血と火と煙

 「われ上なる天にふしぎを現わし、大なる地にしるしを示さん。すなわち血あり、火あり、煙あるべし」(使徒二・一九)

 これはペンテコステの聖潔のバプテスマを受けて、預言することに続いての出来事である。この預言は言うまでもなく、預言中の預言であるキリストの再臨である。これが聖霊によって預言されるようになると、血と火と煙のふしぎとしるしが起こるのである。これを配時的に学んでみると、これはいまの時代に起こるもので、この次は二十節の患難時代の出来事となり、また二十一節の大リバイバルが起こって千年王国に入るという段取りである。

 血のしるしは何であるか。これは過越の時のごとく、未信者と信者とを明白に分かつところの血である。血は二つのものを一つにするが、また分かったものである。これによって未信者と信者の間に線が引かれるのである。

 火のしるしは何であるか。これは尋常一様のことではない。「われなにをか望む。すでにこの火の燃えたらんことなり。……しからず、かえって分かたしむ」(ルカ一二・四九、五一)。焼き尽くすところの神は、分ける神である。火をもって答うる神は、少しの汚れをも容赦したまわない。これはすなわちリバイバルの火である。この火は信者間に投ぜられる時には、五十二節と五十三節にあるごとく、親しい間柄でも分かたれる。これは実に恐ろしきことである。

 次は煙である。アラビアの野において、この煙がしばしばモーセを聖別して見えなくした。これは香の煙である。「香の煙聖徒の祈りにそいて、天の使いの手より神の前に昇れり」(黙示録八・四)。この煙はイザヤをして「災いなるかな、われ滅びん」(イザヤ六・四、五)と叫ばしめた一つのものである。われらはこの煙によっていっさいを離れ、祷告に入らねばならぬ。このきよき煙に隠されてしまって、だれにも見えないようにならねばならぬ。

 血の分かち、火の分かち、煙の分かち!本文をかく解釈すべきものであるかいなや、予はおおかたの教えを乞うものであるが、とにかく、血と火、煙の出来事をば、上のふしぎ下のしるしとしてあるから、われらが従来解釈しているようなものでないことがわかる。

 予はこれを平凡の出来事と見ていない。驚天動地の事件と見ている。聖霊のバプテスマはこのことがすでに驚くべき出来事であるが、それに伴ってきたる預言は、悪魔を怒らせることであり、その結果主の血があがめられ、火が高調せられるから騒ぎがいっそう大きくなり、ついに祈祷三昧にはいる聖徒が起こるようになるのである。これがすなわち一種の雲隠れとなるのである。かくなってくると「かく言える時輝ける雲彼らをおおう。声雲よりいでて言いけるは、こはわが心にかなうわが愛子なり。なんじらこれに聞くべし」(マタイ一七・五)。これに達するならば、主イエスはいっさいであると言うようになる。

 さればわれらを分かちたもう、主に従いつつ、そのなしたもうままにまかせまつるべきである。人間はへたに手を出してはいけない。


「中田重治論説選集」より

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主の再臨と救霊

 この二つは比べて論ずるほどのものではないが、近ごろどちらが肝要であるかと問うだけやぼである。言うまでもなく主の再臨は教会の目的で救霊は使命である。目的と使命とを取り違えるようでは困る。どちらがたいせつであるか問わずともわかることではないか。救霊もたいせつである。しかし主の再臨はこれよりもたいせつである。左に例にしたがい個条書きにするから、祈りつつ読んでもらいたい。

 一、神の国と教会がどちらがたいせつかと言えば、むろん神の国がたいせつである。これは主の御目的であり、また教会は何よりもまずこれを求むべきである。

 二、全世界の民が救われると神の国ができるのではない。人々がみな救われぬうちに主は再来したもうのである。されば人々の状態いかんにかかわらず、主の御再臨を祈るべきである。

 三、されば、主イエスよ来たりたまえと祈ることは、罪人を救いたまえと祈るよりもはるかに重大な祈りであるから、第一になすべきである。

 四、祈祷と伝道とどちらに重点をおくべきかというに、言わずともしれたことで、祈祷は第一でそれに重点をおくべきだ。

 五、祈りばかりをしておれば伝道せずともよいと言う者があるならば、それは祭司の一面のみを見ているので、神の御旨を確かめて人々に警告する人ではない。伝道することが罪であるように言う者があるとすれば、それはいわゆる脱線屋である。聖霊に全く信頼している者は、よく祈る者であるが、そのおさしずのもとに救霊にもあたるべきである。

 六、従来は救霊のための祈りであった。実は祈った結果、救霊となって現われるとなるのがほんとうである。われらは後者をば真の救霊事業と言う。前者は伝道事業を本位とする傾向があるから、主の再臨を待ち望まない。したがって祈りが下火になるのである。

 七、われら主の再臨を待ち望む者をば、主のためにあかしもせず、警告もせずにおる者と見るか。福音使はあちこちにつかわされて、祈りの祭壇を築き、また時々聖別会や聖会を開くのはなんのためであるかを知るならば、そう見る人がないはずである。

 八、祈りのみして伝道せずにおる人と、伝道ばかりしてろくろく祈りもしない人と、どちらに組みするかと予に問う人あらば、予は前者に加担すると答える。できるならば、聖霊に導かれて野に行きたまいし主と、十日間エルサレムの高殿において、祈りばかりしていた弟子たちのごとくなりたいとは予の念願である。

 九、主の再臨を祈る人は神の国を求める人であるから、その一部である天国、すなわち千年王国を待つ者である。されば千年王国の中心的国民であるユダヤ人の回復を祈るようになるのは当然である。伝道は主の花嫁なる教会の完成であると言う人があるが、その完成は主がなしたもうことで、教会がなすべきものではない。教会がおもに求むべきは神の国である。

 十、祷告と警告、祷告は第一のもので、警告は次のものである。近日のうちに主は来たりたもうとすれば、何よりもまず祈祷に身をわたすべきではないか。

 警戒せよ、悪魔のごまかしを。

歩調を整えよ

 わがホ教会は四重の福音という大綱において信仰の統一がとれている。しかし主の再臨が切迫しているので、ばくとした足並みではなく、信仰の歩みがこまかくなってきた。これをホ教会の教役者も信者も知ってもらわねばならぬ。ことばをかえて言えば、力こぶの入れどころ一つにせねばならなくなったと申すのである。

 救われ、きよめられておればいつかは主は再臨したもうではいけない。何ともあれ、主イエスよ、来たりたまえと、主の花嫁なる教会は祈らねばならぬ。この祈りは祈っても祈らなくともという、よいかげんのものではない。あれやこれやとなさねばならぬことがたくさんあるだろうけれども、この祈りは何をさしおいても祈るべき祈りである。この点についてわが教会は、一糸乱れず歩調を整えねばならぬ。

 その祈りは別語で申せば、御国を来たらせたまえと祈ることである。かく祈る人は当然、イスラエルの回復のために祈るべきである。なぜならばきたるべき天国の中心国民はイスラエルであるからである。これを今日に至るまで多くの教会が祈らずにいた。最後のあかしの教会としてたてられたホ教会に、神はこのことを命じたもうた。ホ教会はよろしくこの点について歩調をそろえるべきである。この祈りについても、てんで勝手な態度をとってはならぬ。これはホ教会の使命である。それに伴って日本民族の使命という問題が起こってくるが、この民族中から選び出されたホーリネス人は、この末の世における最高最大の職分とも言うべき祭司職をおびて祷告に尽くすべきである。「エルサレムのために平安を祈れ」(詩篇一二二・六)と主は命じたもう。それを十分理解しておらぬ人もあるだろう。多くの人は、いわゆる主の祈りの内容がわからんでも祈っているのではないか。聖霊をあがめて祈っているうちに自然とわからせていただける。さればある人々は無理押しするように聞こえるだろうけれども、悪いことを勧めるのではないから、予の言うことを受け入れて、このことにおいても歩調を一つにしていただきたい。

 世間は予を目して、絶対権を行使していると評している。しかり予はホ教会の教役者と信者が予を監督に選挙して、予に支配権をゆだねられたのである。予はこの権を無視するならば、選挙した人々を侮辱する者と心得ているから、教会が統一した行動をとるために、慎重な態度をもってこの権を用いている。予は委員が協議してでっちあげた任命書を読みあげるような、でくの坊であるべきではない。予はどこまでも教会の政治または信仰において一致したる行動をとるよう、聖霊の御導きのもとに「そは彼らはことばをさしいだす者として、なんじらのたましいのために目をさましおればなり」(へブル一三・一七、新契約)とあるごとく努めている。これがためにはまれには強くきびしいことをも言う。これいかにしても歩調を整えて、最後のコースを完全に走って、ともに主の御喜びにあずかりたいからである。これをば軍隊式だ、法王流だと言うか。何とでも言うがよい。もうしばらくのところである。主の御名のためにしんぼうし、むしろ不完全な予のために祈っていただきたい。


「中田重治論説選集」より

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聖潔派の特徴

 日本の聖潔派はたしかに欧米のそれとは種々の点において違っているところがある。だれもかくせねばならぬと初めより仕組んだ結果ではなく、聖霊の御指導のもとに白紙で進んできたためであって、実に主の御名を賛美する次第である。これが今後いかように変化して行くかわれらにはわからない。とにかく主の再臨が間近いことであるから、現状が変化するというよりも、いよいよ熱烈になり濃厚になるという意味において、変化することと思われる。すなわちその特色がいよいよ発揮せられるようになることと信ずる。

 もとは新生、聖化、神癒、再臨という教理が特色と思われていた。もちろんいまでもこれを力説する。聖書をばそのまま神のことばとして信じていない他教会の人々にとっては、この四重の福音が特色であるように見えるだろう。しかしわれら自ら特色であると見るところは少しく違っている。その特色の一つは、熱心に祈ることである。祈りならば他教会でもやるではないかと言う人があるだろう。われらのは祈りぶりにおいて他とは違っている。いわゆるご上品な祈りではない。声を限りに叫び祈る。人はこれを気違いじみているという。しかり。甘き葡萄酒に酔わされていると見るもむりからぬことである。われらの祈りはルカ伝十八章にあるやもめの祈りのようなもので、神に対して、直接行動的の祈りである。確かにぶっそうな祈りかたであるに相違ない。ただ口さきでばかりでなく、手や足を用い、からだ全体を用いて祈るのである。「求むる、尋ぬる……たたく」(マタイ七・八)とあるのはこのことである。われらのある者はいつでも祈り死ぬ覚悟をもって祈っている。

 次に祈りの内容が違っていることである。だんだん祈りが引き上げられて主の再臨を切願するようになった。しかもいま来たりたまえと、じかづけに祈るようになった。欧米各国どこを探してもかかる祈りをする者があるまい。これは神が日本の聖徒に命じたもうた特種のものである。それに伴ってユダヤ人の国家回復のために祈るように導かれた。これ実に驚くべきことである。

 かかる次第であるから、近ごろの聖会は、集会のぐあいも賛美歌の歌いぶりまでも変わってきている。昔のように回りくどいことをながながとしゃべるような講演では間尺に合わなくなった。賛美歌も主の再臨に関する歌でなくては、歌っても張り合いがないようになった。なんたる変わりかたであろうか。もし数十年前に聖潔派の会合に出席したことのある人が来て見るならば実に隔世の感があることと思う。常に折衝を保っているわれらさえも、進みかたの早いのには驚嘆しているのである。しかも一般の信者たちがこの火の流れに一致してひたすら祈っているのには敬服の至りである。かく特徴が発揮せられるようになったのは全く聖霊の御指導によることである。

 聖潔派とても人間の集合である。弱点を指摘しようとすればいくらもあろう。しかし積極的に祈りに集中するならば、主は必ず欠点を補ってくださることと信じている。

再臨を祈らぬ教会

 聖書を信じまた使徒信経を信条として信じている教会であるならば、主の再臨を信ぜぬわけにはいくまい。しかしこれを信じているばかりで、それを祈り求めぬならば、黙示録二二章にある「主イエスよ、来たりたまえ」と祈りえぬ教会は教会という名があっても、花嫁たる教会ということはできない。世の教会の大多数はこの種の教会である。そのおもなるものは天主教会である。もちろん主の祈りを唱える教会がある。しかしはたして心の底から御国をきたらせたまえと祈っているかが疑問である。形式的に祈っているのでは、これを祈らぬ教会の部類に属していると申してもよい。

 聖潔派は概して主の再臨を祈る教会と申してもよい。しかし細別すると種々の信仰に区別されている。その一は、主はくるにはくるが、まず福音がすべての人に伝わり、教会すなわち花嫁のよそおいが十分できてからくるというような千年期後再臨説の焼き直しを説いているのもある。これではとても主の再臨を早めたまえと祈ることができない。その二は、主の再臨は主のご都合次第のものであるから、何ほど信者が祈ったとてだめである。むしろなりゆきにまかせておけばよい、という宿命説である。かかることを信ずる人には真剣に祈る迫力がない。されば父なる神はその権内におきたもう時と期をば、信仰よりいずる祈りに答えてどうでもなしうる御方であると信ずることが足りない。その三は、主の再臨を祈ることは祈っておるけれども、これを第一においていないで、ついでに祈るというのもあるが、これをつけたりの祈祷にしている教会がある。われらはかかる教会を目して再臨を祈る教会とは申さない。聖潔派の教会にかかる教会はなかろうか。反省すべきである。第四は、信仰をもって主の再臨を祈ったから、しかも願うところのものをえたりと信じて祈ったから、携挙せられた、主が再臨した、悪魔が底なき穴に投ぜられたと信じてよろしい。もう主よ、来たりたまえと祈らんでもよろしい。感謝し賛美しておればよろしいと、新しい異端を説く者が起こった。これもこの祈祷を否定し、少なくもこの祈りをわきへそらそうとする悪魔の詭計である。これにひっかかっている者が聖潔派の教会内に起こった。これは大いに警戒すべきことである。第五は、主の再臨の信仰はわれらといささかも違ってはいないが、これを祈り求めることをしない教会である。頭では合点している。しかし祈り求めない。われらとは大いに共鳴する。しかしいっしょに祈り求めない。むしろこれを避けている。かかる教会は主を愛し慕う教会ではない。われらはかかる教会と歩調をともにするわけにはいかない。悪魔のいちばんいやがることはこの祈りをすることである。さればなんのかんのと種々の口実を設けて、この祈りをさせぬように努めている。いかにりっぱな理由があるにしても、この祈りをする口を封ぜんとすることはことごとく悪魔来のものとして排除するがよい。この祈りをする数の中には、脱線屋も起こるだろう。口不調法の者も起こるだろう。しかしそのゆえをもってこの最高、最大、最終の祈りをすることを禁ずべきではない。むしろ指導者は適当に指導していくべきである。


「中田重治論説選集」より

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教会式をきらう

 予は三十三年前カウマン兄とともにこの運動を開始したその時から、従来の型を破り聖霊の示すままにやることを知らしめられて、鈍いけれども、その方式で進みつつ、ついに今日に至った。これまでになるには種々の経路をたどってきた。しかしいつもいわゆる教会式という、ありふれたことをうち捨てるにいささかもためらわなかった。それがためにはキリスト教界の横紙破りと思われてきた。いまもそう思われているに相違ない。

 しからば教会式とはなんであるかというに、型にはまって少しも自由のない、火の気もなく、いのちもない形式いっぺんのやりくちをいうのである。説教にも、祈祷にも、儀式にもそれがある。「主の霊のあるところには自由あり」(Ⅱコリント三・一七)とあるけれども、第一聖霊に働いていただく余地を与えず、人間細工でばかりやろうとするから、聖霊は働きたまわない。されば諸教会は千遍一律同じことをくり返しているにすぎない。

 聖潔派は概して聖霊をあがめる団体といわれている。しかしこれもいつとはなしに、欧米を模倣しているので、あまり斬新なところがない。そしていつのまにかいわゆる教会式に捕われて動きがとれぬようになっているのもある。

 予はホ教会の創立者であるが、正直のところ、神が何がためにホ教会を起こしたまいしか、長らくの間諒解しなかった。ただ諸教会のやってきたことを踏襲し、その働きぶりにおいて熱心であればよいくらいに思っていた。もちろん四重の福音という特殊の標題があるけれども、これとてもわが教会独占のものでない。他教会でもやっている。しからば何のためにこの群れが起こされたのか。四年前に起こったリバイバル以来、正直に聖霊の言うところに従ってきたところが、いまになってようやくわからせていただくことになった。実にハレルヤである。

 これは神はこの群れを選んで祭司となし、最後の祷告をなさしめんとしていたもうことである。諸教会は欧米を通じて神学の発達に努力し、あるいは世界教化に熱中するようになった。もちろんこれらは神の摂理のうちに起こったことである。日本のホ教会もそのあとについて、コツコツやっておればよいのであるか。いないな。一つあいている大使命がある。これは、神の祈りを祈るということである。神はかかる祈り手を起こしたもう。いまその時になった。日本のホーリネス人はこぞってこれにあたるべきである。

 この大使命は教会式の目つぶしをやられている人にはわからない。彼らは諸教会なみにやっていればそれで事が足りると思っている。彼らにはビジョンがない。主の再臨が間近いのに気づかない。されば祈祷にも熱がない。主イエスよ来たりたまえとおくびにも出さない。そのくせ賛美歌ではそう歌っている。

入梅訓

 いまは入梅の最中である。どこを見ても湿気が多く、じめじめしてうっとうしい。霖雨とはこの時の雨である。梅はかびに通じ、物にかびが生えるのはこの時節である。これは生命のない器物に生ずるばい菌作用で、生きておりさえすれば梅の実も熟するというけっこうな時節である。信仰にもかびが生えることがありとすれば、これは上よりの生命に満たされていないためである。

×

 梅雨はどうして起こるか。北氷洋の氷がとけてベーリング海峡を通ってくる寒流のために、日本の東海岸に高気圧が起こり、それに南方大陸よりくる低気圧がぶつかるために生ずるものであると科学者は言う。霊界において悪魔来の寒流があるためにどれだけ撹乱せらるるかしれない。この時にたいがいの病人が弱るように、信仰界においても霊病にかかっている人は、大いに悩まされる。思想界の悪気流も北方来のものである。佐野、鍋山などは転向しているとはいうものの、まだ油断ならぬ天候である。

×

 予は日本のある一部で用いる太陰暦に感心している者である。あれは実に日本の気候に適してできている。入梅または土用入りなど、実に符節を合わせるごとくである。「聖書にエホバは月を造りて時をつかさどらせたまえり」(詩篇一〇四・一九)とあるから、できるならば旧暦を用いたいと思うほどである。ここにも西洋かぶれが現われて、不便を忍びつつ、万国なみに太陽暦を用いねばならぬようにせられている。ユダヤ暦はどちらかといえば、太陰暦に類した特殊のものである。もし千年王国時代に暦が用いられるとすれば、太陰暦が用いられることと信ずる。

×

 わが国でも樺太、北海道、概して日本海に面している所、または台湾には入梅がない。神はわが全国を陰鬱な空気をもっておおいたまわない。「ただイスラエルの子孫のおるゴセンの地には雹あらざりき」(出エジプト九・二六)とあるごとく、主に贖われしわれらはかかる期にあっても、主によりて「わが民は平和の家におり、思い煩いなぎ住み家におり、安らかなる休み所におらん」(イザヤ三二・一八)とあるごとく、悪魔来の魔気にかからずにおることができる。

×

 俗に雷が鳴れば梅雨明けだという。信仰界も天来の御声が一度かかる時には、いっさいの雲霧が排除せられて、神の笑顔を見たてまつることができる。かかる時に「その目をあげしにただイエスのほかひとりをも見ざりき」(マタイ一七・八)とあるごとくなる。「人のいまは空に輝く光を見ることあたわず。されど風きたりてこれを吹ききよむ」(ヨブ三七・二一)。この時まで忍びて待つべきである。

×

 梅雨は約三十日もたてば晴れる。しかし主イエスに来ていただくには、漫然と時の経過を待つべきでない。信仰の祈りをして、これを短縮していただくべきである。入梅もからつゆと称して雨の少ない年もある。自然のなりゆきにまかしていても、かかる幸福にあうことがある。いわんや全能の神に祈りて、主に早く来ていただくことができないことがあろうか。されば大いに祈るべきだ。

「中田重治論説選集」より

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キリストを言い表わす霊

 ヨハネ一書四・一~三を見ると、真理と迷いの霊の区別を示している。ここにはイエス・キリストを言い表わさざる霊は、キリストに敵する者(すなわちにせキリスト)の霊であるとしてある。

 キリスト教会であるならば、みなキリストをあがめているかと言えば、実際はそうではなく、人間と人間のわざがあがめられていてキリストが隠されている。これでは看板に偽りがあると見ねばならない。いかに盛んな教会であっても、キリストがあがめられなければ、サタンの会と同じである。このキリストを偶像として拝んでいる天主教のごとき、また一個の人間として見ている近世主義者のごときは、みなにせキリストの亜流である。

 キリストのお弟子たちは、ペンテコステの時に聖霊に満たされた。これは「地の果てまでわが証人となるべし」(使徒一・八)との御命令を実行するためには、ぜひとも起こらねばならぬことであった。キリストの証人でほかの証人ではない。学者や金持ちや英雄豪傑の証しをするのではない。万人の救い主なるキリストのために証人となるのである。キリスト信者は個人としても教会としても、この証しをしておらねば全くゼロである。これがためには過去のキリストのみならず、現在生きていたもうキリストの証しをたてねばならぬ。聖霊がこれがためにいまも働きいたもうのである。

 「その来たる時にわがために証しをなすべし」(ヨハネ一五・二六)とあるごとく、ペンテコステの時に弟子たちはみな上よりの火を受けて、かかる者にせられた。しかり、火によらねば真の証しができるものではない。キリスト論を神学的にうまく論証しても、火がなければその論には生命がない。弟子たちはキリストの話を聞いた。そのよみがえりをも昇天をも実見した。しかし、それだけでは不十分であった。どうしても火を受けねばならなくなった。今日死せる正統派といわゆる神学者がいくらあっても、リバイバルが起こらないのは火がないからである。すなわちキリストを言い表わす霊がうちに燃えていないからである。

 なお進んで証しをせねばならないことは来たらんとするキリストに関することである。「イエス・キリストの肉体となりて来たりたもうことを言い表わさず、このまどいに誘う者はすなわちキリストの敵なればなり」(Ⅱヨハネ七)。真にキリストを証しする者は再臨のキリストをも証しせねばならない。聖霊をあがめてその言いたもうごとく従う者は、早晩ここに達せねばならぬ。これに反対する者はにせキリストの霊にとりつかわれている者と言わざるをえない。また「御霊と花嫁と言う、来たれ」(黙示録二二・一七)とある真の意味を悟るなれば、聖霊の内住と花嫁なる真の教会についている者は「主イエスよ、来たりたまえ」(同二二・二〇)と祈るようになるのは当然のことである。

 きたる四日はペンテコステの日に相当する。こいねがわくばこの日において、キリストを言い表わす霊に十分満たされていただきたい。同時に、キリストの前の煙幕のごときものはことごとく捨ててしまう覚悟で、個人にも教会にも大掃除を行なうべきである。「人聖霊に感ぜざればイエスを主と言うあたわず」(Ⅰコリント一二・三)とあるから、いよいよ聖霊に満たされるようにすべきである。

諸教会の憂慮

 「ここに言わざるほかのことありて、日々われに迫る。すなわちすべての教会のおもんばかりなり。たれか弱りてわれ弱らざらんや。たれかつまずきてわが心熱せざらんや」(Ⅱコリント一一・二八、二九)

 感じの鈍い予も聖霊の御訓導のもとに、諸教会のおもんばかりなるものが何であるかを、いくぶん悟りえるようになったことは感謝である。

 諸教会とは他の教派のことではない。さしあたり予の関係している数百の教会である。予は幾度か申したように、いまのままにて進み行くなればけっして他教会におくれをとることはないと信じている。これは従来の進歩率から割り出してのことである。これを予のじまんという人があるなら、しばらく傍観してことのなりゆきを見ていただきたい。

 予の気にかかっていることはそんなことではない。わが教会員が再臨の主の前に幾パーセント立ちうるかということである。これを思う時には夜中にも目ざめて祈るように導かれる。どうしたなら世間なみの聖徒を造り出せるかでなく、どうしたら主の花嫁の群れに加わる者が起こるかということである。その指導の任にあたっている教役者のことを思う時にはなんとも言えぬ痛苦を感ずる。問題はその人々の生活に関することではない。心霊上の問題である。

 わが教会の教役者は概して年若で、無経験で聖書につける知識も乏しい。「なんじ年若きをもて人に軽んぜらるるなかれ」(Ⅰテモテ四・一二)と奨励はしておるけれども、何か誘惑に陥りはせぬかと心もとなく思う。その下におる青年男女の信者間にまちがいがないように日夜祈らせられる。牧会上についてもとっぴょうしもないことをして世間に笑わせられぬかと上よりの知恵を与えたまえと祈らざるをえない。老練の教役者のためには、なんとかして聖霊の新しき御導きのもとに、陣容を新たにしてもらいたいと願うことが切実である。わが教会も古色蒼然たる状態になって少しの新鮮味もなくなりはせぬかと、自分が古株でありながらそれを心配する。経験なるものは偶像になりやすいものである。知識なるものは人を誇らしめる。少し成功するととかくおさまりたがる。これは進歩が止まった証拠である。かかる人の下に牧せられる教会はどこも進歩が鈍い。

 主はいま諸教会をあげて祷告に熱中せしめいたもう。この流れを知らずに相変わらず旧式を墨守しているならば、主がこの末の世においてホ教会を選びたまえる御主意を没却してしまう恐れがある。それでは主に対してはまことに相すまない。彼を待つ人のごとくしていない教会は、いきいきしていないのみではなく、へたをすると携挙の恵みにあずかりえないようになるかもしれない。それでは多年の尽力と祈祷が水泡に帰することになる。これを思って寝ても起きてもいられない。祷告また祷告、警告また警告と、聖霊をあがめて最善を尽くさねばならない。

 予はこの苦痛をいくぶんにても分担する身とせられたことを感謝する。予はわが同労者にこれをいくぶんにても分担して軽くしてくれとは言わない。ただお互いにそれを自覚して自ら進んで積極的に教会のために苦しむ者となってほしいものである。

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