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 ヨシュア記の次の馴染み深い絵図に戻って下さい。「これによってあなたたちは生ける神があなたたちの間におられることを知ります。見よ、全地の主の箱があなたたちに先立ってヨルダンに入ります」。これは死の中に入ってそれをくぐり抜け、死から出て天へ、復活・勝利・力・権威の場所へ至る主イエスです。「これによってあなたたちは知ります……」。すべてをくぐり抜けた御方、すべてを成し遂げた御方がおられます。箱がくぐり抜けた事実という根拠に基づいて、彼らもくぐり抜けられることが保証されました。箱がくぐり抜けて勝利したという根拠に基づいて、彼らの勝利も確実でした。比喩的にではなく字義的に述べると、主イエスが聖霊の力の中で行い、死を通って栄光に至られたという根拠に基づいて、そのすべての御業が彼にあって成就された事実として確保されたのです。

 「神は彼を高く上げられました」という単純な御言葉には途方もない力と意義があります。これは未来時制ではありません。「彼は御自身の右に彼を置かれました」。これは未来時制ではありません。「彼は置かれました」――これはなされています。これはすべて終わっており、その御業はキリストのパースンの中で成就されています。そして今、彼は栄光の中におられます。もしあなたがこの事実から一瞬でも目を離すなら、あなたは霊の力の秘訣を失います。御父は彼をご覧になります。彼が栄光にもたらしつつあるすべての子たちの代表である、栄光の中にあるひとりの人をそこに見ておられます。彼は言われます、「子たちのための御業が成就されることは、栄光の中にいる彼にあって確かであり、いかなる反論や敵対する力も手が届きません」。もしこの真理が私たちのまさに存在中に造り込まれていたなら、私たちは力についてさらに知っていたに違いありません。もしあなたがこれに目を留め続けるなら、これらの恐れの霊どもが機会を得ることは少しもありません――あなたは直ちにそれらを滅ぼしてしまいます――麻痺や弱さを滅ぼしてしまいます。麻痺や弱さは、これらの恐れの霊ども、ヘテ人のこれらの子らを通して来ます。そして、「私たちにできるでしょうか?どうやって切り抜ければいいのでしょう?」と私たちに尋ねさせます。ひっきりなしに、言葉には出さないものの、「主は本当に私たちを救い、切り抜けさせて、栄光へと至らせることができるのでしょうか?最終的に私たちは解放されるのでしょうか?これは可能なのでしょうか?私たちが召されているこの偉大な使命は実現されうるのでしょうか?」と私たちは疑問に思ってばかりいます。


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栄光の中におられるキリスト

 主がどのようにそこから常に開始されるのかに、あなたは気づいているでしょうか?そうです、彼は信者に対して十字架のキリストから始めません。信者に対してそうしません。そうではなく、彼は栄光のキリストから始めます。彼があなたを十字架に連れ戻すのは、栄光のキリストは彼が行われた途方もない御業を示唆しているからであり、その途方もない結果を内包しているからです。イエスは栄光の中にあって、栄光を受けており、いと高き大能者の右におられる、という事実が突然彼に臨みました。それは彼の全人生で最も偉大な客観的事実でした。それは、人としてまた神の僕としてのパウロの基礎でした。彼の中におられる神の御子の啓示も一方でありましたが、栄光の中におられる主イエスの啓示が第一でした。これに関して私たちは何かを失ったり見逃したりしているのではないか、この偉大な客観的事実の重要性が私たちの主観的側面によって少しばかり失われたり、あるいは私たちは主観的側面によってあまりにも占有されているのではないかと思います。

 視線については、それは栄光の主に向けられています。つまり、神の目は彼の上にあります。御父の目は彼の上にあります。もしそうでなければ、もし一瞬でも御父が栄光の主イエスから目を離されるなら、私たちにとって不都合だったでしょう。御父は栄光の御子に目を留め続けなければなりません。それが、私たちの霊的生活のどの問題でも私たちの唯一の希望です。もし御父が一瞬でも御子の代わりに私たちをご覧になっていたら、私たちにとって絶望的だったでしょう。主イエスは栄光の内にそこにおられ、御父は彼が栄光の内にそこにおられるのをご覧になる、という事実は、私たちの贖い・救い・聖化・栄化のすべての御業、そして教会の使命のすべての働きは成就されていること、また主イエスのパースンの中でそれは栄光に達したことを示唆します。


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 私たちが高い所にいないかぎり、私たちが高い事柄に取り組んでいても、アモリ人は気にしません。各国民は或る霊の力を表しています。そして、これらのものが侵入して拠点、主の民と並んで拠点を得、主の民とその領域を共有する時、それらは弱さと失敗を生じさせます。そして、その弱さの証拠は、それについて私たちは述べ始めましたが、妥協のせいでこれらのものが拠点を得ていることです――それらを完全に滅ぼすかわりに受け入れたのです――それらを取り除けないような或る場所をそれらが得たのです。それらの前であなたは無力です。欺く霊ども、偽りの光、主の民に間を往来する光の御使いの導き、あるいは主の民の多くを征服した恐れの前で、あなたは無力です。私たちはそれを対処して滅ぼすことができません。なぜなら、恐れの霊が私たちの上に臨んで、恐れはすべて悪魔から来ることを認識することに私たちが失敗したからです。私たちはそれを認めて、自分自身のものではない主からの力によってただちに立ち上がり、私たちを束縛の中に保つ恐れを取り除かなければなりません。神のみこころを行うことから、主と共に進み続けることから私たちを遠ざける恐れを取り除いて、それをただちに滅ぼさなければなりません。もしそうしないなら、それは多くの人々を滅ぼしつつあるように私たちをも滅ぼすでしょう。

 霊の力を持っていないのに霊の事柄について長々と話すのは欺瞞です。真理が私たちの生活の中にないなら霊の事柄について話さないように注意しなければなりません。饒舌に話す人もいるかもしれませんが、彼らの言葉には重みがありません。彼らは空っぽであり、生活の中で神の力を表していません。私たちは天の事柄について話せる人々と出会い、興味を持つかもしれませんが、「彼らの言葉は空しい」という恐ろしい感覚を持ちます。彼らは肉的習慣の奴隷であり、真理に関する自分自身の知識によって欺かれています。力のこの特徴が示されるのは冗舌によってではありませんし、私たちが知っていて自分の口で話せる神聖な真理の量によってでもありません。力とは神が来臨して、神が聖徒たちの中にまた彼らを通して御自身の所有を得ることです。

 これがその状況です。ですから、すでに見たように、士師記の中にある弱さの印は、主として、神の民がこれらの麻痺させて弱らせる敵を追い出せなかった点にあります。彼らは敵とある種の妥協をしてしまったのです。私たちを弱めることになるものと妥協するのは自殺行為です。

 解放と勝利に関するこの包括的な最高の秘訣に戻ると、すでに述べたように、それは信者が見るべきものです。そしてその見るべきものとは栄光の中におられるキリストと、彼がそこにおられることの意義及び内容です。


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 霊の力を回復する秘訣は何でしょう?士師記の時代に主の民が弱かったことを示す大きな証拠は、神の民が御名によって占領することが神のみこころだった領域に、神に敵対する勢力が損害を受けずに依然として残っていた事実であることを、私たちは見ました。前に述べたように、その地のこれらの別の諸国民が表す敵の勢力が依然としてとどまっていたのです。

 彼らの名の一つ一つは、大いに異なる霊的事柄を表しています。カナン人は往来する人々です。それは文字通りには「往来者」と解釈されます。そしてこれを正しく理解するなら、新約聖書がこう述べていることがわかります。すなわち、サタンは光の御使いに姿を変え、変装して聖なるものの中を往来するのです。そして、敵は聖なるものの中を変装して往来しています。私たちはサタンのこの見事な型といかなる往来も持ちたくありません。しかし光の御使いとして彼は良い取り引きをしますし、光の御使いとして偽りの光を与えて神の多くの子供たちへと至らせます。彼らは、「神から出ている」と思っているのに実はまったく神からではないものに束縛されています。それは欺きであり、手短に言うとカナン人はこれを表しています。私はこれに触れるつもりはありません。二コリント一一章では、この世の神について述べられています。キリストの栄光の特別な光とイエス・キリストの御顔にある神の栄光とが輝かないなら、この世の神は盲目にします。彼は偽りの光を与えます。そして、それがカナン人の往来です。

 ヘテ人は恐怖感を表しています。恐れは主の民に対して敵が最も成功を収めている戦術の一つである、というのは真実ではないでしょうか?彼らは祈りのときに自分の口を開くのを恐れます。主が彼らにさせたい多くのことをするのを恐れます。恐れは敵が占拠していることを示すしるしの一つです。敵の成功・勝利は、主の民の間にこの恐れがあることです。恐れほど恐ろしいものは何もありません。ヘテ人は「恐怖感」を表しています。新約聖書の言葉では「恐れの霊」です。

 アモリ人は高ぶって話す者たちでした。おそらく、主の民の力が損なわれたのは、実際には真理を持っていないのに高ぶって話したためです。天の力に欠けていても、天について語ること、天について知ることはとても簡単です。敵が物事を損なうのは、それを生きることなくそれについて私たちに語らせることによってです。それでは不十分です。あなたはそこにいますが、何かによって台無しにされ、すべては失敗だったことが判明します。天の生活の中にないものを私たちが話しても、敵は気にしません。


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 聖書朗読:ヨシュア三・一〇、エペソ一・一八、一九、ピリピ二・九、使徒九・三、二コリント四・四、ヘブル二・九

 御存知のように、愛する人たちよ、私たちは霊の力の回復の問題に専念しています。そしてこの朝少しのあいだ、前の章で強調した点の一つに戻ることにします。それは、それを少し先に進めるためであり、そのさらに豊かな力に対して、神の恵みにより、私たちの心を開くためです。

 私たちが読んだこれらの節はどれも、私たちに一つのことを示します。それは、主イエスは栄光の中におられる、ということです。すなわち、栄光の中におられる主イエスと、彼が栄光の中におられることの意義及び内容です。この一つの偉大な天的現実の、真実な霊的理解を十分に得る時、私たちはすべてに対する鍵を得ます。その時、不可能なことは何もありません。弱さ、失敗、挫折、落胆、恥の必要はまったくありません。この現実を実際に心に抱くことは、完全な解放・支配・勝利の道です。

 私たちはみな霊の力の必要性を感じています。神から与えられた領域を、それを占領すべきでない多くのものが依然として占領している事実を、私たちはみな感じています。主が御民によって占領してしかるべき場所を、依然としてとても多くのものが占領しています。そしてこのように占領・所有されることにより、証しは弱められています。主の御名はあがめられていません。主の民は彼らが告白・主張しているところの者ではなく、あるべき姿にないことをほのめかすものが、彼らを取り囲んでいます。今、私たちはこれを霊的生活においても奉仕においても知っています。ですから、この状況について互いに話し合うことを私たちが望んでいるのは、私たち自身のためだけでなく、この状態が主の民の間に広まっているからでもありますそれは弱さ・失敗・挫折の時代にあって奉仕する方法を知るためです。どうすればこれを変えられるのか、私たちは互いに話し合うことを望んでいます。


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