こうしてロトはアブラハムから分離されました。何が起きたのでしょう?それまでずっと制限の原因だったこの血縁関係はこれで終わったのでしょうか?そのように見えます。これが起きるその日、天然的影響が断ち切られるその日、神が新たな命の領域と共にやって来られます。この原則は本当です。神の御前で真に繁栄や成功をすべて手放す地点、人々が重んじるキリスト教的働きやキリスト教的務めさえもすべて手放す地点に達することができた時、それは前進し続けている印です。クリスチャンたちの間で得られる絶好の機会や大きな利益を手放して、「全く構いません。主はご存じです。与えるにせよ、差し控えるにせよ、それは主が決めることです。私はそのような賞を求めません。そのようなものが神と共なる私の歩みに影響を及ぼすのを私は許しません。野心によって私の道が決まることはありません」と言えることは成長の確かなしるしです。それはこの地上ではあまり大したものに思われないかもしれません。広く開かれた扉とか、そのような類のものには思われないかもしれません。しかしどういうわけか、そこに命があることが分かります。霊的影響力があることが分かります。何か大事なものがあることが分かります。最終的に、それは大事なものになります。しかしこれは時として、まず第一に、野心とのこの戦いを必然的に伴います。この戦いでは、こうした示唆や影響をすべて下ろさなければなりません。こうして私たちは、命の道はたとえすべてを犠牲にしても神と共に進み続けることであることを理解する地点に達します。命の御霊の法則はこのような方法で働きます。


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キリスト教の本質である霊的性質

 さて、皆さんご存じのように、このガラテヤ人への手紙には、パウロの凄まじい戦いが記されています。そうです、パウロはこの手紙の執筆に取りかかった時、戦おうとしていたのです。パウロが記した文書の中で、この手紙に記されていることほど激しいものはありません。しかし、何に対する戦いだったのでしょう?一体何についての戦いだったのでしょう?もちろん、この問いに対する神学的・教理的答えもいくつかあります。しかし、この手紙そのものや新約聖書の他の箇所からの多くの証拠があるので、「このパウロの戦いは完全に、キリスト教の本質である霊的性格と関係していた」と言うことができるでしょう。本物のキリスト教であるキリスト教は、本質的に霊的なものなのです。この戦いはこれに関するものでした。どの文脈からも明らかにわかるように、十字架は霊的立場に、霊的状況に導きます。

 この大いなる敵は、ユダヤ主義者という非常に有用な道具を用いて、キリスト教を霊的なものではないものにするために戦っていました。教会を霊的立場以外の立場にもたらそうとしていたのです。ですから敵は、その時からずっと、キリスト教を儀式や祭典の問題――儀式、形式主義、地的で一時的な象徴、肖像、絵図など――にしようとしてきましたし、それに失敗すると、キリスト教を「神秘主義」という御大層な名前の誤った霊性で置き換えようとしてきました。これがサタンの狙いでした。そして、この問題には現実的意味があることをパウロは見抜いたのです。その現実的意味とはキリスト教の本質的性質でした。パウロはこの問題を諦めませんでした。なぜなら、この問題に関して彼には膨大な経験があったからです。それゆえ、彼は持てる力の限りを尽くして、この問題に対して戦闘態勢を取りました。それは、キリスト教は断じて地的組織ではないこと――キリスト教は天的生活であること――を完全に明らかにするためでした。キリスト教は本質的に御霊による生活であり、十字架の目的はそのような生活を生み出すことです。もし十字架がそのような生活を生み出さないなら、当人たちの中に何か原因があります。それは、キリスト教の性質が一変してしまったこと、そして十字架の意義が覆されてしまったことを意味します。

 ですから、パウロは十字架のあらゆる力を用いて、敵のこの巧妙な動きに向かって突進し、手に握れる限りの武器を持ち込みます。こうした武器とは何でしょう?


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キリストの高揚と立証

 しかし、ここで少しの間戻って、二つの点を考えなければなりません。この時点で、「主の御腕は誰に現されるのか?」という疑問が生じます。この章の残りの部分は、この問いに対する答えです。主のこの御腕は現状に介入する神であり、技能、力、知恵、能力をもって介入し、状況を取り扱い片づけます。十字架はこの全体的状態に対抗して介入する主の御腕である、とこの章は述べています。主の御腕はこの状況に対抗するものなのです。これが最初の点です。

 しかし、それ以上のものがあります。主の御腕は、ある新しい状態、あるはっきりと規定された目的のために介入します。その目的とは、イエス・キリストの高揚と立証以下の何ものでもありません。これが二番目の点です。主の御腕はこのためです。しかし、彼の高揚と立証には、十字架がこの状況を片づけることが必要です。もちろん、新約はこれに集約されます。イエスが高く上げられ、立証されたのは、カルバリで状況が片づいたからです。キリストの高揚と立証は力と子孫によることに注意して下さい。この二つがこの区分を結び合わせました。最初に(五十二章十三節)、「私のしもべは高められ、上げられ、非常に高くなる」とあります。次に、この区分の終わりには(五十三章十、十一節)、「彼は自分の子孫を見る。(中略)彼は自分の魂の苦しみを見る」とあります。力をもって「非常に高く」上げられます。子孫は「自分の子孫」――言い換えると、彼の教会――です。

 さて、これはこの問題を私たちにとって非常に身近なものにします。なぜならこれは、キリストの高揚とキリストの立証のために関心を持つべきことを、私たちにまず要求するからです。これが提起されている問題です。各々、「自分は主イエスの高揚と立証のために、どれだけ個人的に本当に関心を持っているのだろう?」と自問しましょう。私的な会話で個人的にこう尋ねられたら、あなたはきっと、「私はそれについて非常に重大な関心を持っています。彼の高揚と立証こそ私の最大の願いであり、何よりもそのために働きたいのです。私たちの人生と働きの目的として、これよりも偉大なものがあるでしょうか?」と言うでしょう。あなたはそう言うにちがいありません。しかし、私たちの関心の証拠となるもの、私たちの関心の大きさを測るものは、十字架を受け入れる覚悟がどれだけあるかであることに、私たちは気づいているでしょうか?十字架の道以外に、主イエスの高揚と立証に至る道はありません。自分が本当に関心を持っているのかどうか、またどれだけ関心を持っているのかは、主にとって不名誉な状況をすべて片づける十字架の働きを、どれだけ自分自身に受け入れる覚悟があるのかによってわかるのです。


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CharlesPrice_1.jpg

1923年にカナダのアルバータ州エドモントンで開催された集会の光景。
約12,000人が出席した。
人々は中に入る道を見つけるために屋根に登って窓を破った。
そして、損害を賠償するために金を投げ落とした。
チャールズ・プライスの教えを聞くためである。


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 自分の部屋にいた時、この講壇に来る前、私は天からの声を聞いた。この野外集会では「取るべき地は、なお多く残っている」ことが分かった。誰かが取るべき地を取らなければならない。誰かがそのようにテントを張らなければならない。主の来臨が遅れているのは、良き地がまだ占領されていないからである。いくつもの世代が次々と地上を席巻してきた。立ち上がって良き地を取る世代を見いだせるまで、神は待っておられる。その世代がわれわれだとしたらどうだろう。素晴らしすぎてありえないように思われるが、これに優るものはない。私は信じる。もしこのことで神がご自分の道を進むことができるなら、まさにこの運動はこの今の時代を遂には完結させるであろう。小羊の婚宴の席をすべて埋めなければならない。まもなく最後の席が埋まるだろう。その時、われわれの主は立ち上がって腰に帯をし、われわれは空中で主と会って、小羊の婚宴の間に入るだろう。私はそこにいなければならない。

 良き地の中にいなければ、立ち上がってそれを取ることはできないし、完全に救われていなければ、その中に入ることはできない。最初から始めなければならない人が大勢いる。私の前には大勢の人々がいる。その人々は、聖化の漸進的な面に注意を払っていれば、今いる所からもう何年も進んでいたであろう人々である。彼らは野外集会のたびに問題解決のために駆け込む代わりに、神のために宣べ伝え、歌い、叫んでいたであろう。おそらく、この世界の反対側で。今朝私が願っているのは、あなたたちが下って行って何かを獲得し、あなたたちがもはや再び祭壇に行く必要がなくなることである。私は願う。あなたたちが何かを獲得して、たとえガブリエルが下って来てあなたたちに宣べ伝えたとしても、戻って行って「私はこの人々を祭壇にもたらせませんでした」と言うようになることを。われわれは進んで行って良き地を占領し、聖霊と共に歩み続けるだろうか?とても特異な状況や奇妙な環境の下で、あなたは泉から飲まなければならなくなるかもしれないが、神に感謝すべきことに、神はあなたと共にいて下さる。主は私の魂の中に鉄柱を据えて下さったかのように私は感じる。これは素晴らしいことである!あなたが神と歩調を合わせているとき、そして、あなたが辛い目や厳しい目に遭うのを神が御覧になるとき、神は鉄の肋材を入れて下さる。神に栄光あれ!私は飛び跳ねたい。聖徒が前進するとき、神の民が聖霊の導きの下で力を合わせて努力するとき、この地球は地震の衝動を感じるようになる。大きな試練や難局の下にあってもあなたが神にあって喜んでいるのを罪人が見る時、そのような時にあなたが目に見えない泉で飲んでいるのを罪人が見る時、その時、罪人は「自分も一口飲みたい」と求めるであろう。「これこそ自分が求める宗教だ」と言うであろう。そのような時にわれわれが飲まないなら、神は注視しておられ、罪人も注視している。難局にあって歌い、輝き、叫ばないなら、それはわれわれの王とその王国――われわれはその代表者であると言っている――の権益に反することである。ああ、良き地を取ることができるよう、今朝どうか神がわれわれを助けて下さいますように!私は次の山頂を目指している。新たな領域を見ることを期待している。私はあまり目立つ存在には思われていないが、宙返りをしなければならないならそうするだろう。聖霊によるものは何事も、常に秩序立っている。あなたは新しい光を得ただろうか?今朝、あなたは自分の体のために神に依り頼むことができただろうか?私は信じているが、ここにいる人々の中には、下にあるものを手放して上方に達し、決して失せることのないものをさらにしっかりと捉える人々がいるだろう。この世は過ぎ去る。それはなくなる。決して燃え尽きないものをわれわれは得なければならない。立ち上がって前進しようではないか。高みや深みを見ようではないか。われわれはどのみちこの世の屑である。教会はわれわれにとても耐えられない。われわれは救いに何が含まれているのかを見るほうがよい。あなたは自分が良き地の中にいないことを分かっていながら、立ち上がって徒渉するつもりがないのか?失敗は許されない。批判してはならない。質問してはならない。立ち上がって前進せよ。自分のことを話すな。自分が諦めきっていることや自分のしていることを主に告げるのではなく、主はいかに愛すべき方であり自分はいかに愚かだったかを主に告げよ。自分がいかにのろまで愚かだったかを主に告げよ。祭壇に行って、自分がどれほど主に明け渡してきたかを主に告げてはならない。手がそれで一杯なことを主はいずれにせよご存じだし、私もあなたが明け渡したものについてさんざん聞いている。そういう話はうんざりである。あなたが神、その豊富、その積極性、その忠実さについてもっと話すのを私は聞きたい。「神はそれを行うことを私以上に望んでおられる」とあなたが言うのを私は聞きたいのである。


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