聖書朗読:創世記二八・一〇~一二、一九、ヨハネ一・四七、創世記三一・一三、三五・一、六、七、一コリント一・二〇

 私たちのために創世記の中で七人の人物によって示されている命の七重の働きについて、これまで考えて来ました。私たちの前の黙想では、七番目すなわちヤコブに到達しました。神の命の道としてヤコブが示していることに、私たちは再びこの黙想で専念することにします。

 神の家、教会、ベテルが、私たちの特別な目的です。再びヤコブを私たちの絵図として取り上げるなら、教会に関する限り、すべてはその地的面からではなく天的面から始まらなければならないことがわかるようになります。これがヤコブの生涯の支配的事実です。これが彼の人生をどのように解き明かすのかを見ることにします。

天の法則と支配

 ヤコブが彼の道を進んでその巡礼の旅を始めた時、それは地上における彼の巡礼の旅であるだけでなく、霊的過程の旅でもありました。この霊的過程は、彼の地上生涯や歩みのあらゆる出来事、事件、事象の背後にあるものでした。意義深く印象的なことに、この巡礼の旅で彼が最初に止まった地点が、一晩だけではありましたが、ベテルでした。そして、ベテルが天からのものとして聖書の中に初めて登場します。これが聖書における教会への最初の言及であり、ヤコブと共に登場します。それは天から出たものとして登場します。つまり、その天的な面から出たものとして登場します。そして、これがヤコブの残りの経歴や霊的巡礼を支配し、解き明かす法則となります。この時点で始まるのは、天的なものの統治です。そして、この統治が神によって導入される時、地的意志にすぎないものは、その瞬間から、罪定めと神の懲らしめの下に落ち込んで滅びに至ることになります。それは、すべてが少しずつ、その起源、その源、その発端にしたがって天的なものになれるようになるためです。私たちはこのすべてを包括する問いを発しなければなりません。「すべてはどこから始まり、すべてはどこに至るのでしょう?」。答えは一つです。すべては天において始まり、すべては天に至り、天において究極的に完成されます。これは、「すべてはキリストからです。天から出たものはみな、キリストからであり、キリストの中にあります」ということの別の言い方に他なりません。「万物は御子によって、御子のために創造されました。御子は万物よりも先にあり、万物は御子にあってまとまっています」(コロ一・一八~一九)。これに対応する真理は示しませんが、御子は万物よりも先にあるだけでなく後にもあることを示す御言葉がたくさんあります。


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実際的結果のまとめ

 これが命の道であり、これが命の法則の働きです。これが、徹底的に述べられているわけではありませんが、単純に述べられています。神の豊かさは教会において表されるようになります。ですから、神の満足は教会に焦点づけられています。神への真の奉仕はみな、神にとって最も貴重なもの、すなわち教会を確保することと関係しています。そして、神への奉仕はみな、従順をもって始まります。従順は神の家の中に見られるものです。神が服従の法則を確立されるのは、神の家においてです。神の家のすべての構成員と同じく、私も服従しなければなりません。他の誰にもまして互いに服従しあうことではありません。そうではなく、神の家の中では、服従が自分の立場であることを悟らなければならない、ということです。神の家の他の構成員と同じく、私は神の家の奉仕者として独立して振る舞うことはできません。服従を学ぶ時、私たちは命を見いだします。神の家の中で実際に服従していない限り、私たちは命の道の中にはなく、死の道の中にあります。これが奉仕の第一の法則です。

 ここに、各地で表現された教会の重要性があります。各地の会衆が神に奉仕する目的の一つは、その構成員がその中で主に服従することを学べる領域となることです。教会の中で主に服従することが、とても実際的な問題、大きな試練の問題になるのを、あなたは頻繁に経験します。

 私はいくつかのことを指摘したにすぎません。これが命の道です。祝福はそこにあります。確かに、これは神の家であり、天の門です。「ヤコブは、神が自分に語られたその場所の名をベテルと呼んだ」。そこで神が御自身を彼に啓示されたからです。これが命であり、神がそこでご自身を啓示される天の門です。主は私たちの理解力を開いて下さいます。


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しかし次に、ラケルはレアにできたことができませんでした。前に述べたように、レアの場合、家族がごく自然に生じて、これはたやすいことでした。しかし、ラケルの場合は大違いでした。結局、何と失望したことか!天然的な言い方をすると、実を得るのは不可能でした。しかし、ああ、神の主権は何と素晴らしいことか!神の主権が天然の事柄によって聖書の中に何と頻繁に示されていることか。この特定の事柄ではなおさらです。サラ、ハンナ、他の人々の事例から、これがわかります。ここではラケルからこれがわかります。最終的にラケルは子供たちを持ちますが、この子供たちは神の介入の結果です。彼らは特別な意味で神からのものであり、神の働きによります。神が御自分の原則を何と厳密に保たれるのかがわかります。真の奉仕、真の子たる身分は、天然から豊かに実を結ぶことは決してできないのです。天然の命は霊的な実、神に至る実を何も結ぶことができません。真に霊的な実であり、霊的な奉仕であるのは、神から発するものだけです。パウロがガラテヤ人への彼の手紙で述べたことを、あなたは覚えておられるでしょう。「私の小さな子供たちよ、あなたたちの内にキリストが形造られるまで、私は再び産みの苦しみをしています」(ガラ四・一九)。このガラテヤ人たちは主の子供であり、パウロはこう言えたかもしれません、「よろしい、あなたたちは主の子供です。あなたたちは救われています。それで結構です。残念なことに、あなたたちの歩みを傷つけるこうした悲しいものがあります。そんなものがなければよかったのに。しかしそれでも、あなたたちは主のものであり、それで結構です」。ああ、これではだめです!それではあまりにもレア的であり、あまりにも安易です。それ以上のものが必要であり、御霊から発したそれ以上のものが必要です(お分かりのように、これがガラテヤ人への手紙の基調です)。パウロは言います、「……あなたたちの内にキリストが完全に形造られるまで、私は再び産みの苦しみをしています」。これが御民に対する神の御旨です。ですから、この偉大なイスラエル人であるパウロ――最も完全かつ高尚な意味そう言えます――がこう述べているのを、私たちはまたもや見いだします、「私は、あなたたちのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだである教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、私の肉体で補っています」(コロ一・二四)。キリストの教会のためにキリストの苦しみにあずかること――これが奉仕であり、これが子たる身分です。


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 主イエスはエホバの真の子であり、僕です。彼の内に子たる身分の真の霊があり、彼の内に奉仕の真の霊があります。この主イエスは、たとえその中に良い点がたくさんあったとしても、外面的・形式的・天然的なものにすぎない教会に決して満足できません。彼がアジアの七つの教会を御覧になった時、ヤコブがレアについて言えたのと同じように、「たしかに、とても良い点もありますし、とても素晴らしい点もあります」と言うことができました。しかし、ヤコブのように、彼はさらに言われました、「私はこれに満足できません。これは私の心に応えるものではなく、私の霊にかなうものでもありません。私が労苦してきたのはこのためではありません。私を心の底から真に満足させるには、それ以上のものが必要です。何が適切であり、何が正しく、何が神の御思いにかなっているのかに関する内側の最も深い感覚を真に満足させるには、それ以上のものが必要です」。こういうわけで、善は最善のために下位に置かれなければなりません。奉仕の霊は、教会、妻、花嫁に関する神の全き御旨に、常に傾注します。そして、それ以外のものでは決して満足できません。子たる身分はこのような方法で働きます。これ以外の方法でそれがどのように生じるのか、私にはわかりません。私は確信していますが、もし私たちの誰かがこの問題に関して小さな特別集会を開いて、「さあ、教会に関する神の全き御旨に専念することにしてはどうでしょう?」と言うなら、これについて既に述べたように、私たちはこう言わなければならないでしょう、「これは教会の性質に関する一連のメッセージを聞いたからではありませんし、それについて聖書の中に何かを見いだしたからでもありません。そうではなく、どういうわけか、自分の心の中のどこかに、この問題を気遣う神聖な感覚が生じたのです」。これは御霊に属する事柄であり、私たちは多くの逆境のただ中で懸命に労苦しなければなりません。うんざりするほどの逆境、反対、疑いが、神から生まれたもの以外のものをすべて消し去ったとしてもです。もしこれが私たちの内におられる神からのものでなかったなら、そして、自分がこの問題を握っているのではなく、これが私たちを握っているのであることを、もし私たちが理解していなかったなら、この道の困難さのゆえに、私たちはとうの昔にこの問題を放棄していたでしょう。私たちが何かを取り上げたのではなく、神がこの問題の中に私たちを置かれたのです。私たちに何ができるでしょう?代価、苦難を目の前にして、私たちは主の民の間の現状に満足できるでしょうか?断じてできません!私たちは労苦し続けなければなりません。

 愛する人よ、これが子たる身分の霊、奉仕の霊であると私は信じます。神の働きが私たちの内で深まるほど、私たちが教会のために苦しむほど、ますます私たちは主の民の間の現状に満足していられなくなることがわかります。ですから、ラケルは苦難、御霊の苦難の結果でした。


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レアとラケルの教訓

 さて、これは私たちをレアとラケルに導きます。ヤコブはラケルのために七年間仕えましたが、ラバンは彼を欺いて彼にレアを与えました。レアはヤコブが慕っている者ではなかったので、彼はレアに満足できませんでした。満足しようと思えば満足することもできました。レアには麗しいところもありました。レアは優しい目をしていました。明らかに、これは男性の気を引くために仕組まれたことでした!彼女には魅力がありました。しかも、他の長所もありました。レアは何の苦もなくヤコブに家庭を与えました。ラケルはそうすることができませんでした。ヤコブはこう言ったかもしれません、「まあ、レアも悪くない。レアは自分が欲した者ではないけれど、レアにも良いところがある。落ち着いて満足することにしよう」。しかし、だめです。レアは彼の霊、心、内なる人が求める者ではなく、それ以外の何ものにも満足できませんでした。そこで彼は言いました、「私はラケルのためにもう七年間仕えます」。彼は自分の霊にかなう妻を得るために、二倍の労苦、二倍の行程を忍びました。

 さて、子たる身分の霊、真の子たる身分は、御霊に属するものではない何物にも決して満足できません――心からのものではない何物にも決して満足できません。もちろん、ヤコブは型です。しかし、新約聖書の言葉で述べると、御霊にかなうものではない何物にも決して満足できない、ということです。レアはヤコブにとって魂、天然にかなう妻だったかもしれません。しかし、ラケルはそれ以上の者であり、これは後に証明された通りです。ああ、ラケルとレアには素晴らしい教訓があると思います。子たる身分の真の奉仕は、全く御霊に属するもの以外のもので立ち止まることがないのです。


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