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 聖潔と全き聖めの経験に入らないことによる二、三の聖書的結果に、あなたたちの注意を引くことにする。第一の結果は、罪を犯しては悔い改める習慣、極めて危険な習慣に陥ることである。これを長期間続ける人はごく希である。罪を犯すのは容易だが、悔い改めは困難である。罪を犯して悔い改めることを長期間にわたって続ける人はとても少ない。その結果は、もしあなたが生来の罪から解放されないなら、悔い改めずに罪の中に居続けることである。あなたが夜中にひざまづいて神に赦しを求めても、神は赦して下さらない。あなたが悔い改めない限り、神はお赦しにならない。あなたが悔い改めないのは、罪を犯すのをやめる見込みがないからである。しかし神の御旨は、あなたが聖霊のバプテスマによって救いと全き聖めを受けることにより切り抜けることである。さもなければ、あなたは道中疲れてしまうだろう。

 六歳の小さな少年を初めて学校に送り出したとしよう。二週間後、あなたが「学校はどうだい?」と少年に尋ねると、少年は「好きじゃない」と答える。「どうして好きじゃないんだい?」。「好きじゃないものは好きじゃない」。「でもジョニー、どうして学校が好きじゃないんだい?」。「ええとね」と少年は答える。「先生が二週間の間僕にABCをやらせるんだもん。ABCを習ったのは最初の日で、僕はもうそんなことにはうんざりなんだ」。われわれのすべての諸教会がうんざりしているのも、まさにこれと同じ理由による。説教者たちは教会員たちを初歩的原理にとどめて、乳と水飴を与えているが、教会員たちは何か別のものを求めている。会衆全員がABC、ABCにはうんざりである。また多くの場所で、説教者たち自身もそんなことにはうんざりである。彼らこそ、諸教会が後退した状態にあることを、この国で神に申し開きすべき人々である。

 新聞界を代表するある人が編集しているシカゴ市の主導的新聞の一つは、私がこれまで読んだ中でも最も厳しくシカゴの説教者を批判して、このシカゴの説教者を福音以外のほとんどあらゆる俗事について説教しているとして非難した。そして、この説教者が神に背を向けていることを立証するよう、自分の新聞や他の新聞で率直に告げたのである。不敬虔な新聞が説教壇における罪を非難しなければならない状況にわれわれが至る時、われわれは警戒すべき地点に至っているのである。そして、これに関して最も憂慮すべきは、われわれが警戒していないことである。

 人々は巨人でなければならない時に小人である。サムソンでなければならない時に赤ん坊である。この世に対してへつらい、妥協して、遂には弱々しくなってしまう。進み続けることは可能である。あるいは、巨大な発育過剰の赤ん坊になって座り込み、人々が自分にもっと注意を寄せてくれないからという理由で感情を害することも可能である。こんなめそめそした作り笑いの感傷はまったく聖書の宗教ではないことをわれわれが理解するよう、どうか神がわれわれを助けて下さいますように。聖霊は神のために強者、巨人、秀でた性格、堅固な人を造り上げる。赤ん坊であるべき時に赤ん坊でいることは全く結構なことである。しかし、赤ん坊服よりも大きく成長しないのは悲しいことである。神には巨大な霊的赤ん坊がたくさんいる。この赤ん坊たちはイエス・キリストにあって強者でなければならないのに、ゴム鈴、ブリキのラッパ、ガラガラを持って座り込んでいるのである。


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Pilgrim Holiness Advocate 誌 三四巻―― 一九五四年十二月十八日 ―― 五一号

「主の御前に聖く義しく、われわれの生涯のすべての日々に」(ルカ一・七十五)


 一人の人の魂の救いは、比類しようのない素晴らしいことである。この宇宙にそのようなことは他に何もない。この素晴らしい救いを受ける人にとって、それは常に新しい人生の始まりである。しかし、救いを保つこと、この救いの完全な力の中を歩むことも、同じように重要である。良い始まり方をするのは素晴らしい。しかし、進み続けて立派な最後を飾ることは無限に優っており、いっそう素晴らしいことである。多くの人は旗をはためかせ、帆に風を受けて、明るい希望と壮大な見通しをもって、意気揚々と出発するが、極めて不名誉な敗北を喫する。神に感謝すべきことに、進み続ける道、前進の道、持続する道、彼岸の国の港に安全に到着する道があるのである。

 帆柱は折れ、帆は紐で結ばれ、旗はなくなった状態で、古い曳航船に引かれて港に入ることと、「いくつもの門を疾走してくぐり抜け、小羊の血に洗われて」高らかに入ることとは別の問題である。綱を投げ捨てて、はためくハンカチと友人や愛する者たちの叫び声の真っ只中で出航することと、荒海に遭遇し、荒れ狂う波浪を渡り、嵐をすべて乗り越えて、永遠の安息の港に立派に首尾良く入ることとは別の問題である。神に感謝すべきことに、これは可能である。

 私は老いることを恐れそうになることがよくあった。あまりにも多くの人が後退し、偏屈で不機嫌になり、一緒に暮らすのが難しくなってしまう。しかし、二、三の老聖徒と接触を持つようになって以来、私は勇気づけられている。少し前に私は八十六歳の一人の老人が立ち上がって、「八十六年間、自分は完全な愛の経験の内に保たれてきた」と震えながら告げるのを見た。それから、その老人が十六歳の少年のように会衆の前で飛び跳ねるのを見た時、「年は関係ない」と私は言った。この人は八十六歳なのに大いに活発で、麗しく、力に満ちていた。それで私の心は喜びで跳ね上がり、私は神に感謝した。人生の黄昏時になっても、このクリスチャンの戦いにおいては、われわれをバラ色の、輝かしい、勝利の旅路から引き離すものは何もない。前進するか後退するかである。前に進むか後に進むかである。進み続けるか澱んだ水たまりになるかである。流れる小川になるか、マラリヤを繁殖させるかである。だから私は、現在のことだけでなく、未来と人生の最後にまで至る全行程についても述べている御言葉を選んだ。ハレルヤ!前進し続けて全く聖められない限り、救われた状態を長く維持することは誰にも出来ない。持っているものを維持する唯一の道は、それに加えることである。神の奉仕に成功する唯一の道は、自分に臨むあらゆる光の中を歩み、神が「あなたにはペンテコステが必要であり、これを求めるべきである」と示される時、それを得て、それによって歩むことである。


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 ジェニー・フラー夫人はオベルリン大学の卒業生で、優秀で、鋭く、聡明だった。この土地のどの宣教団体の役員会や講壇も、彼女のおかげで光輝あるものになったにちがいない。だが、彼女は御声を聞き、インドに向けて旅立った。彼女はすぐに立ち上がって向かったのである。彼女はインドで二十年過ごし、その祈りは強力だった。しかし、彼女は日曜学校を一つ受け持っていただけで、生徒の半数は罪人であるだけでなく、他の人々を迷わせようと決意しているように思われた。フラー夫人は助けが必要なことを感じた。彼女は私の愛する弟と、個人的友人である、オハイオ州オベルリンのO. M. ブラウンを知っていた。この愛する弟は二つ以上の宣教団の支援を引き受けており、この弟に彼女は手紙を送ったのだった。この手紙は日曜日の晩に弟に届き、弟はそれを自分の書斎に持って行った。この手紙は十分なものであり、弟は祈ることにした。この神の人は、この六人の遊女が回心するという確信を得るまで、決して祈りを止めなかった。弟が祈り終えたのは土曜日の晩の九時であり、インドでは日曜日の朝九時だった。ちょうどその時、日曜学校の生徒たちが集まった。そして、この六人の少女は一人一人フラー夫人のところに真っすぐ歩いて行き、彼女のことを母と呼んで、「わたしたちは神を欲します」と言って、その朝のその授業で全員回心したのである。この少女たちのうちの四人は現地の説教者の妻になった。

 清純さ以外のあらゆるもので覆われた、小さな、シラミだらけの、汚れた子供を彼女が引き取って、自分の肩マントでその子を包み、自分の家に連れて行って世話するのを見よ。ここで文明と異教、上品さと退廃が邂逅する。彼女を死に導いたのは二十年にわたる過労であった。ああ、十字架の英雄たち、私は彼らの物語を読むのが好きである。彼らについて考えるのが好きである。彼らのために地を祈りで取り巻くのが好きである。

 かの悪名高いイギリス人の強盗であるウッドストックのことを考えてみよ。彼は極めて大胆な犯罪を試みて何物も恐れなかった。神は、ちょうどあなたたちの中の数人を召されたように、彼を召された。彼はアフリカの中心に行った。彼がジャングルを突き抜け、沼を渡り、葡萄の木でできた浮き橋で川を横切るのを見よ。彼は三百マイル徒歩で進んで、自分の駐屯地を一周した。死ぬ時に彼はこう言った。「ああ、落ちて行く私の外套を拾ってくれる人が必要だ」。ここには、私の父と同じように宣べ伝えに召された白髪の人々が確かにいる。父は七十歳になるまで真に救われることはなかった。父は生きながらえて八十八歳になったが、数千の人々と同じように自分のチャンスを失ったのである。

 上品なイギリス人の若者であるジョージ・アトレーは、開拓宣教士としてアフリカに召された。ある日のこと、彼は暴徒に直面した。彼は十発の弾が詰まったウィンチェスター・ライフルを身に付けていた。彼は立ち上がって、暴徒たちをよくよく見回した。そして、「もし自分が彼らを殺せば、私の任務は彼らに殺される以上の損害を被ることになる」と決意して、屠り場に引かれて行く小羊のように進んで行った。彼の遺体が収容された時、彼のライフルも一緒だったが、薬室には弾がすべて詰まっていた。これは現実であって御伽話ではない。

 ある宣教士がかつてパサデナにあるわれわれの家に泊まった。彼女は翌朝早く旅立って、数時間後に亡くなった。私は彼女の部屋に入り、そこで両手を上げて子供のように泣いた。彼女はそこにおらず、亡くなって数時間たっていたが、栄光に輝く麗しい道を後に残した。その栄光が本当に大気に満ちていたので、宣教者がその影響を受けて子供のように泣くほどだったのである。あなたは何かを為したくないだろうか?この状況に目覚めよ。罪の山々が平野に広々と広がっている事実に目覚めよ。この罪の山々は福音の光の閃きを一つも見たことのない人々でことごとく覆われているのである。


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 彼方にいる殉教者たちの大軍団に続くのは、麗しい足をしたこの男女の軍団である。この人々の足は罪の山々を踏みしめて平和の福音を告げ知らせたのである。われわれの武勇伝のどれを見ても、罪の山々に登って救いを告げ知らせた宣教士たちの間に見られる素晴らしい栄誉や勇壮さのようなものが生み出されたためしはない。どの国民も自国の英雄を重んじる。そして、彼らが流血の野から帰還すると、驚くべき情熱が示される。しかし、軍隊生活のどの英雄を見ても、世界を福音化するというこの輝かしい任務を帯びて罪の山々をその足で踏みしめた男女の前では、完全に色あせてしまわざるをえないのである。

 デイビッド・リビングストン、ウィリアム・カーレー、ロバート・モリソン、ガードナー隊長、ジョン・ペイトン、ハニントン司教、他の数千の人々の物語を再び読んでほしい。これらの人々は麗しい栄光の道を造っただけでなく、他のどこにも見られない勇敢な物語を生み出した。もしあなたがこの世か次の世で栄光を探すなら、この偉大な任務の遂行以外のどこにも色あせない栄光は決して見いだせないだろう。ここに真の栄光がある。この世界のこれらの偉大な宣教士たちの数名に会うことを私は熱望しているが、彼らは去って行ってしまった。われわれを凌いで、われわれの遥か先にいる。だから、彼らの輝かしい道を一目でも見るなら、われわれも首尾良くやれるだろう。ここに勇敢な男女たちがいる。彼らは極めて恐ろしい死を遂げることをも喜び、犠牲や苦難がいかなるものでも、決して不平を言わない人々である。私はウィリアム・クリスティーを思い起こす。彼は宣教基地の女性たちが息を飲んで死を覚悟していた間、何も武器を持たずに、白狼の侵略者たちの暴徒らを遠くで引き止めたのである。私はアレキサンダーのことも思い起こす。彼の体は小さかったが、その信仰は偉大であり、その意志の力は強固だった。彼がハランを開こうとした時、彼は石で打たれ、もみくちゃにされ、その船小屋は焼かれて灰になり、役人たちによってその地域から追い出された。転身できるようになるやいなや、彼はその迫害の場所に戻り、迷信と罪のその地域の真っ只中に聖潔の旗を立てた。どうか神がわれわれを目覚めさせて下さいますように。そして、これは辛い仕事であって、真に献身している者だけが成功するという事実を、われわれに垣間見させて下さいますように。

 オームステッド嬢のことを考えてみよ。彼女はバサール大学の卒業生で、英文学を教える能力に秀で、立派な経歴を持っていたが、御声を聞き、それに応じてインドに行った。ある日のこと、彼女が外にいて苦しんでいる人を助けていると、岸辺に投げ捨てられて死にかけているヒンズー教徒のやもめを見つけた。彼女はやもめを自分の家に連れて行き、イエスに導いた。ああ、麗しい足、麗しい道、宣教の傑出した、神々しい、栄光の道よ。二、三時間後、かの恐ろしい流行病であるコレラが、このヒンズーの婦人を捕らえた。オームステッド嬢は危険を知りつつ婦人を看病し、共に祈り、婦人が亡くなった時、キリスト教の葬儀を行った。バサール大学出身のこの教養ある女性が新しく造られた墓に打ち伏すのを見よ。会葬者は彼女だけであり、その後、彼女は自分の小さな家に戻った。二、三時間後、彼女は病んで亡くなり、見知らぬ者たちの手により異邦の地に葬られた。われわれはここに座して、親指をグルグル回しながら無為な時間を過ごしている。どうか偉大な神が今日われわれを助けて下さいますように!


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伝道説教(要請により再掲)
Pilgrim Holiness Advocate 誌 三四巻―― 一九五四年十一月二十日 ―― 四七号

「良きおとずれを伝え、平和を告げる者の足は、山の上にあって、なんと麗しいことだろう」(イザヤ五十二・七)


 全く聖められたあたなたちにとって、この偉大な任務は人生をすべて注ぎ込むべき課題である。もし宣教士たちや地の果てまで行く使者たちを生み出さないなら、諸教会や教会の建物を顧みても何になるだろう?宣教士たち、伝道者たち、福音的牧師たちを生み出さないなら、聖書学校や大学を顧みても何になるだろう?世界を福音化することは、われわれの明確な目的、霊的・聖書的な目的である。われわれは政治や改革に召されているのではなく、この史上最大のメッセージを地の果てまで告げることに召されている。まだ伝えられていない人々に伝えるというこの偉大な目的に貢献しないものは、すべて失敗である。われわれの諸教会や学校が言わば完成品を輩出することに失敗する時、あるいは宣教熱の栄光で全く覆われている製品を輩出することに失敗する時、われわれは完全に失敗しているのである。もしわれわれが宣教のために燃えていないなら、あなたやわれわれの誰かが「自分は聖められている」と告白してもそれはまったく馬鹿げたことである。

 平和を告げ、救いを告げる者たちの足は、なんと麗しいことだろう。麗しい足、麗しい道、麗しい試み、麗しい勝利、犠牲的な愛の麗しい模範、なぜなら奉仕の最高の栄光は文句を言わずに犠牲的に献げることだからである。われわれがそこに達することを私は願う。つぶやいたり文句を言わずに苦しんで献げることに優る栄光は何もない。

 あなたはこの御言葉をすでに知っているので、この教訓で言及されている人々はこれについて語り、祈り、歌っただけでなく、実際に出て行ったのであることを、私は時間をかけて強調したりしない。召しを聞いた人々は大勢いるが、後になって不幸せな結婚に召されていると感じて、決して出て行かなかったのである。しなびた生活や砕かれた希望が何と多くあることか。その原因はすべて、人々がこの実効的な面の中に入り込まず、立ち上がって出て行かなかったことである。

 罪の山々の上に立つ人々の麗しい足についてのこの描写では、山々は険しい事柄、厳しい事柄を表すことを彷彿とさせる。しかし、もしわれわれが主のものであり、ただ主だけのものなら、この山々は、たとえそれがどこにあったとしても、われわれの嗣業の一部である。厳しい事柄はわれわれをいっそう高貴な経験に導いてくれる。宣教への関心は常に霊性を強め、霊性は常に宣教への関心を増し加える。この山に登るよう、どうか神がわれわれ全員を助けて下さいますように。


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