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 私たちは立ち止まり、一般的方法よりも詳しくこれらの手紙を見て、これらの手紙の内容について二、三のことを指摘しました。これらの手紙では、古い人性を新しい人性の中に持ち込むこと、天然の人と霊の人もしくは天然のものと霊のものとの間の戦い、多くのものに――極めて神聖なものにさえ――触れる天然的接触について示されています。御霊の事柄に天然の人の手が触れ、それらを取り上げ、天然の人の満足と栄光のために用いられていました。これがコリント人への第一の手紙の内容です。

 もっと多くの詳細がありますが、取り扱わないことにします。それに触れたのは、あることを示唆するためです。その示唆をあなたたちは理解したと私は信頼しています。その示唆とは、天然の人が霊の事柄に触れることが如何に危険なことであり、どれほど悲劇的な結果を伴うのか、ということです。私たちは例の極めて恐ろしい警告、コリントにいるクリスチャンたちへの警告を取り上げました。彼らは「再生された」人々で「聖徒」と呼ばれており、神へと分離されていましたが、例の恐ろしい警告が臨みました。その警告の根拠として、荒野におけるイスラエルの悲劇が挙げられています。彼らは荒野で滅びました。そして使徒はこれを用いてコリント人たちに、天然のものと霊のものとの間で何らかの妥協をするなら、荒野で戦いに敗れるおそれがある、と警告します。もしあなたがまだエジプトにいるなら、すなわち、地理的には言わばエジプトの外にいてもエジプトが霊的にあなたの中から出て行っていないなら、あなたは立場的にはコリント人たちと同じところにいるのです。

 さてこれはみな消極面ですが、昨日の朝、私たちは次のことを指摘しました。すなわち、使徒が第一の手紙全般に関して与えた答、コリント人たちが彼への手紙で提起した十の質問への答は、モーセの律法のような規則や律法といった規約のかたちではなく、諸々の原則というかたちだった、ということです。そして、それらすべての原則はまとめて次の一つの原則になりました。すなわち、この中にキリストはどれくらい存在しているのか?あなたたちの分裂の中にキリストはどれくらい存在しているのか?「キリストは分けられたのか?」という原則です。

 パウロは、分裂の問題全体を指摘して言いました、「キリストは分けられたのですか?あなたたちはパウロへとバプテスマされたのでしょうか?」。キリストは分裂の問題や他のすべての問題――それらについては今は繰り返しません――を解決する原則です。これらの困難を解決するために彼が与えた答は、キリストに焦点を合わせることです。彼が彼らに与えた答は、これはキリストをどれくらい供給しているのか?ということでした。これはキリストをどれくらい表現しているのでしょう?すべてはこの観点から試され、評価され、決着がつきます。これらのことを述べたパウロは原則によって応答を受けます。そして、その原則とはキリストです。


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キリストを知る全き知識の頂点

 御存知のように、友よ、神は常に何かを目指して遡って働かれます。創造において、彼は遡って働いておられました。それを読み返して下さい。どうして新約聖書には、再生(regeneration)や和解(reconciliation)といった「再(re)」というこのささやかな接頭語で始まる言葉がこれほど多いのでしょう。みなこのささやかな接頭語「再(re)」がついています。なぜなら、彼は遡って働いておられるからです。

 事物は過ぎ去り、過ちに走り、神の道から外れました。そして、神は事物が過ちに走った点に戻りつつあります。神は通常、私たちにそうされます。では神は何から開始されたのでしょう?――世の基が据えられる前からおられた御子です。永遠の過去の協議で御子が発端、神の出発点とされました。人はみな過去のゆえに道に迷いました。「私たちはみな羊のように道に迷った」。

 神は御自身の出発点である御子に立ち返られます。キリスト教界は道に迷ってきました。そして、キリスト教界を救う唯一の道は神の出発点に立ち返ることです。御子に関する真の正しい理解に立ち返ることです。

 私は題材をただ進めることだけを望んでいるのではありません。これは私たちに適用されることになります。私は次のことを知っており、それが真実であることを知っています。すなわち、主が私たちの多くに対してなさっているのは私たちを剥ぎ取ることである、ということです。主は私たちが身に着けたものや私たちがその中に入り込んでしまっているものを私たちから剥ぎ取っておられます。主はそれらを剥ぎ取って、主イエスかさもなくば無か、という地点に私たちを導いておられます!もし主イエスで駄目なら、生きる目的は何もありません。私たちの中には「主よ、もしあなたが介入してこの場所を満たして下さらないなら、私たちを取り去って下さい。もはや生きる目的は何もありません」と主に向かって述べる境地に達した人々もいます。


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 次に、それは子としての関係を物語ります。神の家族は、子としての関係によって共に結ばれた家庭です。「私たちは死から命へと移っていることを知っています。なぜなら、私たちは兄弟たちを愛しているからです」(一ヨハ三・一四)。子としての関係と私たちの出生とは共につながっています。もし兄弟たち――同胞、家族――を愛さないなら、あなたは自分の出生を証明できません。もしこれが真実でないなら、あなたは自分の出生を証明できません。私たちの出生証明は互いに対する私たちの相互愛です。

 また次に、家族としてそれは御名に対する忠誠と熱心さを物語ります。私たちが忠誠心に欠けているせいで、神の家はどれほど駄目にされ、この家族はどれほど傷つけられていることでしょう。私たちは私たちの主に対する忠誠に欠けているとは思わないかもしれません――そのようなつもりはないかもしれません――しかし、私たちはみな彼の御名を担っています。そして、互いに対する忠誠心に欠けることは、御名に対する忠誠心に欠けることなのです。クリスチャンたちが――個人であれ団体であれ――これほど容易に互いに批判しあっているのが見い出されるのは、恐るべき悲劇ではないでしょうか?クリスチャンたちの間の忠誠心よりもましな忠誠心が往々にしてこの世の中にあります。職業に対する忠誠心について考えてみて下さい――医者が他の医者に不都合なことを話すのを耳にすることは決してありません。そこには誉れ高い誓約、忠誠心の基準があり、絶えず弁明・釈明しています。そこだけでなく他の領域でも同じです。しかし、悲しむべきことに、この私たちの間では、容易に弁明しようとすることも、多くの罪を覆ったりしようとすることもありませんし、悪い点よりも良い点に注意を向けさせようとすることもないのです。これはこの家族に反します。

 そして、これはとても実際的です。もし神の臨在と、利用可能な神という観念が真実なものなら、それは私たちの関係に実際的影響を及ぼさなければなりません。この家には家族が必要です。この家族は家庭よりも大きな観念であり、この地上を超えた天の命という純粋な血統から成ります。


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ひとりの新しい人

 三章一四~一六節:「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、彼にあって永遠の命を持つためです。神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛されました。それは彼を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を持つためです」。

 これらの御言葉の文脈を見ると、それらがその死、主イエスの十字架と関係している私たちをどこにもたらすのかがわかります。また、ここのこの問題には二つの面があることがわかります。

 一四節によって示されている面があります。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません」。確かにこれはこの事の死の面を表しています。そして次の事実は完全に明らかであり、何人も一瞬たりとも異議を唱えないでしょう。すなわち、主イエス、神の御子が、モーセによって荒野で上げられた蛇に対応するあの立場に置かれたのは、彼ご自身のためではなかったのです。イエス・キリスト、神の御子が個人的に蛇によって示されているのは正しいことである、とは決して誰も言わないでしょう。なぜなら、蛇は常に呪いの象徴であることを、あなたは直ちに思い出すだろうからです。この被造物にかつて臨んだ最初の呪いは蛇の上に宣告されました。そしてそれからずっと、蛇は呪いの化身です。され、人の子はこの蛇のように上げられる、と述べられています。どうしてこの二つのものを一緒にするのでしょう?確かに、これらは遠く隔てておかれるべきであり、決して一緒に言及されるべきではありません。確かに、そこには何の関係もありません。使徒パウロはこの意味を完全に明らかにして、御霊によってガラテヤ人に書き送ります、「キリストは私たちのために呪いとなって(中略)私たちを呪いから贖って下さいました」。文字通りには「私たちの代わりに」です。ですから、呪いとされたこの立場で、彼は十字架に付けられたのであり、そしてそれは私たちの身代わりだった以上、確かにそれは代表者として私たち自身を死によって取り除くことです。ですからキリストの死は、神の呪いの下にある人を代表していました。なぜなら、人は死の中に虜とされていたからです。神の御子が中に踏み込んで、私たちの身代わりとなり、呪いとされ、神の裁きを受けて、私たちとして死なれました。これが死の面です。

 この類の人が道から取り除かれるとき、あなたは何を得るでしょう?何か新しいもの、ひとりの新しい人のために用意された道を得ます。ですから、一六節はこの別の面を示します。神がその愛するひとり子を与えて、呪いの下で罪の中にある人の立場を取らせたのは、「彼を信じる者が一人も滅びることなく(彼は彼らのために滅びたのであり、彼らは「彼はその行いによって自分たちのために滅んで下さったのである」と信じています)、永遠の命を持つため」です。キリストの死は、人のための新しい立場の基礎を据えます。人自身の立場は裁きの下にある立場であり、永遠の死に定められています。キリストはその中に踏み込んで、人の立場を取り、呪いとされ、代表者として裁かれて神から分離されました。今や彼の復活により、それからの逃れ道と、人のための新しい地位のための立場が備えられています。それは何でしょう?それは、そこでは人はもはや呪いの下にはなく、神から分離されておらず、裁きの下になく、死に定められていない、ということです。むしろ、キリストにあって人はよみがえらされ、神に受け入れられ、祝福の立場にある、ということです。これはとても単純であり、大量の福音がその中に込められています。しかし、次のことがわかるでしょう。すなわち、この福音書における、キリストの死に対する最初の言及は、この死を神の御前で人のために新しい立場を用意するものとして示しているのです。そして、これは素晴らしいことです。人は死の中にありました。今、人は命の中にあります。人は罪の中にありました。今、人はキリストの義の中にあります。人は神から分離されていました。今、人は主イエスの死と復活――人はこれを自分のためのものとして信仰を通して信奉します――を通して神との合一の中にあります。これが主イエスを信じることの意味です。主イエスを信じるだけでなく、主イエスに基づいて信じることなのです。


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教会教父たちとローマ帝国迫害下の殉教者たち

ローマのクレメンス(三〇~九六頃)
ローマの監督。三位一体、キリストの神性、恵みによる義認、教会の一体性の教理に対して明確に証しした。

イグナチウス(三五~一〇七頃)
アンテオケの監督。七つの手紙を通して初期の教会に影響を与えた。ローマに護送されて殉教。迫害者たちに「私を獣どもに与えよ。私が神にあずかる者となるために」と告げた。

ポリュカルポス(六九~一五五頃)
使徒ヨハネの下で指導を受け、後にスミルナの監督となる。書き物の中で聖書の御言葉をたびたび引用した。グノーシス主義的なマルキオンの異端に対して戦い、マルキオンのことを「サタンの長子」と呼んだ。八六歳の老齢で殉教。

エイレナイオス(一三〇~二〇二頃)
ポリュカルポスの弟子でリヨンの監督。異端反駁を執筆して、グノーシス主義や他の異端に対して信仰を擁護した。キリストは最後のアダムであり、この御方にあって最初のアダムが失ったものが回復されるだけでなく、人に対する神の御旨も成就される、と告白した。神の救いによる人の神化の教えを立証した。

ヒッポリュトス(一六〇~二三五頃)
エイレナイオスの生徒で著名な護教論者。「全異端反駁論」でサベリウスの異端的見解に対して精力的に反駁した。彼のもう一つの著書「使徒的伝統」では純粋な信仰と使徒の教えを保とうと努めた。

テルトゥリアヌス(一六〇~二二五頃)
アフリカ人の教会教父。有名な護教論者で、その教えはエイレナイオスに由来している。「プラクセアス反駁」を執筆。三位一体の神について、本質は一つだがパースンは三つ、という教えのために論じた。また、キリストの神性と人性を区別し、これが後にニケア信条の形成に影響を及ぼした。グノーシス主義(マルキオンの教理)と仮現説に対して反駁した。ローマ政府の前でキリスト教信仰を擁護した。「殉教者の血は教会の種」という言葉が有名。

パンタイノス(一二〇~一九〇頃)
アレキサンドリア学派の創設者にして教導学院長。

オリゲネス(一八五~二五四頃)
エジプトに生まれる。クレメンスの後を継いでアレキサンドリアの教導学院長になり、膨大な著作を著した。最も有名な著書は旧約聖書の六つのテキスト、すなわち、ヘブライ語、ヘブライ語(ギリシア語音訳)、ギリシア語(七十人訳、シュンマコス、アキュラ、テオドティオン)を対照した書である注解付きの「ヘキサプラ」。彼は教会の天的性質――教会は自分の生活の中で永遠の福音の力を経験したすべての人からなること――を見た。また「祈りについて」では、祈りは嘆願ではなく神の命にあずかることであると論じた。

アタナシオス(二九六~三七三頃)
三二五年のニケア信条の制定を助けた。後にアレキサンドリアの監督になる。アリウス派の異端に反駁してキリストの神性を立証した。著作「神の言(ロゴス)の受肉について」で、「神が人となったのは、人が神になるためであった」と明確に述べ、これが東方教会の根本教理の一つである神化の基礎となった。

カッパドキア三教父
三位一体について「本質(ウーシア)は一つ、パースン(ヒュポスタシス)は三つ」と説明した。

大バシレイオス(三二九~三七九頃)
カイサリアの監督。隠遁生活の影響を受けて、質素な生活を擁護した。オリゲネスの教えに秀でており、アリウス主義に反対した。ニケア信条の支持者。

ニュッサのグレゴリオス(三三〇~三九〇頃)
大バシレイオスの弟であり、ニュッサの監督。三位一体のウーシア(本質)とヒュポスタシス(パースン)を最初に区別した人の一人。

ナジアンゾスのグレゴリオス(三三〇~三九四頃)
コンスタンチノープルの監督で雄弁な演説家。アリウス派に対する彼の有名な五つの「神学演説」は大いに有意義である。


アンブロシウス(三三七~三九七頃)
ミラノの監督でアウグスチヌスに洗礼を授けた。教会は国家から独立しているべきであると主張し、「皇帝は教会の中にあり、教会の上にはない」と宣言した。

ヒエロニムス(三四〇~四一九頃)
イタリアに生まれ、後にパレスチナに移る。全生涯を隠遁生活に捧げ、禁欲生活を送るよう信者たちに勧めた。二十年を費やして聖書をラテン語訳――ウルガタ訳――に翻訳。旧新約聖書に関する注解書と教会史に関する書を執筆した。

クリソストム(三四六~四〇七頃)
コンスタンチノープルの監督。クリスチャンの歩みについて強調した。その説教はほとんどが聖書の解釈についてであり、実行面を力説した。その書の中で隠遁生活と純潔を守ることを称賛した。黒海沿岸に移送される途中、炎天下や雨の日も歩かせ続けられるという過酷な処遇により殉教。

アウグスチヌス(三五四~四三〇)
北アフリカのヒッポの監督。教会の合一に熱心で、ペラギウス派の異端に反駁した。「告白」「神の都」「三位一体について」等を執筆。特に「三位一体について」では三位一体の真理について詳述し、西方のキリスト教神学に多大な影響を与えた。


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