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 さらに、私たちはここに真の祈りの霊を見ます。それは私たちの内におられるキリストの霊です。「教会のただ中で、私はあなたに賛美を歌います」。キリストはなおも、信頼している人の心の中で、この賛美を歌っておられます。そして、私たちの祈りを勝利の歌に引き上げて下さいます。これが真の祈りの霊です。パウロとシラスがピリピの牢獄で祈りを賛美に、夜を昼に、悲しみの夜を喜びの朝に転じたように、信仰の霊である方が私たちの内におられる時、この方は賛美の霊にもなって下さいます。

 しかしまた、これは試みの時に私たちを慰めてくれます。私たちの兄弟は、私たちが担うものをすべて担って下さっています。そして、彼はそれにもちこたえられるのですから、私たちも必ずもちこたえられます。彼の御父は、愛する御子が不要な痛みを受けることを許されません。ですから、私たちが担うよう召されることには必ず、その「必要性」があることは確かです。くびきのもう一方の端をキリストが担って下さっているのですから、その重荷は正当なものであること、そしてその重荷に押しつぶされてはならないことがわかります。ですから、私たちはキリストの苦しみにあずかる者たちであることを喜びましょう。それは、「彼の栄光が現される時、私たちもまた大いに喜ぶためです」。

 最後に、私たちの不完全な経験や不完全な勝利の実現のただ中でも、これから慰めを受けましょう。「万物が彼の下にあるのを、私たちはまだ見ていません」。これは私たち全員に何とあてはまることでしょう!私たちよりも強いように思われるものが何とたくさんあることか。しかし、御名はほむべきかな!それらのものはみな彼に服従しています。そして、万物の上に君臨しておられるイエスを私たちは見ています。イエスは私たちのかしら、私たちの代表、私たちのもうひとりの自分であり、イエスがおられるところに私たちも必ず到達します。ですから、神が約束して下さっているものや、私たちが経験することを求めているものが、何一つ見えなくても、上を見上げて、それが彼にあって実現されているのを見ようではありませんか。そして、それを自分自身のために彼の中に求めようではありませんか。私たちの側は半円にすぎず、天の側はすでに完全です。私たちが見ている虹には上半分がありませんが、いつの日か、御座を完全に取り巻く虹となり、今は成就されていない私たちのいのちのもう片側の半球を補ってくれるでしょう。ですから信仰によって、私たちの嗣業全体の中に入ろうではありませんか。私たちの目を上げて北と南、東と西を見て、「あなたが見ている土地を私はすべて彼らに与える」と彼が仰せられるのを聞こうではありませんか。この円は完全であり、嗣業は無限であり、万物は彼の足の下に置かれているのを思い出そうではありませんか。私たちは「これは真実である」と余す所なく認めているでしょうか?それとも、それを認めずに、その豊かさを失っているのでしょうか?今後、「万物の主である方に栄冠を帰し」、万物を彼の足の下に置きましょう。そして彼と歩調を合わせて、これまで長く恐れてきた困難や逆境を足の下にしましょう。今から後、彼の昇天の戦車に乗って進み行き、昇りながら「神に感謝します。神は私たちの主イエス・キリストにより、私たちを常に勝利のうちに導いて下さいます」と歌いましょう。


「キリスト生活」 完


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なぜなら、聖別する方と聖別される者たちは、みなひとりの方からでているからです。それゆえ、彼は彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされません。(ヘブル人への手紙二章一一節)


 この節は、私たちがキリストと一つであることの麗しい絵図です。私たちは性質において彼と一つです。

性質において彼と一つである

 子供たちが肉と血にあずかる者なので、彼も同じようにこれにあずかる者となられました。「なぜなら本当に、彼は天使の性質を身にまとったのではなく、アブラハムの子孫を身にまとわれたからである」。この「同じように」という言葉は何と尊いのでしょう!彼には私たちとまったく同じ人性があり、実際に同情心をもって、私たちの衝動、感情、希望、恐れを理解することができます。私たちの主の完全な人性は、どれほど深く理解したとしても理解しすぎることはありません。彼には人の体があるだけでなく、理性を持つ魂や精神のあらゆる属性、そして、私たちが持つあらゆる感受性もあります。それだけでなく、彼はこの完全な人性を依然として保有しておられます。彼はこの人間性を神の右にもたらされたのです。

「人の名を持つ彼は、
 我々の成り立ちの脆さを知っておられる。」

 彼の神性という卓越した栄光のゆえに、この輝かしい重要な真理を霞ませてはなりません。神の御子である方は、同じように人の子でもあります。しかし次に、彼は子たる身分において一つです。


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 私たちは立ち止まり、一般的方法よりも詳しくこれらの手紙を見て、これらの手紙の内容について二、三のことを指摘しました。これらの手紙では、古い人性を新しい人性の中に持ち込むこと、天然の人と霊の人もしくは天然のものと霊のものとの間の戦い、多くのものに――極めて神聖なものにさえ――触れる天然的接触について示されています。御霊の事柄に天然の人の手が触れ、それらを取り上げ、天然の人の満足と栄光のために用いられていました。これがコリント人への第一の手紙の内容です。

 もっと多くの詳細がありますが、取り扱わないことにします。それに触れたのは、あることを示唆するためです。その示唆をあなたたちは理解したと私は信頼しています。その示唆とは、天然の人が霊の事柄に触れることが如何に危険なことであり、どれほど悲劇的な結果を伴うのか、ということです。私たちは例の極めて恐ろしい警告、コリントにいるクリスチャンたちへの警告を取り上げました。彼らは「再生された」人々で「聖徒」と呼ばれており、神へと分離されていましたが、例の恐ろしい警告が臨みました。その警告の根拠として、荒野におけるイスラエルの悲劇が挙げられています。彼らは荒野で滅びました。そして使徒はこれを用いてコリント人たちに、天然のものと霊のものとの間で何らかの妥協をするなら、荒野で戦いに敗れるおそれがある、と警告します。もしあなたがまだエジプトにいるなら、すなわち、地理的には言わばエジプトの外にいてもエジプトが霊的にあなたの中から出て行っていないなら、あなたは立場的にはコリント人たちと同じところにいるのです。

 さてこれはみな消極面ですが、昨日の朝、私たちは次のことを指摘しました。すなわち、使徒が第一の手紙全般に関して与えた答、コリント人たちが彼への手紙で提起した十の質問への答は、モーセの律法のような規則や律法といった規約のかたちではなく、諸々の原則というかたちだった、ということです。そして、それらすべての原則はまとめて次の一つの原則になりました。すなわち、この中にキリストはどれくらい存在しているのか?あなたたちの分裂の中にキリストはどれくらい存在しているのか?「キリストは分けられたのか?」という原則です。

 パウロは、分裂の問題全体を指摘して言いました、「キリストは分けられたのですか?あなたたちはパウロへとバプテスマされたのでしょうか?」。キリストは分裂の問題や他のすべての問題――それらについては今は繰り返しません――を解決する原則です。これらの困難を解決するために彼が与えた答は、キリストに焦点を合わせることです。彼が彼らに与えた答は、これはキリストをどれくらい供給しているのか?ということでした。これはキリストをどれくらい表現しているのでしょう?すべてはこの観点から試され、評価され、決着がつきます。これらのことを述べたパウロは原則によって応答を受けます。そして、その原則とはキリストです。


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キリストを知る全き知識の頂点

 御存知のように、友よ、神は常に何かを目指して遡って働かれます。創造において、彼は遡って働いておられました。それを読み返して下さい。どうして新約聖書には、再生(regeneration)や和解(reconciliation)といった「再(re)」というこのささやかな接頭語で始まる言葉がこれほど多いのでしょう。みなこのささやかな接頭語「再(re)」がついています。なぜなら、彼は遡って働いておられるからです。

 事物は過ぎ去り、過ちに走り、神の道から外れました。そして、神は事物が過ちに走った点に戻りつつあります。神は通常、私たちにそうされます。では神は何から開始されたのでしょう?――世の基が据えられる前からおられた御子です。永遠の過去の協議で御子が発端、神の出発点とされました。人はみな過去のゆえに道に迷いました。「私たちはみな羊のように道に迷った」。

 神は御自身の出発点である御子に立ち返られます。キリスト教界は道に迷ってきました。そして、キリスト教界を救う唯一の道は神の出発点に立ち返ることです。御子に関する真の正しい理解に立ち返ることです。

 私は題材をただ進めることだけを望んでいるのではありません。これは私たちに適用されることになります。私は次のことを知っており、それが真実であることを知っています。すなわち、主が私たちの多くに対してなさっているのは私たちを剥ぎ取ることである、ということです。主は私たちが身に着けたものや私たちがその中に入り込んでしまっているものを私たちから剥ぎ取っておられます。主はそれらを剥ぎ取って、主イエスかさもなくば無か、という地点に私たちを導いておられます!もし主イエスで駄目なら、生きる目的は何もありません。私たちの中には「主よ、もしあなたが介入してこの場所を満たして下さらないなら、私たちを取り去って下さい。もはや生きる目的は何もありません」と主に向かって述べる境地に達した人々もいます。


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 次に、それは子としての関係を物語ります。神の家族は、子としての関係によって共に結ばれた家庭です。「私たちは死から命へと移っていることを知っています。なぜなら、私たちは兄弟たちを愛しているからです」(一ヨハ三・一四)。子としての関係と私たちの出生とは共につながっています。もし兄弟たち――同胞、家族――を愛さないなら、あなたは自分の出生を証明できません。もしこれが真実でないなら、あなたは自分の出生を証明できません。私たちの出生証明は互いに対する私たちの相互愛です。

 また次に、家族としてそれは御名に対する忠誠と熱心さを物語ります。私たちが忠誠心に欠けているせいで、神の家はどれほど駄目にされ、この家族はどれほど傷つけられていることでしょう。私たちは私たちの主に対する忠誠に欠けているとは思わないかもしれません――そのようなつもりはないかもしれません――しかし、私たちはみな彼の御名を担っています。そして、互いに対する忠誠心に欠けることは、御名に対する忠誠心に欠けることなのです。クリスチャンたちが――個人であれ団体であれ――これほど容易に互いに批判しあっているのが見い出されるのは、恐るべき悲劇ではないでしょうか?クリスチャンたちの間の忠誠心よりもましな忠誠心が往々にしてこの世の中にあります。職業に対する忠誠心について考えてみて下さい――医者が他の医者に不都合なことを話すのを耳にすることは決してありません。そこには誉れ高い誓約、忠誠心の基準があり、絶えず弁明・釈明しています。そこだけでなく他の領域でも同じです。しかし、悲しむべきことに、この私たちの間では、容易に弁明しようとすることも、多くの罪を覆ったりしようとすることもありませんし、悪い点よりも良い点に注意を向けさせようとすることもないのです。これはこの家族に反します。

 そして、これはとても実際的です。もし神の臨在と、利用可能な神という観念が真実なものなら、それは私たちの関係に実際的影響を及ぼさなければなりません。この家には家族が必要です。この家族は家庭よりも大きな観念であり、この地上を超えた天の命という純粋な血統から成ります。


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