しかし、一言注意を述べよう。この祝福を求めるとき、自分の安息を失わないように気をつけようではないか。もし信仰の安息の中にもたらされているなら、もし彼の安息の中に入っているなら、いかなる考えによってもそこからおびき出されないようにしようではないか。神を待ち望もうとするなら、安息しきっていることほど必要なことはない。しかし、多くの人は「御霊のバプテスマ」を求めるあまり、完全に安息の中から抜け出てしまったのである。だから、われわれの熱心さが退化して性急な心配にならないように気をつけようではないか。

 もう一つの警告が必要である。何があっても、キリストから目を放してはならない。また、自分が求めている祝福はキリストの外に、あるいはキリストとは別に存在する、と思ってはならない。「あらゆる豊かさ」――すなわち御霊の充満――は彼の中に宿っていることを覚えよ。

 また、経験――何か異常な霊感――を得ることに自分の心を向けないように気をつけよ。進んで神の御旨の中に安息せよ。神に「あなたを所有してもらい、砕いてもらい、仕上げてもらえ」。そうするなら、神があなたを所有して下さる。

 証拠について一言。「自分が聖霊に満ちていることが、どうすれば分かりますか?」と尋ねる人が誰かいるだろうか?それを知ることにより、あなたはこれを確信するようになる。ヨハネ一四・一一と二〇の二つの御言葉を比較せよ。「私が父の中におり、父が私の中におられることを信じなさい」。「その日(御霊の充満があなたに臨む日)、私が父の中におり、あなたたちが私の中におり、私があなたたちの中にいることを、あなたたちは知るようになります」。「御霊の教えにより、信仰のみに立つべき時がいつなのか、あなたたちは知るようになります」。その日あなたたちは「この知識により、私とのあなたたちの交わりの豊かさを理解します」。御霊の充満はキリストをわれわれの意識に対して、現実の、内住する、すべてに十分な救い主とする。御霊はわれわれの注意をキリストから他の対象に逸らすことは決してない。御霊はキリストの栄光を表わす。御霊の充満を知れば知るほど、われわれはますますキリストをあがめ、ますますキリストで占有される。「御霊の経綸はキリストの啓示である」(カノン・ウェストコット)。

「霊の命にある自由の法則」 完


オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ


 しかし、この満たしの性質を認識しそこなっているせいで、多くの人が困惑している。

 聖霊をさらに得ようと求める代わりに、聖霊がわれわれをさらに得ることができるよう、われわれは自分自身を聖霊に委ねるべきである。

 ここで単純な例証が助けになるだろう。

 あなたが誰かを自分の家に迎え入れて、一つの部屋を与えたとする。その部屋はあなたの家で最善の部屋だが、まだその部屋しか与えていない、と仮定しよう。しばらくして、あなたはその人に別の部屋を与える。このようにあなたは続けて行き、一つずつ部屋を与えて、ついには全家がその人のものになり、その人の支配下に入る。

 さて、この場合、何が起きたのか?この人がますますあなたの家の中に入って来たということではなく、あなたの家がますますこの人のものになったということである。

 だから、忘れないようにしようではないか。御霊に満たされることについて述べる時、その祝福は神からの単なる影響や流出を受け取ることにあるのではない。御霊はひとりのパースンである。われわれは御霊を受けた。われわれが死から命に移った時、御霊はわれわれの心の中に入って来られた。信じてキリストに回心した時、われわれは個人的な聖霊を受けた。しかし、この祝福は次の点にある。すなわち、われわれはますます完全にその力と支配の下にもたらされたのである。御霊がさらに十分にわれわれを所有されたのである。

 これが全く聖められることである。霊――われわれの存在の中心部分であり、ここから再生の御業が始まる――だけでなく「霊・魂・体がすべて」――言わば家の中のすべての部屋が――御霊に明け渡される時、その時、われわれは「聖霊に満ちる」のである。


オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ


 もし願いに欠けているせいで多くの人が妨げられているとするなら、受け取らないせいで妨げられている人はどれほど多いことか!真に熱心な人々の問題はここにあるように思われる。求めは多いのに祝福が少ししかないか、あるいは全くない理由は、それに見合った仕方で受け取っていないからである。しかしこの扉――いま信じて受け取ること――を通して、御霊の充満だけでなく他のあらゆる祝福も実現されるのである。

 この問題に関するわれわれの主の指示は明確・明快である。「ですから、私はあなたたちに言います。何でもあなたたちが祈り求めることは、すでに受けたと信じなさい。そうすればその通りになります」(マコ一一・二四)。つまり、「祈り求めたものを、いつの日か、遅かれ早かれ受けるだろうと信じるのではなく、祈っている時に実際に受けたと信じるべきである」(「新約聖書注解」エリコット司教編)。

 自分は受けたと信じることは、自分は願い求めていると信じる以上のことである。われわれの信仰が求める段階から受け取る段階に移る時、この満たしが臨むのである。

 真に求めることは、キリストの御名の中で求めることである。このように祈る時、われわれは求めるだけでなく受けるのである。「今までは、あなたたちは私の名の中で何も求めたことがありませんでした。求めなさい、そうすれば受けます。それはあなたたちの喜びが満ちるためです」(ヨハ一六・二四)。

 ここでわれわれの主は「求めなさい、そうすれば与えられます」とは述べておられないことに注意しようではないか。これは真実だが、彼がここで述べておられるのはもう一方の面――人の面、受け取る面――である。「求めなさい、そうすれば受けます」。真の願い求めには、必ず、その後にあるいはそれに伴って、実際現実に受けることが続く。


オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ


 受けること。神の諸々の約束を求める一方で、その諸々の命令に従うことを忘れないようにしようではないか。「聖霊を受けなさい」「御霊に満たされなさい」は神の命令である。ペテロとヨハネがサマリヤにいるクリスチャンの回心者たちのもとに来た時、彼らは「彼らが聖霊を受けるよう、彼らのために祈った」(使八・一五)。パウロがエペソに来て、そこで弟子たちを見出した時、彼は彼らに「あなたたちは信じた時、聖霊を受けましたか?」(使一九・二)というこの質問をした。この人々がどのような類の弟子だったのかに関する質問はさておき、次のことは明らかだと思われる。使徒は彼らがキリストの弟子――御名の中へとバプテスマされて、それゆえ聖霊から生まれた信者――であることを前提としてこの質問をしたのである。彼らは実際にはバプテスマのヨハネに従う者たちにすぎなかったことがわかる――キリスト教の経綸の中に個人的に入っていない弟子たちだったのである。しかし大事な点は、結局のところ、彼らの霊的状態がどうだったのかということではなく、使徒の意図は何だったのか、その質問の目的は何だったのかということである。

 彼の質問は次の事実を示唆するのではないだろうか?すなわち、御霊から生まれた信者でも、使徒たちがペンテコステの日に聖霊を受けたのと同じような意味では、まだ聖霊を受けていない可能性があるという事実である。

 それゆえ、この同じ使徒がガラテヤ人に「あなたたちが御霊を受けたのは律法の行いによるのですか、それとも、信仰を聞くことによってですか?」(ガラ三・二)と書き送っているのをわれわれは見い出す。信仰は働くことではなく受けることにある。

 これをわれわれの主の御言葉と比較せよ。「それは真理の霊です。この御方をこの世は受けることができません。この御方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたたちはこの御方を知っています」(ヨハ一四・一七)等々。「この世については、視力に欠けているせいで持つことができない。弟子たちについては、この慰め主の個人的臨在が知識をもたらし、この知識により、いっそう完全に受ける力を持つようになる」(カノン・ウェストコット)。


オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ


 願うこと。「聖霊に満ちて」いることは使徒時代特有の祝福ではなく、現経綸のすべての信者の大きな特権であること、それはいま経験・理解できる祝福であること、そして、この「充満」無しに生きることはわれわれの真に正常な状態の水準よりも低い生活を送ることであることを、信仰は理解する。

 これを見て感じよ。そうするなら、直ちに一つの願いが魂の中に呼び覚まされる。それは祝福そのものの先駆者である。この願いがなければ、御霊の充満を求めるわれわれの祈りは冷たい、形式的な、非現実的なものになってしまう。満たされたいという願いは、時として、魂の不毛さを感じる痛ましい感覚によって生じる。詩篇六三・一のダビデの言葉のような表現は、神だけが与えうる命と新鮮さを求める魂の願いを正確に言い表わしたものである、と感じるのである。「私の身は、水の無い乾いた地にあるように、あなたを慕い求めます」。何と多くのクリスチャンが、経験上、この「乾いた地」の中にあることか!このような状態の中にあるのは、実に悲しいことである。しかし、不毛で実を結ばない状態にあるにもかかわらず「谷川の水」に対する願いがないのは、さらに悲しいことである。これが今日の教会の弱さの隠れた原因ではないだろうか?――乾き、不毛で実を結んでいないにもかかわらず、「神の満ち満ちた豊かさで満たされ」たいという願いが実際のところ少ししかないか、あるいは全くないのである。

 しかし、神が魂を満たそうとされる時、神は魂を「荒野」の中に誘う(ホセ二・一四)。神は魂を導いて、自分の必要を見て感じるようにされる。「そこから」神は魂に「満ち満ちた祝福」を受けさせる。自分の干上がった不毛な状態を知るようにされることは、世的な妥協はすべて全く愚かなものであって罪であることを見ることであり、神に対する全き完全な明け渡しの必要性を見ることである。神のために「徹底的」になるという考えや、この世の富を大いに失うという考えから、われわれはもはや尻込みしなくなる。神と共に進み通すことをもはや恐れなくなる。神がわれわれに関して御自身の道を進まれることを、われわれは今や喜ぶようになる。

 読者よ、あなたはこのような自己に対する絶望に導かれたことがあるだろうか?苦い経験により、二心な生活は遅かれ早かれわれわれを「水の無い乾いた地」に導くことを知るようにされただろうか?

 もし今あなたの心からの言葉がダビデの言葉と同じなら、神に感謝せよ。「神よ、鹿が谷川の水を慕いあえぐように、私の魂はあなたを慕いあえぎます。私の魂は神に、生ける神に渇きます」(詩四二・一~二)。注意せよ。この願いは単なる神の賜物に対するものではなく、神御自身――「生ける神」――に対するものなのである。

 主御自身の臨在と豊かさを求める、この同じ強烈な魂の願いが、別の詩篇の中に表現されている。「私はあなたに向かって私の手を伸ばします。私の魂は乾いた地のようにあなたに渇きます」(詩一四三・六)。

 今や、願い求めるこの霊に祝福が与えられることがわかる。われらの主はそれに至福を与えて下さる。「幸いなるかな、義に飢え乾いている者たち。彼らは満たされるからである」。それでも、この願いで立ち止まらないようにしようではないか。この「渇き」は「満たし」のための備えにすぎない。これはわれわれを次の点に導く。


オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ

プロフィール
カレンダー
03 | 2017/04 | 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -
全記事表示リンク
検索フォーム
個人のブログに関するリンク集
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

電子書籍
Glorious Secret
ジェシー・ペン-ルイス
「栄光の奥義」


The Cross of Christ
アンドリュー・マーレー
「キリストの十字架」


ランキングサイト
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ

人気ブログランキングへ ブログランキング

ブログのまどランキングへ ブログ王へ

ブログランキング【くつろぐ】

QRコード
QR
カウンター

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ