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 ここに、罪を担う方であるキリストとの一体化以上のことが示されています。罪を担うキリストは、全焼の供え物と罪のための供え物によって、先に示されました。私たちはおそらくとても喜んで、そのような方である彼の頭の上に手を置いたことでしょう。それは一つの事であり、これは別の事です。彼が木の上で私たちの諸々の罪をその身に負って下さったことを、私たちは喜びます。今、それに続いて、私たちは別の面に来ます。キリストとの一体化の生ける面に来ます。ここで、私たちは神の豊かで完全な御旨を目にします。キリスト、奉献の雄羊である方、私たちの上に振りかけられる彼の血、彼の上に置かれた私たちの手を、私たちは目にします。

 この聖別された祭司団がどれほど、あらゆることで、キリストを物語るものと一つだったのか、祭壇と一つだったのかに注意してください。祭壇の上に振りかけられたのと同じ血が、彼らの上にも振りかけられました(三〇節)。彼らは祭壇と一つであり、十字架と一つでした。モーセは幕屋と民の上に振りかけました。彼らは幕屋と一つであり、神の家と一つでした。彼らは油を塗る霊と一つであり、それによってすべてが一つにされます。この油塗りの油と血が、彼らを含むすべてのものの上に振りかけられました。そして、その油と血がすべて――祭壇、宮、衣、人々――を一つにします。これはすべて、一つの血、一つの御霊のおかげです。これはすべて奉献と呼ばれています。これは、つまり、すべてを主のものにすることです。

 私たちはこれを認めなければなりません。もし私たちが、いかなる意味にせよ、自分自身をキリストに捧げたのなら、私たちはキリストに結合されているのです。これには次のような意味があります。すなわち、御父の全き御旨が私たちの生活のあらゆる部分を支配しなければならないのです。これは、私たちは罪から救われるべきであるだけでなく、主に献身するべきでもあるということです。

「御霊による生活」 完


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 これはみなよく知られており、理解されています。しかし、私たちが生きているこのような時、それは私たちに対して特別に適用されなければなりません。主はこの一連の黙想で多くのことを私たちに語って下さいました。私たちの関心は、この奉献の雄羊の意義の中にあります。私たちは表明・啓示された神の御旨に耳を傾けなければなりません。手を捧げて、神のその御旨を自分の一生の仕事としなければなりません。そして、自分の歩みと、自分の進路を捧げて、今から後、この御旨の道が知らされたら、直ちにその道の中に入らなければなりません。このような一団を主は持つことを願っておられます。全人格、全生涯が神の御旨の中にある一団を、主は持つことを願っておられます。

 その標準はキリストです。彼が基準です。ここに、主に完全に捧げられた雄羊がいます。この雄羊はキリストと、御父に対する彼の徹底的な献身とを物語っています。これを支配している言葉は、「キリストのように」です。命と交わりにおけるキリストとの合一は、御父に対するキリストの献身が私たちの献身の標準・基準でなければならないことを意味します。これは確かに最後までそうです。私たちは心の中で自分の手を伸ばして、言わば彼の頭の上に手を置き、神の御旨に対する彼の献身と一つになって一体化されなければなりません。「彼が私たち全員のために死なれたのは」と使徒は言います。「生きている者たちが、今後、自分自身に生きるのではなく、自分のために死んで復活して下さった方に生きるためです」。私たちはキリストとの一体化について多く語りますが、次のことを理解する必要があります。すなわち、微塵も躊躇することなく、キリストは最大の代価を払って最後まで神の御旨に明け渡されていたことを、私たちが理解する時、私たちは献身の真の基準を見ることになるということです。「彼がそうであるように、私たちもこの世でそうであるからです」。


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聖書朗読:レビ八・六、一〇~一五、二二~二四、三〇

 祭司団の聖別には二頭の雄羊が関係していました。全焼の雄羊(一八節)と奉献の雄羊(二二節)です。奉献の雄羊に関して、今回短く述べなければなりません。

 奉献の雄羊――アロンとその子らはその頭の上に手を置くことによってそれと一体化されました――は、御父に対するキリストの生活のあの特別な面を表しています。すなわち、神の御旨に対する献身を表しています――キリストは奉献の雄羊です。「見よ、私はあなたの御旨を行うために参りました、ああ、神よ」。「私は彼を喜ばせることを常に行っています」。「私の食物は、私を遣わされた方の御旨を行い、その業を成し遂げることです」。これらの御言葉は、御子と御父との間の内なる関係を私たちに示しています。また、彼の人生の原動力を示しています。この原動力が彼を完全に支配していました。御父の御旨を行うことに彼は熱心でした。彼は御父の御旨にまったく熱心だったので、「彼らのために私は自分自身を献げます」と言うことができました。

 祭司団を形成していたこの人々は、自分たちの手を奉献の雄羊の上に置きました。その後、その雄羊は屠られました。そして、その結果生じたその雄羊の血をモーセは取って、右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗りました。その意味は大いに明らかですが、この祭司団がまったく主に委ねられたこと、主によってのみ治められることを意味しました。第一に、彼らは主が仰せられたことによってのみ支配されるべきでした。第二に、彼らのなすべきことはみな、主の指示によって支配されなければなりません――手は奉仕の象徴です。働きは主の御旨の支配下に完全になければなりません。第三に、足、足の親指は、動き、行き来はすべて神の御旨の中になければならないことを物語っています。奉献の雄羊の血がすべてを支配しました。


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 聖書全巻に照らして見ると、霊的秩序はほとんど軍隊的観念であるように思われます。これは、勝利の問題は秩序と大いに関係しているからです。例えば、民数記を見ると、軍を秩序づけることが征服と関係していることがわかります。彼らは秩序だった一団として、ラッパの音により進まなければなりませんでした。新約聖書に来ると、私たちは戦いの中にあることがわかります。エペソ人への手紙を見て下さい。キリストとの一体化を通して、あなたは秩序だったからだの中に、諸々の正しい関係の中に入ります。これは秩序だった一つのまとまりであり、御霊に満たされています。次に、主権者たちや権力者たちとの私たちの戦いが来ます。どうして、これが最後に来るのでしょう?明らかに、もしからだの中に無秩序があるなら、勝利の歩みも、悪の軍勢に対する勝利もありえないからです。主は秩序の中にある彼のからだ、正しい関係の中で機能している彼の民を持たなければなりません。

 すでに述べましたが、この秩序の詳細や方法といった問題全体を取り上げるのは、私たちの分ではありません。しかし、もし私たちが御霊の中で生活するなら、それが生じるでしょう。この秩序の諸々の法則が何かを、私たちは理解しなければなりません。それらの諸法則はすでに示されており、私たちはそれに従順でなければなりません。これは偉大な現実です。この現実は事実であるとパウロは述べています。しかし、彼はまたこうも述べています。すなわち、増し加わり、建造、成長、勝利を実現するには、あなたは天然の基礎に基づいて生活してはならないのです。天然の基礎の上では分裂が生じます。その立場を放棄して、キリストの立場に来なさい。そうすれば、あなたは一体性の立場に達します。それは成長、増し加わりを意味します。あなたはもはや肉的、赤子ではなくなり、成熟に達します。この秩序はとても重要なものであることを認めて下さい。もしどこかの地元の会衆が聖霊によって支配されるなら、その集会においてこれが表されるでしょう。そのようなものを得る望みを失ってはなりません。地上の目に見える主の民の不完全で未熟な状態から目を離して、天から見て下さい。主は天から、進行中のすべての事をご覧になっています。主はその肢体たち一人一人の霊的価値を御覧になっています。主は各肢体を御自身との関係の中にもたらすことを願っておられます。それは、主が彼らを諸々の状況との接触の中に導き入れられるようになるためであり、人々――この人々は彼らが主から得ているものを必要としています――との接触の中に彼らを導き入れられるようになるためです。

 この問題に関して多くの理解力と光を与えて下さい、と私たちは主に求める必要があります。


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からだを認めること

 使徒が私たちに教える次の点は、キリストのからだは相互に認めあわなければならないということです。それについてはかなり述べたばかりです。ここでは、それをはっきりと指摘することにします。ここでもまた、冒頭の御言葉がこの点で適切です。「……あなたたち一人一人に言います。思うべき限度を超えて思い上がってはなりません」。もし思い上がるなら、他の肢体たちを無にするか、彼らの占めるべき地位よりも彼らを低くしてしまいます。一つの肢体が状況を支配する時、キリストのからだに大きな害を及ぼします。主が持つことを願っておられるのは、肢体相互の服従・承認です。ですから、「主を畏れて互いに服従しあいなさい」とペテロは述べています。

キリストを供給すること

 さらに、互いにキリストを供給しあわなければなりません。私たちはキリストの何か、キリストを供給するためのキリストの能力を持っています。つまり、私たちによって供給されるべきキリストの度量を持っています。私たちの任務は、互いにキリストを供給しあうことです。このようにしてからだは成長します。

 私は、ある句を初めて聞いた時のことを忘れません。その句をあなたたちの多くはしばしば聞いてきました。それは一九二五年のアメリカでのことでした。私は、神のある働きをアメリカに建て上げるために大いに用いられた、主のある僕について話していました。私は主のこの僕に関心があり、彼女について知りうることをすべて知りたいと思っていました。私は、彼女の生涯のあいだ彼女ととても親しい関係にあった一人の人に会いました。私は彼から、彼が知っていることをすべて聞こうとしました。彼は彼女の晩年について私に話してくれました。そして、とてもさりげなく、話の流れの中で、彼は「私はよく彼女のところに行って、主の御名の中で彼女に命を供給したものでした」というこの句を用いました。彼はこの句を、まるでそう述べるのが世の中で至極自然であるかのように述べました。主の御名の中で彼女に命を?当時、それは私にとって新しい観念でした。次に、私の思いは神の御言葉に直ちに立ち返りました。この句を支持する御言葉は何かあるのでしょうか?この句を支持するとても多くの御言葉があることを私は見い出しました。使徒ヨハネが次のように語るのを、あなたは聞いたことがあるでしょう。「誰でも死に至ることのない罪を犯している兄弟を見たなら、神に願い求めなさい。そうすれば神は、死に至ることのない罪を犯している人々に、命を与えて下さいます」(一ヨハ五・一六)。これは私たちの務めの一部です。キリストは私たちの命ではないでしょうか?そして私たちは、キリストにあって機能している者として、互いに命を供給しあえるのではないでしょうか?確かにできます。これに私たちは召されています。こうしてからだは成長します。ああ、どうか主が、私たちが死ではなく、さらに多くの命を供給しあえるようにして下さいますように。


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