御言葉:「私はあなたのことを耳で聞いていましたが、今は私の目であなたを拝見しています。それゆえ、私は自分自身を忌み嫌います。」ヨブ四二・五~六

 ある人はヨブ記のことを「内なる生活の叙事詩」と称してきた。これは極めて妥当である。われわれはみな、内なる生活があることを知っている。われわれの存在の境界の内側、あらゆる活動や外観の背後で、われわれは生きている。そこで現実の生活がなされていることを、われわれ全員が知っている。そこではわれわれは孤独であること、そこではすべての人が隠遁者であることを、われわれ全員が知っている。

 これが真実であることに議論の余地はない一方で、別の意味において、この奇妙な内なる生活は非常に人気がある。情熱、願望、誘惑、身の毛のよだつような悪魔的考え、天使的考え、祈り、崇拝、卑しい自己中心性、戦いと嘆願、この混沌の中に信仰は神の性質、復活したキリストの命、聖霊の内住の途方もない平安と力と喜びをもたらす。われわれが永遠の命を受けた時、われわれは内なる生活の新たな歴史の第一章を記したにすぎないことを、われわれ全員が知っている。

 新たない戦い、新たな勝利、ああ!新たな敗北もあるのである。

 あなたが知っているごくありふれたクリスチャンでも、その存在の奥まった所で、一つの叙事詩を書いているのである。

 そして、この内なる生活は、最終的に、外側の生活の源であり泉であることを、われわれは知っている。もちろん、数年の間、これらのものを異なるものに保つことは可能である。しかし遅かれ早かれ、内なる生活が外側の生活の決定要因となる。それゆえ、この生活に神は最も関心を持っておられる。それは福音の経綸の決定的特徴である。

 「今や斧が木の根元に置かれている」と先駆者ヨハネは言う。「木を良くせよ、そうすればその実も良くなる」と、キリストはほとんど開口一番語られた。確かに、これは常にそうだった。「見よ、あなたは真実を内なる諸部分に求めておられます」。「主は心をおもんばかる」。

 出発点として、ヨブ記の最後の章の五節と六節を取り上げるのが最善だと思う。

 「私はあなたのことを耳で聞いていましたが、今は私の目であなたを拝見しています。それゆえ、私は自分自身を忌み嫌い、塵と灰の中で悔い改めます。」

 これは悩む族長の転機である。


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 こうしてロトはアブラハムから分離されました。何が起きたのでしょう?それまでずっと制限の原因だったこの血縁関係はこれで終わったのでしょうか?そのように見えます。これが起きるその日、天然的影響が断ち切られるその日、神が新たな命の領域と共にやって来られます。この原則は本当です。神の御前で真に繁栄や成功をすべて手放す地点、人々が重んじるキリスト教的働きやキリスト教的務めさえもすべて手放す地点に達することができた時、それは前進し続けている印です。クリスチャンたちの間で得られる絶好の機会や大きな利益を手放して、「全く構いません。主はご存じです。与えるにせよ、差し控えるにせよ、それは主が決めることです。私はそのような賞を求めません。そのようなものが神と共なる私の歩みに影響を及ぼすのを私は許しません。野心によって私の道が決まることはありません」と言えることは成長の確かなしるしです。それはこの地上ではあまり大したものに思われないかもしれません。広く開かれた扉とか、そのような類のものには思われないかもしれません。しかしどういうわけか、そこに命があることが分かります。霊的影響力があることが分かります。何か大事なものがあることが分かります。最終的に、それは大事なものになります。しかしこれは時として、まず第一に、野心とのこの戦いを必然的に伴います。この戦いでは、こうした示唆や影響をすべて下ろさなければなりません。こうして私たちは、命の道はたとえすべてを犠牲にしても神と共に進み続けることであることを理解する地点に達します。命の御霊の法則はこのような方法で働きます。


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キリスト教の本質である霊的性質

 さて、皆さんご存じのように、このガラテヤ人への手紙には、パウロの凄まじい戦いが記されています。そうです、パウロはこの手紙の執筆に取りかかった時、戦おうとしていたのです。パウロが記した文書の中で、この手紙に記されていることほど激しいものはありません。しかし、何に対する戦いだったのでしょう?一体何についての戦いだったのでしょう?もちろん、この問いに対する神学的・教理的答えもいくつかあります。しかし、この手紙そのものや新約聖書の他の箇所からの多くの証拠があるので、「このパウロの戦いは完全に、キリスト教の本質である霊的性格と関係していた」と言うことができるでしょう。本物のキリスト教であるキリスト教は、本質的に霊的なものなのです。この戦いはこれに関するものでした。どの文脈からも明らかにわかるように、十字架は霊的立場に、霊的状況に導きます。

 この大いなる敵は、ユダヤ主義者という非常に有用な道具を用いて、キリスト教を霊的なものではないものにするために戦っていました。教会を霊的立場以外の立場にもたらそうとしていたのです。ですから敵は、その時からずっと、キリスト教を儀式や祭典の問題――儀式、形式主義、地的で一時的な象徴、肖像、絵図など――にしようとしてきましたし、それに失敗すると、キリスト教を「神秘主義」という御大層な名前の誤った霊性で置き換えようとしてきました。これがサタンの狙いでした。そして、この問題には現実的意味があることをパウロは見抜いたのです。その現実的意味とはキリスト教の本質的性質でした。パウロはこの問題を諦めませんでした。なぜなら、この問題に関して彼には膨大な経験があったからです。それゆえ、彼は持てる力の限りを尽くして、この問題に対して戦闘態勢を取りました。それは、キリスト教は断じて地的組織ではないこと――キリスト教は天的生活であること――を完全に明らかにするためでした。キリスト教は本質的に御霊による生活であり、十字架の目的はそのような生活を生み出すことです。もし十字架がそのような生活を生み出さないなら、当人たちの中に何か原因があります。それは、キリスト教の性質が一変してしまったこと、そして十字架の意義が覆されてしまったことを意味します。

 ですから、パウロは十字架のあらゆる力を用いて、敵のこの巧妙な動きに向かって突進し、手に握れる限りの武器を持ち込みます。こうした武器とは何でしょう?


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キリストの高揚と立証

 しかし、ここで少しの間戻って、二つの点を考えなければなりません。この時点で、「主の御腕は誰に現されるのか?」という疑問が生じます。この章の残りの部分は、この問いに対する答えです。主のこの御腕は現状に介入する神であり、技能、力、知恵、能力をもって介入し、状況を取り扱い片づけます。十字架はこの全体的状態に対抗して介入する主の御腕である、とこの章は述べています。主の御腕はこの状況に対抗するものなのです。これが最初の点です。

 しかし、それ以上のものがあります。主の御腕は、ある新しい状態、あるはっきりと規定された目的のために介入します。その目的とは、イエス・キリストの高揚と立証以下の何ものでもありません。これが二番目の点です。主の御腕はこのためです。しかし、彼の高揚と立証には、十字架がこの状況を片づけることが必要です。もちろん、新約はこれに集約されます。イエスが高く上げられ、立証されたのは、カルバリで状況が片づいたからです。キリストの高揚と立証は力と子孫によることに注意して下さい。この二つがこの区分を結び合わせました。最初に(五十二章十三節)、「私のしもべは高められ、上げられ、非常に高くなる」とあります。次に、この区分の終わりには(五十三章十、十一節)、「彼は自分の子孫を見る。(中略)彼は自分の魂の苦しみを見る」とあります。力をもって「非常に高く」上げられます。子孫は「自分の子孫」――言い換えると、彼の教会――です。

 さて、これはこの問題を私たちにとって非常に身近なものにします。なぜならこれは、キリストの高揚とキリストの立証のために関心を持つべきことを、私たちにまず要求するからです。これが提起されている問題です。各々、「自分は主イエスの高揚と立証のために、どれだけ個人的に本当に関心を持っているのだろう?」と自問しましょう。私的な会話で個人的にこう尋ねられたら、あなたはきっと、「私はそれについて非常に重大な関心を持っています。彼の高揚と立証こそ私の最大の願いであり、何よりもそのために働きたいのです。私たちの人生と働きの目的として、これよりも偉大なものがあるでしょうか?」と言うでしょう。あなたはそう言うにちがいありません。しかし、私たちの関心の証拠となるもの、私たちの関心の大きさを測るものは、十字架を受け入れる覚悟がどれだけあるかであることに、私たちは気づいているでしょうか?十字架の道以外に、主イエスの高揚と立証に至る道はありません。自分が本当に関心を持っているのかどうか、またどれだけ関心を持っているのかは、主にとって不名誉な状況をすべて片づける十字架の働きを、どれだけ自分自身に受け入れる覚悟があるのかによってわかるのです。


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CharlesPrice_1.jpg

1923年にカナダのアルバータ州エドモントンで開催された集会の光景。
約12,000人が出席した。
人々は中に入る道を見つけるために屋根に登って窓を破った。
そして、損害を賠償するために金を投げ落とした。
チャールズ・プライスの教えを聞くためである。


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