真のクリスチャン生活は広大な生活である

 神抜きで生きている人々は、小さな狭い場所で生きている人々である。人々の間に流布している嘘の中で、「クリスチャン生活は偏狭な生活であり、神の御旨に従わない生活は高尚で自由な生活である」という嘘ほど不謹慎なものはない。

 私は信じているが、われわれはみな自由を熱烈に愛している。われわれは可能性を求めている。拡大・拡張できる場所をわれわれは欲している。今日のとても多くの若者は、神の御旨の中に入ることは偏狭さの中に入ることであるという幻想を抱いている。それはサタンの嘘である。しかし、悪魔を責めすぎないようにしようではないか。これほど多くの神の民が「宗教」を貧弱な消極的代物、すなわち、禁令と外面的遵守の体系にしていなければ、悪魔は決して自分の嘘を信じ込ませることはできなかっただろう。

 猛烈に――この意味で――「宗教的」な人々に向かって、キリストは「ですから、子があなたたちを自由にするなら、あなたたちは確かに自由なのです」という偉大な御言葉を語られた。彼が来たのは、罪の虜だけでなく形式主義の虜にも解放を宣べ伝えるためだった。この福音は一つの召しであり、狭量さ、偏狭さ、無意味な事柄から連れ出して、広大かつ壮大な大思想や力、無限の可能性という広大な地平線へともたらす。

 今、神のすべての子供についてこう言える。すなわち、神の子供はみな広い場所に連れ出されたのである。不幸なことに、多くの人がこの広い場所で偏狭な生活を送り続けている。自由なのにそれを知らないのは、言語を絶する悲劇・惨状であるように私には思われる。年老いた囚人が解放されて、それなのに再び昔の牢獄に戻ることを求めて泣いているのを、連想してしまうのである。


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御言葉:「主はまた私を広い場所に連れ出された。」(詩一八・一九)

 この御言葉が示しているのは約束ではなく証しであることに注意せよ。

 神は実際にはこれをダビデのために行われた。彼は牧童だった。目立たない者であり、彼自身の能力を総動員しても鈍い知覚しかなかった。若い田舎者のちっぽけな事柄やちっぽけな考えに閉じ込められていた。その後、神が彼の人生の中に働き始められた。神は偉大な数々の約束で彼を刺激し、彼を大冒険に導き、逆境というハンマーで彼を打ち叩かれた。そして遂に彼という粗い鉱石は鍛え上げられた鋼へと変えられた。しかしその間ずっと、神は枷を打ち砕き、捕獲網を引き裂き、彼の魂の翼を高く上げ、神の息吹で彼を満たし、彼を拡張・拡大・解放しておられた。そして遂に、自分は自由人であって広い場所にいることを、ダビデは自覚するようになったのである。

 彼は頭を上げ、強靭な若々しい腕を広げ、自由で広大な空気を深呼吸してその胸を膨らませつつ立つことができた。彼はこの宇宙の中でくつろいでいた。繰り返すが、ダビデはここで証ししているのであって、理論を立てているのではない。彼はこれがそうであることを見い出したのである。これについて私は「真のクリスチャン生活は広大な生活である」と述べよう。


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永遠に関するビジョン

 次に、恵みは永遠の事柄に関するビジョンで魅了・魅惑する。パウロは万物を二つの部類に分けている。見えるものと見えないものである。そして彼は「見えるものには一時的であるという致命的欠点があるが、見えないものには永遠に続くという無限の価値がある」と告げる。これを信じているので、キリストにある新しい人は見えるものを軽んじる。

 見えるものは人生の本質ではなく、人生の単なる出来事になる。

 この世のものを彼はたくさん持っているかもしれないが、彼が喜ぶのはそれらを他の人々の生活を豊かにするために用いることができるからである。あるいは、彼は少なく集めるかもしれないが、それでも彼が喜ぶのは、莫大な持ち物を正しく用いる責任が自分にはないからである。彼の真の嗣業は天にある。そしてこのようなあらゆる境遇の中で、またそれを通して、御子は彼を自由にされるのである。

 御霊の中を歩んでいる主の自由人は、次の勧めに気を付けさえすればいい。「ですから、キリストがあなたたちを解放して下さったその自由の中に堅く立ちなさい。二度と束縛のくびきに巻き込まれてはなりません」。


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人生の新しい理想

 次に恵みは、新しい高く上げられた諸々の理想の力により、変容的働きをする。人生に関する観念がすっかり変わってしまう。昔の束縛の下では、人生は人が自分のために適切に使える所有物と思われていた。新しい理想の下では、人生は貴いものである。なぜなら、人生を他の人々の幸いのために用いることができるからである。

 キリストにある新しい人は、自分の人生の新しい理想として、キリストの犠牲の法則を受け入れた。彼は心からキリストの公式を採用する。

――「人の子が来たのは仕えられるためではなく仕えるためであり、自分の命を多くの者のための贖いとして与えるためです」。
――「自分の命を救う者はそれを失い、自分の命を私のために失う者はそれを見い出します」。
――「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。しかし、死ねば多くの実を結びます」。


 「これにより初めて高貴な人生を送ることができる」という確信の下で、心から受け入れられたこのような理想は、自己に対する以前の隷属からの解放に向けて働く。多くの失敗があったとしても、また、時として歩みが停滞したとしても、このような理想を追い求めるなら、それは変容をもたらす。

 それを受け入れる人は、宇宙に向かって独立宣言を発したのである。彼は以前の懇願や懇請から自由である。それらの懇願や懇請が彼に対して力を持っていたのは、自己という神への以前の恐ろしい奉仕に対して何かを約束してくれるように思われたからである。花嫁は自己を高めることや自己を喜ばせることをもはやせず、嘆願するのをやめてしまった。嘆願することは、謙遜と恋に落ちたその心をただ痛めるだけである。


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真の自由とは何か

 しかし、キリスト者の自由は無政府状態――それは自己意志の反乱に他ならない――ではない。むしろ、父なる神と堅く結ばれて、御子なるキリストとしっかりと一つになるべきである。聖霊の優しい支配に全く明け渡して、人の意志が神の意志に融合されるほどでなければならない。そして、神御自身の絶対的に自由な主権的御旨と一つにされなければならない。神は御旨のままになさるが、神の御旨は常に絶対的に正しくて絶対的に慈悲深いことを為すことである。

 しかし、こうした一切のことにおいて、信者の個性が損なわれることはない。むしろ、この個性は高められて、愛らしいものを全て愛する熱烈な愛という神聖な水準に達するのである。

 それは従順であるが、新契約の下での従順である。新契約では、母親の愛のように、律法は心の中に記される。母親は、自分の子供の誕生によって自分の最も深い部分に生じたあの責務に従うことに、最高の喜びを見い出す。

 真に正直な人で、盗みに対する法律に束縛を感じる人はいない。その人が正直なのは、法令集に印刷されている文章のためではなく、自分の心に記されていることのためである。その法令が撤廃されても、彼は依然として正直なままだろう。そしてそれゆえ、彼は完全に自由なのである。この内面的働きがなければ、人に対していかなる外面的働きをしたとしても、その人は自由にならないし、自由にはなれない。有罪判決を受けた犯罪者に恩赦を施しても、その人は自由人にはならない。彼は依然として自分の犯罪的願望の奴隷である。しかし、彼が誠実さ、実直さ、高潔さと恋に落ちるとき、彼は自由になる。こうした変容をすべて、恵みは贖われた心の内に為すのである。


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