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聖書朗読:二歴六章:イザヤ五六・六~七:マルコ一一・一七:エペソ六・一八

「私の家は、すべての諸国民のための祈りの家と呼ばれる。」


 歴代誌第二の六章は、預言者なる御方のこの御言葉に関する壮大な実例・絵図です。ソロモンが家を奉献したとき、普遍的性質を帯びた祈りによりその務めが始まり、その機能が導入されました。この章の特徴的言葉は「この家」と「あなたの御名」です。「彼らがこの家に向かって祈る時、その上にあるあなたの御名のゆえに……」。

 あなたは特定の人々に関する使徒の言葉を思い出すでしょう。彼らに関して使徒は、彼らは「あなたたちがその名で呼ばれているあの聖なる御名を冒涜した」と述べています。この家が、歴史的にも霊的にも、この二つの節のつなぐものです。そして、御名によってこの家は呼ばれます。

 御名によって呼ばれる家としてのソロモンの宮に言えたことは、主の御名がその上にある教会、キリストの教会にも言えます。ソロモンの宮の本体は教会であると特定することはまったく難しくありません。あなたは疑いなく十分に御言葉に親しんでおられるので、これに関して聖書を引用する必要はないでしょう。この発言を裏付ける多くの節があなたの心に思い浮かぶでしょう。教会は神の家です。「私たちは神の家です」とヘブル人への手紙の著者は述べています。「霊のいけにえを捧げる霊の家」とペテロは述べています。特定するのはまったく難しくありません。また、御名がこの家の上にあることも極めて明らかです。人々が最初に担った御名のゆえに、教会は大いに力強く前進しました。御名の力が彼らの務めの中に常に現わされました。これはまったくもって単純であって、詳細に論じる必要はまったくありません。次の以下のような他の要因があります。


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 さて、この詳細の大部分を把握・理解していなくても、これまで考えてきたこの三つの事柄には表面上単純な教訓があります。

 (a)訓練。主は訓練された民を必要としておられます。あらゆる方面――振る舞い、霊的健康等々――における訓練に主は大いにこだわっておられます。

 (b)備え。主はよく養われた民を持つことを願っておられ、私たちが自分たちの霊の食物に注意して、それを守ることを願っておられます。ギデオンが私たちに告げているように(士師記六・三~四、一一)、敵は神の民の食料問題を実際に狙っています。

 (c)柔軟性。主が願っておられるのは、信仰に必須な事柄、霊の事柄、究極的御旨に関する事柄について、私たちが大いに堅固で不動である一方で、それでもご自身に対して開いていること、素直であること、適切に柔軟であることです。適切に、そうです、融通がきくことです。これらすべてには大いに矛盾する点もあります。そうではないでしょうか?融通がきくことは、場合によっては悪いこともあります。しかし、主ご自身と主がなそうとしておられることに順応するよう主が要求される場合、これは確かに正しいことであり、私たちの反応が、確実に、戦いの結果全体に影響を及ぼします。

 御言葉の中で絵図や出来事によって私たちに示されているこれらの点は、とても重要な諸々の原則を表しています。しかし、結局は次の点に帰着します――すべてはこの問題を強めます。すなわち、私たちは戦いの中にある、ということです――この戦いはたんなる曖昧で、抽象的な、「空想上の」類のものではなく、大いに現実的なものであり、多くの実際問題がこの問題と関係しています。振る舞い、備え、適応性というこれらの実際問題は、すべてこの戦争の問題と関係しています。

 ですから、主は私たちに

私たちの戦い!

の規範を教えて下さいます。


「私たちの戦い」 完


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神の真理は不変だが方法は可変である

 二組の事柄があることを理解しなければなりません。一方において根本的真理があります。これに関しては決して柔軟であってはなりませんし、それから決して離れてはなりません。根本的真理を放棄することや、自分たちの基礎を変えることはありえません。これらはそのままでなければなりません。これに関して私たちは柔軟ではありません――柔軟であってはなりません。神のあらゆる支配的御旨の問題に関しても、私たちは不動でなければなりません。これに関して、私たちは堅固であり、何ものも私たちを動かせません。また、不動の霊という基礎も必要です。

 しかし、他方において、神はご自身の方法を変える場合があることを私たちは認識しなければなりません。神はご自身の真理、基礎、目的を変えることはありませんが、方法は変えることがあります。神ご自身の主権的権利の中には、望むままにことを行う権利、それまで聞いたことのない新しいことを行う権利が含まれます。しかし、今日のキリスト教の大部分はこれを許そうとしません!過去になされたことのないことを全能の神が行うことすら許しません!境界線が決まっていて、真理の範囲が完全に制限されています。方法は何々、公認の方法・手段はこれこれ、と決まっています。それらから離れるのは――安全ではなく、危険です。新しいことをなす余地は聖霊に許されていません。しかし、ここでバランスが必要です。一方において、真理の基礎は不変であり、神の御旨は不変であり、不動の霊は不変ですが、他方において、それでも、これら一切にも関わらず、バランスを取らなければなりません。他方において、神の可変的方法、「路線から外れる」神の主権的権利に関して、バランスを取らなければなりません。というのはこれらの境界線はまったく神の境界線ではないかもしれないからです――人の境界線かもしれないからです。神は「私は新しいことをなそう」と仰せられます。新しいことをなす彼の絶対的権利を認めなければなりません。

 ですから、柔軟性が大いに必要です。これはとても重要なことです。伝統への固執、特定の教理的立場への執着は、大きな誤解と混乱、停滞と崩壊という結果を招いています。聖霊をこのように制限することによって、多くのものが失われています。


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(2)ピリポとエチオピヤの宦官

 ピリポと宦官の事例を挙げましょう。原則は全く同じです。ピリポはサマリヤに下っていました。そして、主の祝福の下で素晴らしいことが起きていました。ピリポは容易にこう言えたでしょう、「主は私を祝福しておられます。主は偉大なことをしておられます。ですから、私はここを離れるべきではありません――ここで主は働いておられ、このことを主はしておられます」云々。まあ、もちろん、これは主があなたに語られるか否かにかかっています。しかし、これはあなたが主に開くかどうかにもかかっています。自分の立場に固執したり固持したりせず、主によって行動しようとする心構えにかかっています――たとえ、大勢の人が主のもとにやって来るリバイバルの中心地からほとんど何もない砂漠に移されるというような、奇妙な動きに思われたとしてもです。

 それにもかかわらず、ピリポが柔軟だったおかげで、教会はかなり前進しました。この件は砂漠で終わらなかったからです。その地点からピリポの長い務めの物語が始まりました。いま私たちが取り扱っているのは、新約聖書に示されている経緯や歴史ではありませんが、この件について調べるなら、エチオピヤ人とのこの接触の後、ピリポの務めによってとても生き生きとしたものが生じたことがわかります。そしてこれはすべて柔軟性、適応性というこの問題にかかっていました。その生活の中で主がご自身の道を自由に進めるかどうかに、もしくは、ピリポが「だめです、ここに私はいますし、状況はこの通りです。これは主がしておられることであり、ここで主はそれをなさっておられます。ここに私はとどまります!」と言うかどうかにかかっていました。もしかすると、今日の主の多くの僕たちの生活に関して、類似の問題が未決着のままかもしれません。

(3)パウロとマケドニア人

 もう一つ例を挙げましょう――これはとても偉大な例ではないでしょうか?――パウロとマケドニア人の例です。パウロはアジアとビテニヤに行くつもりでした。しかし、彼がある地点に来た時、急に――「聖霊によって禁じられ」ました。「イエスの霊が許しませんでした」(使徒一六・六~七)。しかしパウロは順応しました。これが要点です。彼は柔軟だったのです。それで――マケドニアとヨーロッパに福音が伝わったのです!そしてもっと多くの地にも!

 この三つの事例は、主に対して開いていなければならないという原則を示しています。主の御手の中にとどまって自分自身の手の中にとどまってはならないという原則を示しています。主の御業の内容、場所、方法に関していかなる固定観念も持ってはならない――これは主次第です――という原則を示しています。これは主が私たちに教えなければならない最も重要な原則の一つです。


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(C)柔軟性

 この本から再び引用することにします。「将軍職に対する最も困難な試金石は、意志の強さと柔軟性の間のバランスを取ることである。これに敵は失敗した。敵は意志の強さによって大成功を収めたが、柔軟性の欠如のせいで大損害を被ったのである」。
この「柔軟性」という言葉は問題を起こしかねないので、それに代わる言葉を提案することにしましょう。例えば、適応性、順応性、教えやすさ又は「素直さ」、才能の豊かさ、独創性です。これらの言葉はみな「柔軟性」という言葉を横から照らす光です。東南アジア軍事作戦の場合、私が紹介した引用はまさに次のことを意味しました。すなわち、敵は一定の型にはまりきっていたのです。特定の道を行くことに固執して、それによって堅く縛られていたので、何らかの原因でそれが覆されたとき、全く意気阻喪してしまったのです。敵には代替案がありませんでした。不意の出来事に対応する能力、計画外のことに対応する能力がありませんでした。自分の決めた道から状況が外れると、全く混乱の中に陥りました。「柔軟性の欠如のせいで大損害を被ったのである」というこの引用の通りです。ここには学ぶべき教訓が確かにあります。

 おそらく、意志の強さという資質はどんなに重視しても重視しすぎることはないでしょう。新約聖書は、堅く耐え忍ぶこと、前進する決意、退かないこと、といった事柄で満ちています。私たちはそのような人々でなければなりません――これはその通りです。しかし、ここで述べられていることがわかります、「将軍職に対する最も困難な試金石は、意志の強さと柔軟性の間のバランスを取ることである」。これに取り組むとき、それは本当に困難な学課であることがわかります。新たな状況に順応しつつ、それでも堅固であり続けるすべを学ぶのは難しいことです。幸いなことに、新約聖書の中にこれに関する実例がいくつかあります。それらの実例を見ずに、教会史の中にあまり深く立ち入ることはしないことにします。

(1)ペテロとコルネリオ

 さてペテロは、旧約聖書とそれに関する自分の解釈にしたがって、自分の決まった道、自分の決まった立場を取っていました。彼の決まった立場、彼の堅く定まった立場の観点から、彼は「それはだめです、主よ!」と主と議論しようとしました。彼が「その幻について考えて」(使徒一〇・一九)主と共にこの問題に決着をつけるまで、彼には柔軟性も順応性もありませんでしたし、教えられやすくもありませんでした。しかし、堅固さや意志の強さを失うことなく、主が与えられた新しい光、主を知る新たな知識、主の新たな道に彼が順応した時、それはペテロだけでなく教会全体にとって何と途方もない一歩だったことでしょう。しかし、それでも多くの人々にはそれができません。どうしてもできません。


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