クリスチャンが持つべき姿勢

 私たちは贖いの適用と現れについて時代毎に辿ってきました。今、神が私たちに与えて下さったこの素晴らしい啓示の観点から、クリスチャンの持つべき姿勢について考えることにしましょう。

 クリスチャンは、十字架に付けられて復活した勝利の昇天の主と一体化されたことを絶えず認め、主の命に毎瞬しっかりと依り頼まなければなりません。主の贖いの御業の完全さを、主の来臨前に、主が望んでおられるように十分に示すには、そうしなければなりません。

 聖霊なる神は、主が勝利されたように勝利する「小さな群れ」を用意しつつあります。この勝利者たちについて、「彼らは小羊の血と証しの言葉によって勝利した。彼らは死に至るまで自分の命を愛さなかった」(黙示録一二章一一節を見よ)と言えるようにならない限り、キリストは戻ることを望まれないでしょう。

 黙示録二章と三章の、勝利者たちに対する数々の約束に注意して下さい。これらの約束には何らかの意味があります。

 独善的主張は、キリストの来臨を待ち望んでいるクリスチャンに似つかわしくありません。ですから、最初の携挙の時に誰が携え挙げられるのかに関する特定の見解を受け入れるよう、教師は固執してはなりません。おそらく、東洋の収穫期のことや、それに関連した様々な献げ物についてさらに注意深く学ぶなら、今日の多くの先端的理論は大変革されるでしょう。

 考慮すべき主要な問題は、各自用意は整っているのか、昔のエノクのように神と共に歩んでいるのか、ということです。クリスチャンは覚えておかなければなりません。神・人の命はそのからだの各肢体のためであり、瞬間ごとのものなのです。

 クリスチャンは「栄光の中にあるこの人の命」を、ひたすら、絶えず、生かし出さなければなりません。これは辛い張り詰めた生活ではなく、むしろクリスチャンの正常な生活です。私たちは他の人々にこの命を流す経路であり、そうする時、自分も新鮮にされます。

 これは幸いな生活です。なぜなら、自分の必要を悟って、まったく依り頼むからです。その結果、自己の力や自尊心から守られます。

 日々毎瞬、私たちは自分のあらゆる必要のために、彼の豊かさから引き出します。

 絶えず、私たちは歌うことができます――

ひとりの人が栄光の中におられます、
その命は私のためです。
彼は純粋で聖く、
勝利を得ており、自由です。
彼は知恵があって、愛情深く、
優しい方です――
栄光の中にある彼の命が、
私の命でなければなりません。

ひとりの人が栄光の中におられます、
その命は私のためです。
彼はサタンに打ち勝ちました、
束縛から彼は自由です。
命の中で彼は支配しています。
彼は王にふさわしい方です。
栄光の中にある彼の命が、
私の命でなければなりません。

ひとりの人が栄光の中におられます、
その命は私のためです。
彼には何の病もなく、
何の弱さもありません。
彼は強くて活力に満ち、
快活な方です。
栄光の中にある彼の命が、
私の命でなければなりません。

ひとりの人が栄光の中におられます、
その命は私のためです。
彼の平安は不変であり、
彼は忍耐強い。
彼は喜びと輝きに満ち、
見ることを期待しておられる、
栄光の中にある彼の命を、
私が生かし出すのを。



「神の贖いの御計画」完


オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ


聖なる都――小羊の花嫁

 「これは神の都であり、同時に人の都でもある。この都の長さ、幅、高さは文字通り等しい、と読者は一瞬たりとも思ってはならない。これは比喩的表現であり、霊的観念を伝えるものである。(中略)奇妙なことに、この都は人々から建てられているかのように描写されている。この都は群衆なのである。(中略)贖われた人々から建てられているこの都は、万民に開かれているが、神と親しい者だけが中に入れる。この都はまた、花嫁の都でもある。新エルサレムは小羊の花嫁である。そして、妻が夫のものであるように、信仰と愛の聖なる婚姻によって小羊のものでない者たちは、この神の都の中に分け前を持つことは決してないし、持つことを願うことも決してないであろう」(A.T.ピアソン博士の「聖書と霊的批評」から)。

 エペソ人への手紙二章一九~二二節に描写されている「聖なる都」が「生ける石たち」から建てられているように、この栄光の都は贖われて栄化された人々から建てられています。この都に合一だけでなく多様性も見ることができます。文字通りの都の場合、その中にある建物の大きさは均一ではありません。大きいものもあれば、小さいものもあります。この都の場合も、広い住まいもあれば、比較的小さいものもあります。しかし、みな同じように神の栄光にあずかり、最も高価な宝石の光で輝きます――水晶のように透明です。使徒パウロ、ペテロ、ヨハネのことを、多くの聖徒たちと比べて、高層ビルと見なすことができます。また、エノク、エリヤ、他の旧約の聖徒たちのことを、大きな構造物として思い描くこともできます。しかし、この都のどこにも、完全な洗練された調和に欠ける住まいはありません。

 とりわけ、この都は神の住まいです。この学びの開始にあたって、建造物の比喩と親子の比喩という二つの比喩の奇妙な組み合わせが見られるいくつかの節に注意しました。ここでもこの二つの比喩が再び見られますが、完全に解き明かされています。ここでは、世の基が据えられる前から「選ばれていた」都が示されており、「その設計者と建設者は神です」。そしてまた、贖われて栄化された大群衆も示されています。彼らのことを神は御腕に抱いて、栄化された息子たちと呼ぶことができます。「見よ、神の幕屋が人々と共にある。神は彼らの中に住み、彼らは神の民となる」(黙示録二一章三節)。

 そして今、キリストは「自分の魂の苦しみを見て、満足する」ことができます。なぜなら、呪いは取り除かれ、彼に贖われた者たちは御顔を見、その御名(彼の御性質を意味する)がその額に記されていて、永遠に彼に仕えるからです。

 今、私たちは神のパラダイスを見ます。エデンのパラダイスはその予型でした。この神のパラダイスでは、「水晶のように輝く命の水の川が、神と小羊の御座から流れ出て」います。ここにはまた、命の木もあります。エデンの文字通りの木ではなく、文字通りの木が象徴しているものです。もはやケルビムと回る炎の剣で守られていません。カルバリのいけにえが永遠にその道を開いたからです。興味深いことに、ここ(黙示録二二章二、一四節)で使われているギリシャ語は、植物が生長した文字通りの木を意味するのに使われるデンドロン(dendron)ではなく、木から出来ているもの――文字通りには木材や梁――を示すキシロン(xylon)です。同じ言葉がガラテヤ人への手紙三章一三節でも使われており、それゆえ、カルバリの十字架を示唆します。ですから、この節でこの言葉が使われているのはとても意義深いです。なぜなら、これは次の事実を啓示しているからです。すなわち、罪深い人が命の木の実にあずかることは、カルバリの贖いの御業をすべて適用することを意味するのです。言い換えると、これは神の屠られた小羊とその死と復活の中で一体化されることです。「その葉は諸国民の癒しのためであった」という表現は、この幸いな時代に贖いの結果を一般に適用した恩恵について述べたものであり、今日の諸国民を特徴付けている自己中心性、嫉妬、憎しみ、争いがなくなったから現されたのではないでしょうか?

 命の木への生得権は罪により失われました。しかし、自分の衣を小羊の血で洗った者たちは今や、贖いのおかげで、命の木から自由に食べる権利を持ち、こうして門を通って都の中に入ります。門は閉ざされることはありません。招くかのように開かれたままです。これは私たちに次のことを示しています。代々の時代に至るまで、小羊の命にあずかる者は誰でも、カルバリにおけるキリストの贖いの御業を適用することができるのです。


オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ


新しい天と新しい地

 しかし、千年期がどれほど栄光だったとしても、それはキリストの贖いの御業の最終的顕現ではないことがわかります。罪は人類を荒廃させ、被造物である動物や植物に大きな変化をもたらしただけでなく、地球自身にも大きな傷跡を残しました。

 前に、この惑星の混沌とした状態について考えましたが、それはサタンの罪の結果でした。人の罪は、私たちの地球に大きな地形的変化や気象的変化をもたらしたため、神の再構成の御業が再び必要です。私たちはこれを覚えておく必要があります。

 この主題について詳説することは賢明ではないかもしれませんが、それでも、生徒たちの注意をペテロ第二の手紙三章五~一三節に向けてもいいでしょう。この節では、「かつての世界」の水のバプテスマと、今の世界を待ち構えている火のバプテスマとの対比が示されています。

 自然科学の学生ならよく知っているように、この種の大火災を示唆するものには事欠きません。そして、この破局が差し止められているのは、ただ奇跡的介入のおかげであるように思われてきました。しかし、この破局は千年期の後にならない限り起きえないことを、私たちは知っています。その時、神の時が到来して、この地球をあらゆる罪の痕跡から完全に清めます。地球は滅びないことを、詩篇一〇四篇五節、一一九篇九〇節、伝道の書一章四節等の節に見られる神ご自身のお告げから、私たちは知っています。また、この出来事の後にも、地上に諸国民がいることからもわかります。(黙示録二一章二四~二六節を見よ。)

 「いかなる大変動や災害が新たにこの惑星に降りかかったとしても、それはノアの洪水ほど酷いものでないことは確かである。なぜなら、当時、神は契約を結んで言われたからである、『私は人のゆえにもはや再び地を呪わない。私は、このたびしたように、すべての生き物を再び打つことはしない』(創世記八章二一節、二二節)」(シースによる「黙示録講義」より)。

 注記:A.T.ピアソン博士の「誤りなき多くの証拠」の中の「大洪水の理論」に関する記事を生徒が注意深く読むなら、この記述をよりよく理解して評価することができるでしょう。

 諸元素が溶解する(あるいはバラバラになる)この期間の間、神が地上の被造物をどのように顧みて下さるのかはわかりません。しかし、神はそうすることを約束して下さいましたし、そうして下さるでしょう。

 黙示録二一章を読むと、新しい(あるいは新しくされた)天と地について記されています。今、神が贖われた子供たちの最終的出現を見ることが許されます。それは書き記された御言葉の最後のページに示されています。

 「聖徒たちとイエスの殉教者たちの血に酔っている」(黙示録一七章五、六節)大淫婦が最初に示された時、それは「バビロン」の性格を啓示するためでした。バビロンの性格とは「神からの組織的離反」です。そしてその次に、バビロンの都が、この組織的離反の完全な終局的顕現として示されました。それと同じように、染みのない衣を着て輝かしい美しさを放つ、小羊の花嫁が最初に示されます。それは、信者の一団の愛と献身的愛情を啓示するためです。今、この「聖なる都」は、その秩序だった究極的出現により、信者たちの一体性を現します。


オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ


キリストとその従者たちによる地上の統治

 呻いている全被造物は、今や、「腐敗の束縛から解放されて、神の子供たちの栄光の自由の中に入ります」。(ローマ人への手紙八章二一節を見よ。)アダムが罪により支配権を失った結果、被造物である動物や植物は言いようのない呻き声を発するようになり、諸世紀を通してその呻き声が聞こえました。しかし今、まったく一変します。なぜなら、最後のアダムとその「子孫」、贖われた多数の人々が、今や全土で支配権を行使するからです。獣たちはもはや互いを餌食とすることはなくなり、イザヤ書一一章六~九節、六五章二五節に描写されているエデンの状態に戻ります。トゲ、イバラ、雑草が地を苦しめることはもはやありません。植物は、正常な青々と茂った美しさと、創造時の豊穣さとを、ふたたび祝います。

 詩人たちが夢見た政治的・経済的・社会的状態、そして、政治家たちや改革者たちが熟考してきた政治的・経済的・社会的状態が、今や実現します。そして、この栄光の千年期により、かつてなかったほど、カルバリにおけるキリストの贖いの御業の成果が現されます。教師は、この幸いな時の理想的な諸々の状態を描写している数々の節に注意を喚起しなければなりません。その時、

「彼の祝福は溢れ流れる、
 呪いの見つかる所を遥かに超えて。」


例えば、イザヤ書一一章四~九節、三五節、六五章二一~二五節、ミカ書四章一~四節。


オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ


大淫婦――小羊の花嫁の対極

 さて、キリストの贖いの御業の顕現に関連して起きる次の出来事に、聖書を学ぶ生徒の注意を向けさせなければなりません。

 この艱難の期間の間、この世は一連の未曾有の災いを通りました。その頂点が小羊の花嫁の対極である大淫婦の破壊でした。バビロンと称されている都の絵図が示されています。バビロンという言葉はバベルから派生したものであり、混乱を意味します。この絵図から、黙示録一七章と一八章に描かれている、サタンのこの世の体系の包括的性格がわかります。

 生徒はこの「バビロン」を文字通りの都と思ってはなりません。そう思うなら、この象徴を理解しそこないます。文字通りの都が示されているのではないことは、いくつかの節により、特に一八章二四節により証明されます。この節を読むと、「彼女の中に、預言者たちと地で殺されたすべての者たちの血が見いだされた」とあります。この句により、この都は再建された文字通りのバビロンを意味する、という考えは排除されます。それに加えて、文字通りのバビロンの都は決して再建されることはない、と神は言われました。(イザヤ書一三章二〇節を見よ。)しかし、この恐るべき予測はバビロン州やバビロニアにはあてはまりません。この州には、バビロン市陥落以降、まったく住人がいませんでしたが、この都の跡地は今日に至るまで残っており、瓦礫の山です。この廃墟に関して、ある著者はこう述べています。「バビロンを襲った破壊以上に徹底的な破壊は想像することができない――その跡地ですら議論の的だったほどである」。著名な学者であるジョン・アーカートは、「預言の不思議さ」という比較的最近の本の中で、バビロンの都の廃墟の現状について数ページ費やしています。この都の現状は、イザヤ書一三章二〇節の預言が文字通り成就したものだというのです。シースはこの悪魔の花嫁―都のことを「神からの組織的離反の集団全体」と述べています。この句は、この節全体を解釈するための鍵を私たちに与えてくれており、聖霊は比喩的・絵図的方法でサタンによって建造される都を示しておられることがわかります。この悪魔の花嫁―都は、神の屠られた小羊に信仰を置くことを意図的に拒んだ人々から成っています。

 小羊の婚宴が天で祝われている間、大淫婦は下界で破滅に直面します。言い換えると、サタンの巨大なこの世の体系は終わりを迎えます。そして今キリストが、栄化された従者たちと共に地に戻って来て、「敵をご自分の足の足台とされます」。そして、すでに存在していたけれでも、それまで目には見えなかった王国を地上で現されます。


オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ

プロフィール
カレンダー
05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
全記事表示リンク
最新記事
検索フォーム
個人のブログに関するリンク集
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

電子書籍
Glorious Secret
ジェシー・ペン-ルイス
「栄光の奥義」


The Cross of Christ
アンドリュー・マーレー
「キリストの十字架」


ランキングサイト
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ

人気ブログランキングへ ブログランキング

ブログのまどランキングへ ブログ王へ

ブログランキング【くつろぐ】

QRコード
QR
カウンター

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ