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 セバスチャン・フランクは、この待ち望みつつ追い求める姿勢のことを、当時よく知られていたものとして絵画的に記述している。彼はその「歴代誌」(一五三一)の中でこう記している。「神がさらなる命令を与えて、収穫場に真の働き人たちを送って下さるまで、バプテスマや他の礼典の停止(明らかにシュヴェンクフェルトの停止のことである)を許可することをいとわない者たちもいる」。オランダとイギリス両国における、この探求者たちが示した熱烈な待望は、もちろん、ずっと後になって発達したものであり、多くの影響によるものだった。そして、シュヴェンクフェルトの改革の働きや彼の福音メッセージとのつながりは間接的なものにすぎない。この探求者たちの大袈裟な強調は、現存する実在としての霊的キリスト教のより深い意義を彼らが捉えそこなっていることを示している。また、この真理を見逃していることを示している。この世はこの真理を痛ましいほど遅々と理解してきた。その真理とは、使徒的かつ効果的な可視的教会を形成する唯一の道は、突発的奇跡や地殻変動的「復興」「職務」によるのではなく、この内なる王国、この目に見えない教会が外側の可視的教会の霊と命となる、そのゆっくりした伝播と征服力によってである、という真理である。この真理をシレジアの改革者はよく知っていたのであり、それゆえいかなる代価を払っても神のこの目に見えない共同体の静かな使徒となって、その外側の有機体やその務めの器官は神御自身の方法に委ねる覚悟をしていたのである。オランダの諸団体だけでなくイギリスの探求者たちの間にもいた比較的気高い人々は、霊的宗教に関するこのさらに壮大な見解に徐々に至った。そして、シュヴェンクフェルトと同じように、救いの実際の過程は内的かつ動的であることを理解するようになった。サムエル・ラザフォードは、公平な判断という点で、すなわち彼自身の霊的経験の型にはまらないものに関しては、あまり当てにならない。しかし、当時の霊的・内的宗教の指導者たち、特に探求者の数々の願望を共有していた者たちをシュヴェンクフェルトと関係づけている点では、彼は正しい道筋を辿っている。ラザフォードの記述は全く不公平であり、誤りだらけだが、少なくとも次の事実を示すには十分である。すなわち、イングランド共和国の期間、シュヴェンクフェルトは生ける力だったのである。また、彼が郷里のウルムを「去って」から約百年たっていたけれども、神の共同体と家族をますます拡大するために、彼は依然として弟子たちを作っていたのである。


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 可視的教会はその当初の力と権威を失っている、というのがシュヴェンクフェルトの確固たる見解だった。そして彼はまた、神が良しとされる時にそれは再びその元の活気とその当初の征服力とに回復される、という不屈の信仰と希望を抱いていた。「私たちは問います」と彼は記している。「使徒的類型に属する、キリストのみこころにかなう外面的教会は、今日、世界のどこに共に集まっているのでしょう」。そして、世界中の至るところに散らされてはいるものの――トルコやカルカッタにも――神は御自身の忠信な民を持っておられる、と彼は言う。彼らはただ神だけが御存知であり、キリストのような聖なる生活を送っている。また、肉体となられた生ける御言葉であるキリストは、彼らを内面的に聖霊でバプテスマし、外面的な説教や礼典を用いずに彼らを内面的に養い、御自身の律法を彼らの心の中に書き記して永遠の命の中に導き入れて下さる。しかし、使徒的な完全に改革されたキリストの教会、すなわち彼の生けるからだにして御霊の器官が、神聖な賜物と力と職務とを帯びて、世の中に再び現れる時が来ようとしている。「それまでは、選ばれた神の子供たちよ」と彼は記している。「次のことに喜びと慰めを覚えよ。すなわち、あなたたちの救いは外面的教会や、礼典の使用や、外面的ないかなるものにも基づいておらず、ただ私たちの主イエス・キリストにのみ基づいており、真の生ける信仰を通して受けるものなのです」。

 シュヴェンクフェルト自身にとって重要な問題は、この内なる命が増し加わること、人々の心の中で神のこの王国が静かに成長すること、この目に見えない教会が広がることだった。しかし、神は最終的に御自身の可視的教会の昔の栄光を回復されることを、彼の書き物は明確に示唆している。「あなたたちは」と彼は手紙の一つの中で述べている。「神が真の使徒たち、説教者たち、伝道者たちを起こして下さるよう、熱心に祈るべきです。それは彼の教会がキリストにあって改革され、聖霊にあって教わり、統合されて一つになるためです。また、福音の純粋な宣べ伝えと、礼典に関する正しい理解とその使用に関する私たちの誇りが、神の御前で真実なものとなるためです」。そして、次のような時が来つつあるとわれわれは信じることができる。その時、礼典はキリストのみこころにしたがって用いられようになり、真のクリスチャンの教会が出現するのである。その教会は外面的には使徒的奉仕者たちから教わり、内面的には主御自身から教わるであろう。しかしながら幸運なことに、救いはいかなる外面的なものにも基づかない。そして、停止もしくは暫定の期間中、外面的礼典を休止しても何も恐れるべき危険はない。


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 しかし、シュヴェンクフェルトの生涯と働きが及ぼした最も重要な影響を、彼の使徒的活動に由来するこれらの可視的団体の歴史の中に求めてはならない。彼の第一の関心事は常に、全世界中に神の目に見えない共同体を建設することだった――分派を促進することではなかった――そして、彼の為した最大の貢献は、静かで時として気づかれることのない次のことによって分かるだろう。すなわち、彼の精神の伝播によって、彼の思想の伝染的普及によって、彼の名をほとんど知らなかったクリスチャンの団体や個々の信者たちに及ぼした彼の真理と洞察力の漸進的影響によってである。彼の手紙は非常に膨大だった。彼の無数の本や小冊子は、熱心な読者や伝播者を得た。そしてゆっくりと――ゆっくりすぎて人目につかなかった――この住み家なき改革者の霊的メッセージは、神の新しいイスラエルの慰めをあらゆる土地で祈り求めていた忠信な人々の内的生活の中に入り込んでいった。早くも一五五一年に、イギリスの作家であるウィリアム・ターナーは、「特にアナバプテストという獰猛な分派によって再発したペラギウスの毒に対する防腐剤及び糖蜜」として書かれたある本の中で、「シュヴェンクフェルトの支持者たち」のことを「七つの頭を持つ水蛇のように多くの頭を持つこの怪物」の頭の一つとして述べている。しかし、シュヴェンクフェルトの見解――「毒」と言われようと「糖蜜」と言われようと――が十六世紀のあいだイギリスに広まっていたことを示す証拠は僅かしかない。とはいえ、それらは十七世紀になると明白である。十七世紀における彼の影響の最も明確なしるしの一つは、イギリスとオランダの両方における諸々の原則の拡大となって表れている。それらの諸原則はオランダの「コレジアンツ」のうちに、またそれに対応するイギリスの「探求者たち」の諸団体のうちに具現化された。両国のこれらの群れの基本原則は次のような信条だった。すなわち、可視的教会は背教してその神聖な権威の力を失い、今や使徒的務めと効果的礼典と真の使徒継承の証拠である「御霊の賜物」とに欠けている、という信条である。それゆえ、この見解を奉じる者たちは、「連れ合いのいない鳩のように」、新しい使徒職の出現と、人々の上に神の霊が新たに注がれることと、当初のように実際的な証拠と力との中で教会が再建されることとを待ち望み、求めていたのである。


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 彼が理想とした目標は、霊的なクリスチャンの小集団の形成を促すことだった。彼らは静穏のうちにその地に住み、内なる力と上から受ける霊感によって広がらなければならない。布告、支配者たちの宣言、議会の決定によって真の宗教改革を遂行するのは不可能なことを、彼ははっきりと見た。永続的働きは、彼の観点では、人々の宗教生活と霊的経験がゆっくりと忍耐深く発達することによってのみ成し遂げられる。なぜなら、彼が追い求めた目標は国が造った諸教会の形成ではなく、個人の生活の刷新、呼び覚まされた良心、燃えるような道徳的情熱、神的現実世界との直接的関係に関する経験的確信だったからである。個々の魂をこれらのいっそう深い人生問題に目覚めさせる働き、散在する小さな団体――それは言わばこの世界の中で神の王国というオアシスたるべきものである――をキリストの頭首権の下で建て上げる働きに、彼は流浪の年月を捧げた。このように静かな内的運動はすべて、キリストが予見されたように、あまりにも遅々としていて漸進的だったため「人目につか」なかった。しかし、再生とキリストに導かれた諸団体の形成とによって教会を改革するこの方法は、シュヴェンクフェルト存命中に、素晴らしい結果を生じさせた。シレジアだけでなくこの宣教士・改革者が手を差し伸べることのできたすべての地域に、安逸と贅沢よりも「キリストの学校の塩とパンを好む」多くの人々がいたのである。彼らは敵対する世の只中に彼らの小さな団体を形成した。アウグスブルグの公的記録が示すところによると、シュヴェンクフェルト存命中、その都市にこれらの静かで霊的な礼拝者たちの素晴らしい団体が存在した。彼らの指導者たちは卑しい職業についている人々だった――支配的宗教もしくは公認宗教のどれかに従うことで満足していれば、市や教会の当局者たちの注意を引かなかったであろう人々だった。シュヴェンクフェルトの書き物から受けた霊感の下で、彼らは「小さな集会」を形成した――それはあらゆる点で十七世紀のクエーカーの集会に似ていた――彼ら自身の家に順番に集まり、礼典の使用をすべて廃し、啓発を求めて公的説教ではなく神を待ち望んだのである。彼らは自分たちの集会の中でシュヴェンクフェルトの本や手紙を読んだ。また、彼らはシュヴェンクフェルトを支持する他の団体に手紙を書き送り、返答の手紙を受け取って自分たちの集会で読んだ。彼らは宗教的実行のいかなる形式にも反対した。それらは自分たちの霊にとって不可解なものであり、神の御言葉の内的務めから直接発したものではないように彼らには思われた。彼らは最終的に見つかって、その指導者たちは追放され、その書物は焼かれ、そのいわゆる「静かな霊性」の小さな集会は情け容赦なく撲滅された。このような団体が多くの場所に形成され、祖国で内的敬虔を育み続けたが、とうとう迫害に見舞われて、一七三四年にペンシルバニアに移住した。その地で彼らは今日に至るまで彼らの共同体生活を維持し続けている。


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 主の晩餐に関する彼の見解も同じように、内的宗教としてのキリスト教という彼の観念に全く合致している。彼が彼固有の独特な種類の宗教に到達したのは、この晩餐の意味と意義に関する学びによってだった。彼は実際的な試金石――ユダの事例――と共に黙想を始めた。もし最後の晩餐のパンとぶどう酒がキリストの体と血と同じだったなら、ユダはその邪悪な霊にもかかわらず、他の弟子たちと同じようにキリストを食したに違いなく、神聖な性質を彼自身の中に受け入れたに違いない――しかし、それはありえない。

 知的困難の中、彼はヨハネ六章の偉大な神秘的談話に向かった。その決定的解釈にあたり、彼はリーグニッツの神学講師だったバレンティン・クロートワルドから重要な示唆と助けを受けた。この注目すべき談話の中で、キリストは彼の弟子たち、彼の従者たちを彼御自身の肉と血をもって養うことを約束しておられる。その肉と血により彼らはその永遠の性質に与り、彼と共に復活の命の中に入る。ここで人々に提供されているこの「肉と血」は、物理的方法で食される外面的礼典を指すものではありえない。なぜなら、このまさに同じ談話の中で、外面的かつ物質的な肉に益はない、とキリストは述べておられるからである。命を与えるのは御霊であり、それゆえ、キリストの「肉と血」は御言葉と同義語であるに違いない。というのは、御言葉は魂を実際に再創造して養い、人の霊を新しくして活気づけるものだからである。

 キリストの「肉と血」による魂のこの養いと刷新をシュヴェンクフェルトは、われわれがこれまで見てきたように、絵図や象徴としてではなく、クリスチャンが経験する文字通りの事実として取り扱う。十字架に付けられて、よみがえらされ、栄光を受けたキリスト――創造的アダム――のパースンを信じる信仰を行使することにより、朽ちることのない、命を与える本質が魂の中に到来し、それを変容させる。神聖な天の世界からの何か、キリストのあの霊化・栄化された性質からの何かが、人の霊の実際の食物となる。それは、それを通して人がこの神・人と同じ性質にあずかることができるためである。一度や二度ではなく、継続的な経験として、魂は霊を刷新するこの輝かしい食物――このキリストの食べ飲み――にあずかることができる。

 外面的な晩餐――そしてこの問題に関しては外面的なバプテスマも同じである――は、キリストの教会において、この実際の経験の絵図的象徴、あるいは信仰の可視的告白としての地位を占めているかもしれないが、この外側のしるしには、彼の見解によると、僅かな重要性しかない。それは人目を引く前面に出るべきではないし、それを論争の対象にしたりそれにこだわったりしてもならない。新創造、生ける御言葉に対する信仰の応答、キリストの似姿への命の変容こそが、クリスチャンが経験する重大な諸事実であり、これらのものはいずれも外面的儀式によっては伝達されないのである。


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