ヘブル四・十四~十六は、あなたによって現実のものとなることができる。「私たちには、諸々の天を通って行かれた大祭司なる神の子イエスがいるのですから、私たちの信仰告白を堅く保とうではありませんか」。ここの言葉は「告白」ではなく「信仰告白」である。この御言葉はキリスト教のことを「一大信仰告白」と言っている。あなたが告白すべき信仰告白は、あなたはキリストにあって何者なのか、ということである。これまであなたに述べてきたことは、みな現実である。それを堅く保て。

 敵はあなたの信仰告白をあなたに否ませようとするだろう。これとは別の信仰告白をあなたにさせようとするだろう。弱さ、失敗、欠乏を告白させようとするだろう。

 しかし、あなたは自分の信仰告白を堅く保て。「私の神は私の必要をすべて満たして下さいます」ピリピ四・十九。この信仰告白によって立て。ピリピ四・十三「私は、私を強くして下さる方にあって、なんでもすることができます」。「キリストは私の命の力です」と宣言せよ。それをあなた自身に向かって大声で告げよ。耳にたこができるまでそうせよ。

 一ペテロ二・二十四「キリストはあの木にかかって、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪に死に、義に生きるためです。その傷によって、あなたたちは癒されたのです」。あなたはあの十字架の上でキリストと共に罪に対して死んだ。あなたが甦ったのは義の中を歩むためである。また、キリストの傷によってあなたは癒された。イエスが死者の中から復活された時、癒しはあなたのものになったのである。

 敵のあらゆる攻撃を前にして、あなたの信仰告白を堅く保て。イエスの御名によって敵を叱責せよ。

 あなたは義の道の中を歩んでいる。これは、まるでイエスがあなたに御言葉を語って下さったかのように行動・生活することを意味する。これが勝利の道である。これが、イエスの御名によって悪鬼や病を追い出す道である。クリスチャンを苦しめてきたどの病気も、もしその信者のために勇敢に義の中を歩む人、勇敢にキリストにある自分の特権の豊かさの中を歩む人が誰かいたなら、、癒されていただろう。悪魔は追い出され、信者は癒しを受け取れていただろう。

 ヘブル四・十五、十六「私たちの大祭司は、私たちの弱さを思いやることのできないような方ではありません。罪を除いてあらゆる点で私たちと同じように誘惑されたのです。ですから、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」。いま王座の部屋に行って、主と御父と共に座すよう、あなたは招かれている。

 あなたは大胆に行くべきである。潜り込んではならない。自分の罪を告白しながら、自分の弱さや失敗を嘆き悲しみながら、行ってはならない。新しい衣を身につけよ。御座の前に現れるのに相応しい身なりをせよ。

 あなたたちは全能の神の息子たち、娘たちであり、罪に定められることはない。欠乏しているとき、あなたたちは助けとなる憐れみと恵みを見いだすだろう。


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 回心後すぐにセス・C・リースは宣べ伝え始めた。彼は大成功を収め、インディアナ州とオハイオ州の様々な場所で集会を開いた。しかしすぐに御霊は全き聖めの必要性を彼に確信させた。彼は述べている。「デイビッド・B・ウプデグラフやドゥーガン・クラーク博士のような人々の務めの探る光の下で、私は自分の経験の欠け目を痛感しました。何度も何度も私は集会から森や郊外に駆け込んで、昼も夜も、数時間ものあいだ泣いて神に叫びました。生来の罪に対する認罪の苦しみは、目覚めた罪人として耐え忍んだ何物をも大いに上回るものでした。ある時、この『古い人』からの解放を熱心に叫び求めた後、すなわち苦悶の数時間の後、私はどこまでも沈んで行くような感覚に満たされ始めました。まるで死にかけているかのようでした。それで私は主に『そうです』と言い始めました。『そうです!そうです!アーメン!アーメン!アーメン!』。過去も現在も将来も、いまだ知らざるものも、私の名声も、私のすべては神の祭壇の上に行きました。私は『なかなか死なない』者でしたが、『確かに死んだ』のです。遂に私の魂の中に、静かな感覚、聖なる静けさ、死のような沈黙、甘く穏やかな『第二の安息』がゆっくりと流れ込み始めました。そして私は自分が全く聖められたことを知ったのです。聖霊が内に来て下さって、私のあらゆる疑いを一掃し、御自身で私を満たして下さったのです」。

 彼の「ペンテコステ」のすぐ後、神はこの友の会の奉仕者に大きな活躍の場を開いて下さった。オハイオ州、ミシガン州、ロードアイランド州で牧師をしていた時、彼は驚異的成功を収めた。二年間、彼はインマヌエル教会のロードアイランド地区の働きを指揮した。それ以降、彼はペンテコステ的福音宣教に全く打ち込んだ。彼は広く旅をして、神は彼が宣べ伝えるこの強固な真理を至る所で尊んでおられる。彼はポーツマス野外集会の総理である。この集会はその昔ながらの単純さと使徒的力で有名になった。彼は「理想的なペンテコステの教会」の著者であり、この本は神の民の間に広く流布している。

 去る六月(一八九四年)に彼の妻であるフルダ・A・リースが亡くなったのは彼にとって痛打であり、それから回復する手段は何もないものだった。しかしその大きな悲しみにもかかわらず、彼は全き救いの働きを推し進め、ポーツマス、メリック、国立公園、レイク山公園、ピットマングロブ、オーシャングロブのような多くの野外集会で説教をした。

 去る九月(一八九四年)、オハイオ州シンシナティで開かれた集会において、国際聖潔連盟の常設組織のために、彼は総理として働くよう選ばれた。この連盟が組織された目的は多くの人々に全き救いの福音を届けることであり、この働きを世界のすべての地域で遂行することが計画されている。

 リース兄弟は、話すことにおいても執筆においても、常に活発に主の働きを行っている。神は数千もの魂を助けるために彼を祝福しておられる。どうか神が兄弟を御自分の葡萄園の働きにために長く保って下さいますように。(マーチン・ウェルス・クナップ記)

出典「ペンテコステのメッセンジャーたち」(マーチン・ウェルス・クナップ著)


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「彼らは如何にしてカナンに入ったのか」(ドュアン・V・マクセイ編)からの抜粋。

 セス・C・リースは一八五四年八月六日、インディアナ州ハミルトン郡のウェストフィールドに生まれた。昔ながらのクエーカー出身で、その祖先は何代にもわたって友の会の会員だった。彼の幼年期や青年期の間、その教会の霊的命は低調だった。礼拝は形式的で、命に欠けることがしばしばだった。また、奉仕にはほとんど力がなかった。彼の性質はとても活発でエネルギッシュだったので、活力に満ちた敬虔さが教会に欠けていたせいで、彼が無鉄砲で不敬虔な者になってしまったのも驚くにはあたらない。十九歳の時、大いに敬虔で力のある信仰復興者であるカルビン・プリチャードがウェストフィールドで集会を開いた。無思慮なクエーカーの少年は深い罪の自覚を覚えた。守られてきた良心的な少年期を思い出して、またその影響のおかげで、彼は神の方に引き寄せられた。彼は自分の経験についてこう述べている。「当時、『改悛席』や『悔悟票』は、われわれの集会では用いられていませんでした。しかし、『天から遣わされた聖霊』と共になされた説教の終わりに、神の民の祈りを願う者は全員立ち上がるようにという求めがなされました。大会衆がひどく驚いたことに――ほとんど全員が私のことを個人的に知っていました――私は自分の足で立ち上がりました。当時、私が回心するとは全く思いもよらないことでした。事実、救いを受けることができるとは私は少しも思っていませんでした。『大変な問題を起こしてしまったぞ』と自分に向かってつぶやいたのを、私ははっきりと覚えています。それ以上の求めは何もありませんでしたし、私が踏み出した一歩について私に話しかける人は誰もいませんでした。次の日の晩になされた同じような招きでも私は立ち上がりました。そうした理由は何よりも、昨晩そうしたからです。しかし今や、私の気持ちは大いに真剣でした。そこで、初日の夜に別の招きがなされて、クリスチャンになることを心から願う者は全員立ち上がるようにという求めがなされた時、私は他の大勢の人々と一緒に速やかに応じました。公的にも私的にも私に対してそれ以上の話は何もありませんでしたが、愛する聖霊は二日目の朝に昼の集会に出るよう私に示して下さいました。私が集会所の庭に入ると、隣人が『来て私と一緒に座るかい?』と尋ねてきました。そして返事を待たずに、私が子供の頃から慣れていた席よりもずっと前の席に連れて行ってくれました。会衆の上に御霊が下って、集会が証しと告白の集会になった時、私はじっと座っていられなくなりました。集会は続いていましたが、奇妙な力が私に臨み、私は自分の足で立ち上がって自分が酷い罪人であることを告白しました。私が立っていた時間は三十秒もありませんでしたが、座った時、私は聖徒になっていたのです!天全体が私の魂の中に下ってきたかのように思われました。その時まで、祈ろうとしたことはありませんでした。一滴も涙を流したことはありませんでした。今や私の目は泉となり、私は大泣きしました。万物の様相は一変しました。草の葉や、水の滴や、森や野の鳥はどれも、喜びで踊っているように思われました」。


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 全く聖められないもう一つの結果は、使徒が言うには、不安定さである。「今から後、教えのあらゆる風に翻弄されるような子供であってはなりません」。ある人がやって来て、ある事を宣べ伝えると、あなたたちは「これは良さそうだ」と言うが、また別の人がやって来て正反対のことを宣べ伝えると、あなたたちはそれを受け入れてしまう。誰でもあなたを翻弄することができる。しかし、あなたが聖霊を受ける時、人々がどのように宣べ伝えようが、すべてはあなたに対して真昼のように明らかになる。この経験をしたことはあるが、それを話す方法が分からない説教者がやって来るかもしれないが、あなたにはその説教者がこの経験をしていることが分かる。私は彼らの数人を山々や開拓地で見つけたが、彼らは自分が聖められていることを知らなかった。しかし、彼らはこの経験をしたことがあり、その名を聞くやいなや、「それこそこれです。いつそれを得たか私は知っています」と言ったのである。神に栄光あれ!

 また、聖められそこなうことの悲惨な結果の一つは、あなたが義の御言葉に熟練しないことである。あなたは剣の柄よりはむしろ刃を掴んでしまい、他者にダメージを与えるよりも自分自身を切ってしまうだろう。この国の至る所に、神の剣に熟練していない説教者たちがいる。ペンテコステほどわれわれに天の知恵を与えてくれるものは何もない。一人の子供が全軍を「打ち倒す」のを私は見た。また私は、スラムから引き出された無知な人々、救われて聖霊のバプテスマを受けた人々が、魂の救いのために神の御手の中で力強い道具として用いられるのを見た。

 それから、愛する人よ、この世といちゃついたり、この世に淫らな視線を送るなら、聖められた状態を維持することはできない。多くの男性は、結婚後愛情表現をし続けなかったため、自分の妻の愛情を失ってしまった。聖霊の好意を大事にして、その好き嫌いを学び、聖霊を喜ばすことを求めないなら、われわれは祝福に満ちた聖霊を失う。聖霊に御自分の道を進んでいただくようにするなら、聖霊は永遠にわれわれと共にいて下さる。聖霊をひとりの御方として、また聖潔の創始者として認めそこなうなら、この聖潔の経験を保つことはできない。この恵みを維持するには、第一に神の御言葉を読むことに、次に、雑誌や新聞よりも聖潔の書物、新聞、聖人の伝記を読むことに注意を払わなければならない。福音の真理を自分の中に詰め込んで溢れ流れるようにせよ。そうすれば、聖霊はそれを十分に用いて下さる。多くの人は、有益な結果を生じるところにお金を注ぎ込むべきなのに、自分の胃袋を一杯にすることや、自分の家を飾ることにお金を注ぎ込んで浪費している。

 「聖く義しく、すべての日々に」。神に感謝せよ!雨の日もあれば曇りの日もある。病の時や、災難の時もある。多くの人々は逆境について不平を鳴らしている。しかし御言葉は言う、「われわれの生涯のすべての日々に」と。状況や環境は関係ないのである。

「セス・リース論説集」 完

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 次に気づいた不幸な結果は、耳が遠くなることである。使徒パウロは言った、「私たちには話すべきことがたくさんありますが、話すのは困難です。あなたたちの耳が遠くなっているからです」。全く聖められそこなうなら、あなたは神の御声に関して混乱することになる。それまで神の御声は明瞭かつ平明だったかもしれないが、悪魔はあなたを混乱・困惑させて、あなたをニュー・イングランドの霧の中に放り込む。雷の音が聞こえる人がいても、それっきりである。「私には御声が分かりません。主だと思う時もあれば、悪魔だと思う時もあります」と言う人もあなたたちの中にいる。あなたたちは自分のペンテコステを受けていない。あなたたちは羊(sheep)ではなく、依然として小羊(lamb)なのである。「私の羊(sheep)は私の声を知っている」。羊は御声を知っているのである、知っているのである!ペンテコステには人の耳を開く効果がある。あなたが耳にする最も甘美な声は、あなたが全く聖められる時に聞く声である。聖められた群衆は、発せられなかった言葉でも聞くことができる。あなたは自分の説教をぶつ切りにして、未完成のままにしておくこともできる。人々がその説教をあなたのために仕上げてくれるからである。聖められた人々は養うのがとても簡単であり、説教するのがとても簡単である。そのため、彼らは決して飽くことを知らないかのようである。

 私が気づいた、この経験を拒む次の結果は、胃が弱くなることである。「私はあなたたちを肉で養いたかったのに、あなたたちは乳しか飲めませんでした。あなたたちは他の人々を教える教師になっていなければならないのに、まだ教えてもらう必要があります」とパウロはこの教会に言った。聖められていない人々の特徴の一つは、彼らが堅い食物に耐えられないことである。彼らには柔らかい食物が必要である。彼らは弱いからである。聖められた人々は真理全体に直面しても決して尻込みしない。こういうわけで彼らはこの純福音を欲するのである。


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