしてしまった。預言は一人一人の信者の内的経験について語っている、というのである。このやり方を逆転させよ!

続き

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XI. 礼拝の精神も、この同じ真理のもう一つの例である。

 1. 神の御前に出ようとする者は、自分が向かっている御方の無限の威光を覚えつつ、真心からの崇敬の念をもって近づかなければならない。クリスチャンは僕(奴隷)*なのである。

    *Δουλοs。ローマ1:1、&e

(1.) 「恵みを受けて、それにより、崇敬と敬虔なる畏れとをもって、神に受け入れていただけるように仕えようではありませんか」(ヘブル12:28)

 2. しかし、恐れによるよそよそしい精神を神は好んでおられない。神はご自分の民の心の中に、神ご自身に向かう愛を注ぎ込もうとしておられるのである。この愛は福音の偉大な特質である。信者は息子なのである。

(1.) 「あなたたちは、再び恐れを抱かせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分の霊を受けたのです。この霊によって私たちは『アバ、父よ』と叫びます」(ローマ8:15)

(2.) 「こういうわけで、私たちはイエスの血によって、大胆に至聖所に入り(中略)信仰の確信に満ちた真実な心をもって、みまえに近づこうではありませんか」(ヘブル10:19、22)

 この二つの異なる原則によって堅くされる時、遠く離れて礼拝することも、軽率な馴れ馴れしい言葉や態度で不興を買うこともなくなるのである。

XII. また、この同じ真理が恵みの手段にもあてはまる。聖徒たちの公の集会がなければ、真の宗教が栄えることはありえない。

 「ある人々のように、共に集まることをやめることなく」(ヘブル10:25)

 しかしまた、公の集会のみによって成り立っている宗教は不健全きわまりないものであって、性格や品行に影響を及ぼすことはない。人は外側の目に見える体と、内側の目に見えない魂とから成っている。宗教もまた、儀式と教理の両方から成っていなければならない。また、密かな祈りと、礼拝や耳を傾けるための公の集会の両方から成っていなければならない。木は二つの部分から成っている。目に見える幹、枝、葉と、木をしっかりとその場所に固定する、目に見えない根である。

 真理の門は唯一である。しかし、その柱は二本である。「入口を馬車で通る時は、右側の柱さえ見ていればよい」と思っている人もいるようである。彼らは左手の手綱を強く引っ張りすぎて、馬車を反対側にぶつけて壊してしまう。他の人々は、左側の門柱をはっきりと見ており、それを見落とす者たちの盲目さに驚きつつ、無惨にも右側に衝突して粉々になってしまうのである。

XIII. 教会の別の例に目を向けることにしよう。

 1. しばしば、教会は一つの偉大な統合体として示されている。屠られて復活したイエスにある信者はみな、その肢体である。

(1.) 「キリストが教会のかしらであるように、夫は妻のかしらです」「キリストは教会を愛して、教会のためにご自分をお与えになりました。(中略)それは、栄光の教会をご自分に迎えるためです」(エペソ5:23、25、27)

(2.) 「御子は、そのからだなる教会のかしらです」(コロサイ1:18)

(3.) 「この岩の上に、私は私の教会を建てます」(マタイ16:18)

2. 他方、教会は異なる別々の部分から成っている、と示している箇所もある。その各部分には、各地の奉仕者たちがいる。
(1.) 「私はあなたたちに、私たちの姉妹であるフィベを推薦します。彼女はケンクレアにある教会の奉仕者*です」(ローマ16:1)
    *Διακονη

(2.) 「私の兄弟、同労者、戦友であり、あなたたちの使徒であるエパフロデトを、あなたたちに送る必要があると思います」(ギリシャ語を見よ、ピリピ2:25)

 3. 救い主は、アジアの七つの教会のそれぞれに、手紙を別々に送られた。それぞれの教会は、ひとりの別々の御使いあるいは奉仕者の導きと指導の下にあった。そして、この御使いまたは奉仕者に、自分に委ねられた教会の状態に関する責任があったのである。エペソの状態についてスミルナには責任はなく、ラオデキヤの状態についてヒラデルヒヤには責任はない。

 それゆえ、両方とも真理として保たなければならない。キリストの教会は一つであり、キリストの諸教会は多数である。「多様性における単一性、単一性における多様性」が、ここでも成り立つ法則である。

続く

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IX. 人の性質中に潜むこの全く同じ欠陥から、礼拝に関して、クリスチャンの多くの誤謬が生じた。聖なる三位一体の御名による弟子の浸礼、互いの足を洗い合うこと、主の晩餐を、イエスは命じられた。儀式抜きでは教理は存続しえないこと、教理抜きでは儀式には価値がないことを、神聖な贖い主はご存じだったのである。それゆえ、古いぶどう酒と新しいぶどう酒、古い皮袋と新しい皮袋のたとえ話で、儀式と教理の関係の必要性と、福音の新たな教理を示す新たな儀式の必要性とを、彼は示されたのである。しかし、救い主の単純な儀式に、ローマは自分自身の多くの儀式を付け加えてしまった。他方、クエーカーは儀式をまったく排除している。彼らの目に福音はあまりにも霊的なものなので、外面的儀式はあってはならない、というのである。このように、神の道から右や左に逸れて行くことにより、手に負えない人の意志はその頑迷さを露呈したのである。

X. さらにまた――教会建造の方法はいかなるものか?罪人はその中にどのようにもたらされるのか?

 1. ある人は言う――「説教者の生の声を聞いて教わることによってです。そうでない限り、すべての人の手元に聖書を送り届けたとしても、一人たりとも救われることはありません。福音の使者が徒歩で良きおとずれをもたらして、それを声に出して語らなければ、人は福音を聞くことはなく、信じることはない、と聖霊は言っておられるのではないでしょうか?」

 2. しかし、他の人の返答は反対である。「どう学べばよいのか、とお尋ねになるのですか?聖書によってです!聖書だけが誤りなき真理なのです。説教者たちは間違ってばかりいます。ある面について間違いや過ちを犯したかと思うと、今度は別の面でもそうするのです。成長して賢くなりたいのですか?聖書を学びなさい。イエスはご自分の務めが神から出ているかどうかを知るために、ユダヤ人たちを聖書の学びに召されたのではなかったでしょうか?聖書は人に知恵を与えて救いに至らせる、とパウロは確証しているのではないでしょうか?」

 「この証しのどちらを受け入れたらよいのだろう?」と誰でも思わずにはいられないのではないだろうか?その答えは、以前と同じように、両方である!この真理の柱のどちらも、自分の理解や心の中から押しのけてはならない。この二つがあなたの手の中で一つにならない限り、あなたは神の証しをすべて得ることはない。これを願う者をして、確かな真理を切り分けさせよ。あなたは両方とも保たなければならない!福音が最も栄えたのはどこだったか?ベレヤである。なぜか?そこの人々はこの二つの手段を積極的に用いたからである。使徒たちは宣べ伝え、聴衆の前に数々の極めて新しい変わった見解を示した。しかし、使徒たちはこれらの見解を確証して、律法と預言者たちの書によって裏付けた。それゆえ、ベレヤの人々は、この新しい音信おとずれが、証拠として示されたものによって証明されるかどうかを見るために調べたのである。この生ける御言葉は書き記された御言葉によって確証されることを、彼らは見いだした。それで、彼らは自分の魂を福音の恵みに委ねたのである。

 このように、書き記された御言葉は説教者を試すものなのである。書き記された御言葉は、説教者の教えることが正しいか間違っているかを示す。説教者がいなければ、大多数の人はたとえ毎日自分の聖書を読んだとしても、極めて重要な諸々の真理に気づくことなく通り過ぎてしまうであろう。しかし、他方、人は常に悪になびきやすい者であり、教師も自分の利益のために真理を乱用しやすい者であるから、説教者が語る教理の正しさを判断するには、「説教者がそう言っているから」とか、「説教者は聴衆よりも賢いから」といった根拠よりも強力な根拠が大いに必要なのである。

 それゆえ、よく教わったクリスチャンは、自分の聖書に向かって、示された教理が神の書の中に見つかるかどうかを調べるのである。

 この点についても、二つの反対の方向に向かって逸れて行くのが人のさがである。ローマは信徒から神の御言葉を取り去って、人々をして神父の権威ある言葉に頼らせる。他方、信者は誰でも神の御言葉を精読するだけで自分ためにあらゆる真理を発見する能力を持つ、という見解を支持する者もいる。そのような人々は教師の役割を否定するのである。

続く

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