見せかけだけの者

 「シモン自身も信じて、バプテスマを受け、それから、引き続きピリポについて行った。しかし、ペテロは彼に言った(中略)『おまえはこれに何の分も分け前も持っていない。おまえの心が神の前に正しくないからだ』」(使徒八・十三、二十一)。

 「彼らは私たちから出て行った。しかし、彼らは私たちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、きっと私たちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、彼らがみな私たちに属さない者であることが、明らかにされるためである」(一ヨハネ二・十九)。

 「『しかし、あなたたちの中には信じない者がいる』。イエスは、初めから、誰が信じないか、誰が彼を裏切るかを知っておられたのである。そしてイエスは言われた、『それだから、私の父からでなければ、誰も私に来ることはできないと、あなたたちに言ったのである』。その時から、多くの弟子たちは去って行って、もはやイエスと共に歩まなかった」(ヨハネ六・六十四~六十六)。

 「その後で、他のおとめたちも来て、『ご主人さま、ご主人さま、どうか開けて下さい』と言った。しかし彼は答えて言った、『はっきり言うが、私はあなたたちを知らない』」(マタイ二十五・十一~十二)。

 「このようにあなたたちも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。蛇よ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰を逃れることができようか?」(マタイ二十三・二十八、三十三)。

 「王は客を迎えようとして入って来たが、そこに礼服をつけていない一人の人を見て、彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここに入って来たのですか?』。しかし、彼は黙っていた。そこで、王は僕たちに言った、『この者の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ』」(マタイ二十二・十一~十三)。

 「その日には、多くの者が、私に向かって『主よ、主よ、私たちはあなたの御名によって預言したではありませんか?また、あなたの御名によって悪霊を追い出し、あなたの御名によって多くの素晴らしいわざを行ったではありませんか?』と言うであろう。そのとき、私は彼らにはっきりとこう言おう、『あなたたちをまったく知らない。不法を働く者よ、私から離れ去れ』」(マタイ七・二十二~二十三)。

 「私の兄弟たちよ、ある人が自分には信仰があると言っていても、もし行いがなかったら、何の役に立つか?その信仰は彼を救うことができるか?」(ヤコブ二・十四)。

 「いったん、光を受けて天の賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良き御言葉と、来たるべき世の力とを味わった者たちが、そののち堕落した場合には、彼らを悔い改めに立ち返らせることはできない」(ヘブル六・四~六)。

 「義人は信仰によって生きる。誰でももし後退するなら、私の魂はこれを喜ばない」(ヘブル十・三十八)。

信者は報いを受け、見せかけだけのものは罪に定められる

 マタイ二十五・十九~二十三とマタイ二十五・二十四~三十、ルカ十二・四十二~四十四とルカ十二・四十五~四十七、コロサイ三・二十四とマタイ七・二十二~二十三とを比較せよ。

 難しい御言葉もあるが、祈りと注意深い学びにより、次の重要な規則を心に留めておくなら、かならず光が臨むであろう:疑わしい曖昧な節を、明快で積極的な節と決して矛盾させてはならない。「もし(if)」を「まことに(verily)」と矛盾するように用いてはならない。ヘブル六・六をヨハネ五・二十四と矛盾するように用いてはならない。

 イスカリオテのユダの事例やペテロの事例に、困難な点は何もない。ユダは決して信者ではなかったが(ヨハネ六・六十八~七十一を見よ)、ペテロは決して信者であることをやめなかったのである(ルカ二十二・三十一~三十二)。

 次のことをいつも覚えておかなければならない。これらの原則は、神の御言葉を正しく切り分けるためのだけの指針であり、決して生身の人々に適用してはならない。口先だけの者を裁くことは、私たちには委ねられておらず、人の子に任されているのである(マタイ十三・二十八~二十九、一コリント四・五)。


「真理の言葉の正しい切り分け」完


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 神が一つの民を取り分けてご自分のものとされた時からこのかた、この民をひどく悩ませてきた問題がある。その問題とは、口では神の民であると言いながら、実はそうではない者たちが、自分たちの間にいる、ということである。この問題は次の御言葉が成就する時まで続く。「人の子はその御使いたちを遣わし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく王国の中から取り除かせる。(中略)その時、義人たちは彼らの父の王国で太陽のように輝くであろう」(マタイ十三・十四~四十三)。

 聖書は、毒麦と麦の混合をはっきりと述べている――信者たちの間に口先だけの者がいるのである。しかし、誤った指導を受けてきた生徒たちは、自己欺瞞の者や偽善者だけにあてはまる警告や勧めを、しばしば、神の子供たちにあてはめてきたのである。

 このような混合が存在する事実は、聖書を見ればよくわかる。(創世記四・三~五、出エジプト十二・三十八、民数記十一・四~六、ネヘミヤ七・六十三~六十五、十三・一~三、マタイ十三・二十四~三十、三十七~四十三、二コリント十一・十三~十五、ガラテヤ二・四、二ペテロ二・一~二を見よ。)

 聖書をざっと読んで、真の信者をたんなる形式主義者、偽善者、欺瞞の律法学者――彼らは、無代価の賜物としてすでに受けている救いを成し遂げるかわりに、救いのために働いているのである――の集団と区別している節を、すべて述べるのは不可能である。(ピリピ二・十二~十三とエペソ二・八~九を見よ。)以下の御言葉の比較から、その境界線がよくわかるであろう。

信者は救われているが、口先だけの者は失われている

真の信者


 「イエスは女に向かって言われた、『あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい』」(ルカ七・五十)。

 「そして彼らは、使徒たちの教えと交わりの中に、パンをさくことの中に、そして祈りの中に、堅くとどまり続けた」(使徒二・四十二)。

 「私の羊は私の声を聞く。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びることがなく、また、彼らを私の手から奪い去る者はいない。彼らを私に与えて下さった私の父は、何ものにもまして偉大である。そして、誰も私の父の御手から、彼らを奪い取ることはできない」(ヨハネ十・二十七~二十九)。

 「父が私に与えて下さる者は皆、私に来るであろう。そして、私に来る者を私は決して拒まない。私を遣わされた父の御旨は、私に与えて下さった者を、私がひとりも失わずに、終わりの日によみがえらせることである」(ヨハネ六・三十七、三十九)。

 「そして、彼らが買いに行っている間に、花婿がやって来た。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴の部屋に入り、そして戸が閉められた」(マタイ二十五・十)。

 「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるのである。そこには何の差別もない」(ローマ三・二十二)。

 「私たちは喜び楽しみ、神をあがめよう。小羊の婚姻の時が来て、その妻は用意を整えたからである。彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの義である」(黙示録十九・七~八)。

 「私は良い羊飼いであって、私の羊を知り、私の羊もまた、私を知っている」(ヨハネ十・十四)。

 「しかし、神の土台は堅く据えられていて、『主は自分の者たちを知る』という句が証印として記されている」(二テモテ二・十九)。

 「まことに、まことに、私はあなたたちに言う、私を信じる者は永遠の命を持つ」(ヨハネ六・四十七)。

 「父よ、あなたが私に賜った者たちが、私のいる所に一緒にいるようにして下さい。この世の基が置かれる前から私を愛して下さって、私に賜った栄光を、彼らに見させて下さい」(ヨハネ十七・二十四)。

 「あなたたちのうちに良いわざを始められた方が、イエス・キリストの日までにそれを完成して下さると、確信している」(ピリピ一・六)。

 「しかし私たちは、後退して滅びに至る者ではなく、信じて魂の救いに至る者である」(ヘブル十・三十九)。


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救いは現在所有しているものである

 「御子を信じる者は永遠の命を持つ」(ヨハネ三・三十六)。

 「まことに、まことに、私はあなたたちに言う。私の言葉を聞いて、私を遣わされた方を信じる者は、永遠の命を受け、罪に定められることがなく、死から命に移っているのである」(ヨハネ五・二十四)。

 「まことに、まことに、私はあなたたちに言う。私を信じる者は永遠の命を持つ」(ヨハネ六・四十七)。

 「神は私たちを救い、聖なる召しをもって召して下さったが、それは、私たちの働きによるのではなく、神ご自身の目的と恵みによるのである」(二テモテ一・九)。

 「そしてイエスは女に言われた、『あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい』」(ルカ七・五十)。

 「私たちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いと聖霊の更新とにより、私たちを救って下さったのである」(テトス三・五)。

 「その証しとは、神が永遠の命を私たちに与えて下さったこと、かつ、その命が御子の内にあるということである」(一ヨハネ五・十一)。

 しかし、以下の諸々の報いは、将来のある時に与えられる。

報いは将来受けるものである

 「人の子は、その御使いたちと共に、父の栄光のうちに来る。その時、各自の働きにしたがって、それぞれに報いるであろう」(マタイ十六・二十七)。

 「あなたは義人の復活の時に報いを受けるであろう」(ルカ十四・十四)。

 「見よ、私はすぐに来る。私の報いは私と共にあり、各自の働きに従って、それぞれに与える」(黙示録二十二・十二)。

 「羊飼いの長が現れる時、あなたたちはしぼむことのない栄光の冠を受ける」(一ペテロ五・四)。

 「今からは、義の冠が私のために用意されている。かの日には、義なる審判者である主が、それを授けて下さるであろう」(二テモテ四・八)。

 「だいぶ時がたってから、この僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算した」(マタイ二十五・十九)。

 神は、ご自分の聖徒たちの忠実な奉仕に、天的な永遠の栄誉をもって報いることを約束された。その目的は、聖徒たちを勝ち取って地上の富や楽しみを追い求めることから引き離すこと、迫害の火の中にある聖徒たちを支えること、そして、クリスチャンの諸々の美徳を行使するよう聖徒たちを励ますことである。「最後に、この警告に注意しようではないか」(黙示録三・十一)。(ダニエル十二・三、マタイ五・十一~十二、十・四十一~四十二、ルカ十二・三十五~三十七、十四・十二、十四、ヨハネ四・三十五~三十六、コロサイ三・二十二~二十四、二テモテ四・八、ヘブル六・十、十一・八~十、二十四~二十七、十二・二~三を見よ。)


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 新約聖書の中には、失われた罪人たちのための救いの教理と、救われた者たちの忠実な奉仕に対する報いの教理とがある。生徒がこの二つを明確に区別することが、御言葉を正しく理解するのに大いに重要である。この区別がいかなるものかは、以下の対比によく注意すればわかる。

救いは無代価の賜物である

 「イエスは答えて彼女に言われた、『もしあなたが神の賜物を知り、「飲ませてくれ」と言った者が誰なのかを知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう』」(ヨハネ四・十)。

 「さあ、渇いている者はみな水に来たれ、金のない者も来たれ。来て、買い求めて、食べよ。来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ」(イザヤ五十五・一)。

 「御霊と花嫁は言う、『来たりませ』。また、聞く者も『来たりませ』と言いなさい。渇いている者はここに来るがよい。命の水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」(黙示録二十二・十七)。

 「罪の報酬は死であるが、神の賜物は、私たちの主イエス・キリストによる永遠の命である」(ローマ六・二十三)。

 「あなたたちは恵みにより、信仰を通して救われたからである。それは、あなたたち自身から出たものではなく、神の賜物である。働きによるのではない。誰も誇ることがないためである」(エペソ二・八~九)。

 しかし、救いが無代価であるのとは対照的に、神が喜ばれる働きには報いがあることに注意せよ。

神が喜ばれる働きには報いがある

 「私の弟子であるという名のゆえに、この小さい者の一人に冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いを失うことはない」(マタイ十・四十二)。

 「私は良い戦いを戦い、自分の行程を終え、信仰を守った。今から後は、義の冠が私を待っているのである」(二テモテ四・七~八)。

 「見よ、私はすぐに来る。私の報いは私と共にあり、その働きに応じてそれぞれに与える」(黙示録二十二・十二)。

 「あなたたちは知らないのか?レースで走る者は、みな走りはするが、賞を得る者は一人だけである。だから、あなたたちも、賞を得るように走りなさい。しかし、彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、私たちは朽ちない冠を得るためにそうするのである」(一コリント九・二十四~二十五)。

 「あなたたちも賞を得られるように走りなさい。すべて競技をする者は、何ごとにも節制する。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、私たちは朽ちない冠を得るためにそうするのである」(一コリント九・二十四~二十五)。

 「そこで主人は僕に言った、『良い僕よ、よくやった。あなたは小さい事に忠実であったから、十の町を支配させる』」(ルカ十九・十七)。

 「なぜなら、すでに据えられている土台以外ののものを据えることは、誰にもできないからである。その土台とはイエス・キリストである。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、刈り株を用いて建てるならば、それぞれの仕事は、明らかにされる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、試すであろう。もし誰かが建てた仕事が残れば、その人は報いを受けるが、その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう」(一コリント三・十一~十五)。

 「あなたの受けようとしている苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたたちのうちのある者を試すために、獄に入れようとしている。あなたたちは十日の間、苦難を受ける。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、命の冠を与えよう」(黙示録二・十)。命を受けるのではない――スミルナの聖徒たちは命、永遠の命を持っており、義のために苦難を受けていた――彼らが受けるべきは命の冠だったのである。

 冠は報いの象徴であり、獲得した栄誉の象徴である。四つの冠が述べられていることがわかる:務めの報いである喜びの冠もしくは喜ばしい冠(ピリピ四・一、一テサロニケ二・十九)、忠実な証しの報いである義の冠(二テモテ四・八)、試みにおける忠実さの報いである命の冠(ヤコブ一・十二、黙示録二・十)、苦難における忠実さの報いである栄光の冠(一ペテロ五・四、ヘブル二・九)である。


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立場

 「私たちはこのことを知っている。私たちの古い人はキリストと共に十字架に付けられた。それは、この罪の体が滅びるためである」(ローマ六・六)。

 「あなたたちは世の光である」(マタイ五・十四)。

 「神は私たちを救い、聖なる召しをもって私たちを召して下さったのである。それは、私たちの働きによるのではなく、神ご自身の御旨と、世が始まる前にキリスト・イエスにあって私たちに賜った恵みとによるのである」(二テモテ一・九)。

 「キリスト・イエスにあって、私たちを共によみがえらせ、共に天上で座に着かせて下さったのである」(エペソ二・六)。

 「私たちの命であるキリストが現れる時、あなたたちもまた彼と共に栄光のうちに現れるのである」(コロサイ三・四)。

 「あなたたちはかつては暗闇であったが、今は主にあって光である」(エペソ五・八)。

 「あなたたちはみな、光の子、昼の子である。私たちは夜の者や、暗闇の子ではない」(一テサロニケ五・五)。

 「神は、私たちを怒りにあわせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得るように定められたのである。キリストが私たちのために死なれたのは、起きていても眠っていても、私たちが彼と共に生きるためである」(一テサロニケ五・九~十)。

 「この御旨に基づき、ただ一度イエス・キリストの体がささげられたことによって、わたしたちはきよめられるのである」(ヘブル十・十)。

 「あなたたちがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、私たちの(中略)聖となられたのである」(一コリント一・三十)。

 「彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠にまっとうされたのである」(ヘブル十・十四)。

 「だから、私たちの中の全き人たちは、そのように考えるべきである」(ピリピ三・十五)。

 「そのことによって、私たちの愛はまっとうされるのである。それは、裁きの日に私たちが大胆さを持つためである。私たちはこの世にあって彼のような者だからである」(一ヨハネ四・十七)。

状態

 「もしあなたたちが、キリストと共に死んで世の諸々の要素から離れたのなら、なぜ、なおもこの世に生きている者のように、諸々の規定に縛られているのか?」(コロサイ二・二十)。

 「あなたたちの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたたちの良い行いを見て、天におられるあなたたちの父をあがめるようにしなさい」(マタイ五・十六)。

 「私の愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたたちがいつも従順であったように、私が一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れとおののきとをもって自分の救いを成し遂げなさい」(ピリピ二・十二)。(この大いに誤用されているテキストを読むとき、次のことによく注意せよ。ここで述べられている救いとは、魂の救いのことではなく、クリスチャンが神の御旨を行うのを邪魔する諸々の罠からの救いのことなのである。)

 「このように、あなたたちはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである」(コロサイ三・一)。

 「だから、あなたたちの地上の肢体を殺してしまいなさい」(コロサイ三・五)。

 「光の子として歩きなさい」(エペソ五・八)。

 「だから、他の人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう」(一テサロニケ五・六)。

 「だから、あなたたちは、今しているように、互いに慰め合い、相互の徳を高めなさい」(一テサロニケ五・十一)。

 「あなたの真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言葉は真理です」(ヨハネ十七・十七)。

 「平和の神ご自身があなたたちをまったくきよめて下さいますように」(一テサロニケ五・二十三)。

 「私はすでに到達したわけでも、完全な者になっているわけでもない」(ピリピ三・十二)。

 「そういうわけだから、キリストについての教義の諸々の原理をあとにして、完成に向かって進もうではないか」(ヘブル六・一)。

 「彼の内に住んでいると言う者は、彼が歩まれたように、自分も歩むべきである」(一ヨハネ二・六)。

 信者の立場と状態を聖書は明確に区別していることを示す対比的な節のこの一覧に、生徒はもっとたくさん付け加えることができるであろう。これからわかるように、信者は想像を超えた高い地位にふさわしいかどうかを見るための審査を受けているわけではなく、自分のまったくの無価値さを告白したときから、キリストの御業の結果として、この地位を受けるのである。地位的には信者は「永遠に完全な者とされている」(ヘブル十・十四)が、内側の状態を見るとき、「私はすでに到達したわけでも、完全な者になっているわけでもない」(ピリピ三・十二)と言わざるをえない。

 こう言ってもよいであろう。信者のための神のその後のすべての働き、信者の歩みと良心に対する御言葉の適用(ヨハネ十七・十七、エペソ五・二十六)、御父の御手による懲らしめ(ヘブル十二・十、一コリント十一・三十二)、御霊の務め(エペソ四・十一~十二)、荒野の道のすべての困難や試練(一ペテロ四・十二~十四)、キリストが現れる時の最終的変容(一ヨハネ三・二)、これはみな、信者の性格を回心の瞬間に受けた地位にまったく見合うものとすることに他ならないのである。信者は確かに恵みの内に成長するのであって、成長して恵みに至るのではない。

 皇子は、幼子の間は、おそらく他の幼子たちとおなじように、強情で無知かもしれない。とても従順で、教えやすく、優しいので、上機嫌で、良しと認められることもあるかもしれない。しかし、そうでない時は、乱暴で、わがままで、不従順なので、不機嫌で、おそらく懲らしめを受けるかもしれない。しかし、一方の日も他方の日とまったく同じように、彼は皇子なのである。望ましいのは、時間がたつにつれて、彼がすべての正しい道を志してそれを愛することを学ぶようになることである。そうするなら、彼はますます皇子らしくなるであろう。しかし、ますます実際の皇子になるわけではない。彼は皇子に生まれたのである。

 王の王、主の主の真の子供なら誰でも、このように王らしく成長するのは確かである。遂には、立場と状態、性格と地位は等しくなるであろう。しかし、この地位は完成された性格の報いではない――この性格がこの地位から発達するのである。


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