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ひとりの新しい人

 三章一四~一六節:「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、彼にあって永遠の命を持つためです。神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛されました。それは彼を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を持つためです」。

 これらの御言葉の文脈を見ると、それらがその死、主イエスの十字架と関係している私たちをどこにもたらすのかがわかります。また、ここのこの問題には二つの面があることがわかります。

 一四節によって示されている面があります。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません」。確かにこれはこの事の死の面を表しています。そして次の事実は完全に明らかであり、何人も一瞬たりとも異議を唱えないでしょう。すなわち、主イエス、神の御子が、モーセによって荒野で上げられた蛇に対応するあの立場に置かれたのは、彼ご自身のためではなかったのです。イエス・キリスト、神の御子が個人的に蛇によって示されているのは正しいことである、とは決して誰も言わないでしょう。なぜなら、蛇は常に呪いの象徴であることを、あなたは直ちに思い出すだろうからです。この被造物にかつて臨んだ最初の呪いは蛇の上に宣告されました。そしてそれからずっと、蛇は呪いの化身です。され、人の子はこの蛇のように上げられる、と述べられています。どうしてこの二つのものを一緒にするのでしょう?確かに、これらは遠く隔てておかれるべきであり、決して一緒に言及されるべきではありません。確かに、そこには何の関係もありません。使徒パウロはこの意味を完全に明らかにして、御霊によってガラテヤ人に書き送ります、「キリストは私たちのために呪いとなって(中略)私たちを呪いから贖って下さいました」。文字通りには「私たちの代わりに」です。ですから、呪いとされたこの立場で、彼は十字架に付けられたのであり、そしてそれは私たちの身代わりだった以上、確かにそれは代表者として私たち自身を死によって取り除くことです。ですからキリストの死は、神の呪いの下にある人を代表していました。なぜなら、人は死の中に虜とされていたからです。神の御子が中に踏み込んで、私たちの身代わりとなり、呪いとされ、神の裁きを受けて、私たちとして死なれました。これが死の面です。

 この類の人が道から取り除かれるとき、あなたは何を得るでしょう?何か新しいもの、ひとりの新しい人のために用意された道を得ます。ですから、一六節はこの別の面を示します。神がその愛するひとり子を与えて、呪いの下で罪の中にある人の立場を取らせたのは、「彼を信じる者が一人も滅びることなく(彼は彼らのために滅びたのであり、彼らは「彼はその行いによって自分たちのために滅んで下さったのである」と信じています)、永遠の命を持つため」です。キリストの死は、人のための新しい立場の基礎を据えます。人自身の立場は裁きの下にある立場であり、永遠の死に定められています。キリストはその中に踏み込んで、人の立場を取り、呪いとされ、代表者として裁かれて神から分離されました。今や彼の復活により、それからの逃れ道と、人のための新しい地位のための立場が備えられています。それは何でしょう?それは、そこでは人はもはや呪いの下にはなく、神から分離されておらず、裁きの下になく、死に定められていない、ということです。むしろ、キリストにあって人はよみがえらされ、神に受け入れられ、祝福の立場にある、ということです。これはとても単純であり、大量の福音がその中に込められています。しかし、次のことがわかるでしょう。すなわち、この福音書における、キリストの死に対する最初の言及は、この死を神の御前で人のために新しい立場を用意するものとして示しているのです。そして、これは素晴らしいことです。人は死の中にありました。今、人は命の中にあります。人は罪の中にありました。今、人はキリストの義の中にあります。人は神から分離されていました。今、人は主イエスの死と復活――人はこれを自分のためのものとして信仰を通して信奉します――を通して神との合一の中にあります。これが主イエスを信じることの意味です。主イエスを信じるだけでなく、主イエスに基づいて信じることなのです。


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教会教父たちとローマ帝国迫害下の殉教者たち

ローマのクレメンス(三〇~九六頃)
ローマの監督。三位一体、キリストの神性、恵みによる義認、教会の一体性の教理に対して明確に証しした。

イグナチウス(三五~一〇七頃)
アンテオケの監督。七つの手紙を通して初期の教会に影響を与えた。ローマに護送されて殉教。迫害者たちに「私を獣どもに与えよ。私が神にあずかる者となるために」と告げた。

ポリュカルポス(六九~一五五頃)
使徒ヨハネの下で指導を受け、後にスミルナの監督となる。書き物の中で聖書の御言葉をたびたび引用した。グノーシス主義的なマルキオンの異端に対して戦い、マルキオンのことを「サタンの長子」と呼んだ。八六歳の老齢で殉教。

エイレナイオス(一三〇~二〇二頃)
ポリュカルポスの弟子でリヨンの監督。異端反駁を執筆して、グノーシス主義や他の異端に対して信仰を擁護した。キリストは最後のアダムであり、この御方にあって最初のアダムが失ったものが回復されるだけでなく、人に対する神の御旨も成就される、と告白した。神の救いによる人の神化の教えを立証した。

ヒッポリュトス(一六〇~二三五頃)
エイレナイオスの生徒で著名な護教論者。「全異端反駁論」でサベリウスの異端的見解に対して精力的に反駁した。彼のもう一つの著書「使徒的伝統」では純粋な信仰と使徒の教えを保とうと努めた。

テルトゥリアヌス(一六〇~二二五頃)
アフリカ人の教会教父。有名な護教論者で、その教えはエイレナイオスに由来している。「プラクセアス反駁」を執筆。三位一体の神について、本質は一つだがパースンは三つ、という教えのために論じた。また、キリストの神性と人性を区別し、これが後にニケア信条の形成に影響を及ぼした。グノーシス主義(マルキオンの教理)と仮現説に対して反駁した。ローマ政府の前でキリスト教信仰を擁護した。「殉教者の血は教会の種」という言葉が有名。

パンタイノス(一二〇~一九〇頃)
アレキサンドリア学派の創設者にして教導学院長。

オリゲネス(一八五~二五四頃)
エジプトに生まれる。クレメンスの後を継いでアレキサンドリアの教導学院長になり、膨大な著作を著した。最も有名な著書は旧約聖書の六つのテキスト、すなわち、ヘブライ語、ヘブライ語(ギリシア語音訳)、ギリシア語(七十人訳、シュンマコス、アキュラ、テオドティオン)を対照した書である注解付きの「ヘキサプラ」。彼は教会の天的性質――教会は自分の生活の中で永遠の福音の力を経験したすべての人からなること――を見た。また「祈りについて」では、祈りは嘆願ではなく神の命にあずかることであると論じた。

アタナシオス(二九六~三七三頃)
三二五年のニケア信条の制定を助けた。後にアレキサンドリアの監督になる。アリウス派の異端に反駁してキリストの神性を立証した。著作「神の言(ロゴス)の受肉について」で、「神が人となったのは、人が神になるためであった」と明確に述べ、これが東方教会の根本教理の一つである神化の基礎となった。

カッパドキア三教父
三位一体について「本質(ウーシア)は一つ、パースン(ヒュポスタシス)は三つ」と説明した。

大バシレイオス(三二九~三七九頃)
カイサリアの監督。隠遁生活の影響を受けて、質素な生活を擁護した。オリゲネスの教えに秀でており、アリウス主義に反対した。ニケア信条の支持者。

ニュッサのグレゴリオス(三三〇~三九〇頃)
大バシレイオスの弟であり、ニュッサの監督。三位一体のウーシア(本質)とヒュポスタシス(パースン)を最初に区別した人の一人。

ナジアンゾスのグレゴリオス(三三〇~三九四頃)
コンスタンチノープルの監督で雄弁な演説家。アリウス派に対する彼の有名な五つの「神学演説」は大いに有意義である。


アンブロシウス(三三七~三九七頃)
ミラノの監督でアウグスチヌスに洗礼を授けた。教会は国家から独立しているべきであると主張し、「皇帝は教会の中にあり、教会の上にはない」と宣言した。

ヒエロニムス(三四〇~四一九頃)
イタリアに生まれ、後にパレスチナに移る。全生涯を隠遁生活に捧げ、禁欲生活を送るよう信者たちに勧めた。二十年を費やして聖書をラテン語訳――ウルガタ訳――に翻訳。旧新約聖書に関する注解書と教会史に関する書を執筆した。

クリソストム(三四六~四〇七頃)
コンスタンチノープルの監督。クリスチャンの歩みについて強調した。その説教はほとんどが聖書の解釈についてであり、実行面を力説した。その書の中で隠遁生活と純潔を守ることを称賛した。黒海沿岸に移送される途中、炎天下や雨の日も歩かせ続けられるという過酷な処遇により殉教。

アウグスチヌス(三五四~四三〇)
北アフリカのヒッポの監督。教会の合一に熱心で、ペラギウス派の異端に反駁した。「告白」「神の都」「三位一体について」等を執筆。特に「三位一体について」では三位一体の真理について詳述し、西方のキリスト教神学に多大な影響を与えた。


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 次の事柄は愛です。新約聖書の愛の特徴は何でしょう?偽りのない愛!何という言葉でしょう!偽りのない愛――この言葉をクリスチャンたちに向かって使う場面を想像してみて下さい。これは、実際は全く愛していないのに、偽って愛そうとする者、愛を装おうとする者、愛するフリをしようとする者がいることを意味するのではないでしょうか?主があらゆる美徳、あらゆる要素の中に求めておられるのは、真実であるものです。

 これが、透明性を意味する光によって私たちが言わんとしていることです。それは事物の純粋性、本質です。言葉、教理の中に真理があるかもしれませんが、それに対応する真理が心の中に、生活の中になければなりません。光は教理の問題かもしれませんが、対応する光の状態が心の中になければなりません。前者のような光や真理を私たちが多く持つことに敵は反対しませんが、できるものなら、それに反する嘘、矛盾を導入することにより、その真の価値を損なおうとします。

 これは厳しく聞こえるかもしれません。確かに、これは厳しいです!厳しくなければなりません!このように述べたのは誰かを非難するためではなく、警告としてです。それはおそらく何らかの問題を解明するでしょう。しかし、私たちはそれを激励や勧告の言葉として心に留めなければなりません。神は決して暗闇の中では建造されないことを覚えておいて下さい。つまり、光のないところでは建造は不可能なのです。神はこの世界を秩序と豊かさに戻す前に、「光あれ」と仰せられました。神はこの真理の顕現を求めておられます。神の御業は決して暗闇ではありません。そして絶対的光がない限り、建造と発展は不可能です。まっすくでない民、ひねくれた民、常に誤魔化そうとしている民、公明正大でなく背後のどこかに秘密を抱えている民と共に進み続けるのは不可能であることを、あなたはよくご存じです。「そんな人と共に進み続けることはできません」と言わざるをえません。神はそのようです。私たちの中の誰かがそのような状況にあるなら、神はその人に「あなたが絶対的に公明にならない限り、あなたが絶対的に誠実になる境地に達しない限り、私はあなたと共に進み続けることはできません」と仰せられるでしょう。神は、御自身がなそうとするいかなる種類の働きにも、実際性を要求されます。多くの弱さや多くの不完全さがあるかもしれませんが、もし神の御前で純粋性、実際性、公明性があり、そこでは霊が透明で純粋なら、神は御業を進めることができます。しかし、私たちが何かを内側に封じ込め、抑え、神の御前で完全に公明でなくなり始めるやいなや、御業は止んでしまいます。透明性を意味する光は、神の都の建造に必要不可欠です。なぜなら、この都の究極的目的は、神御自身のあの栄光を輝き渡らせることだからです。神には変化も、回転によって投じられる影もありません。これは、神は信頼できることを意味します。

 主は私たちをそのようにして下さいます。


「土台のある都」 完


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精金を曇らせること

 すでに見たように、これは第一に教理によってなされてきました。誤った教理に関する何らかの示唆を持ち込むことができるとき、誤謬を僅かでも潜り込ませられるとき、敵はそれを邪悪なパン種のように働かせます。そして遂には、その類のものが発達して、聖霊を退ける契機となり、それが存在する所では主は進み続けられなくなります。そして、妥協、麻痺、弱さの状況が確立されます。純金、精金が曇らされてしまいます。

 教理の路線に沿ってこれがなされてきただけでなく、生活の路線に沿ってもなされてきました。同じ方法、同じ目的が敵の活動を支配しています。教理に関して絶対的に正統的なものの上にとても強く立っていたとしても、あなた自身の生活、あなた自身の霊的生活、あなた自身の道徳的生活においてはとても疑わしい状況にあるおそれがあります。神の御言葉の文字にはとても忠実でも、それでもあなた自身の生活と証しにおいては妥協しているおそれがあります。仕事の取引や、他の諸々の関係や、神の御前におけるあなた自身の生活において、そうであるかもしれません。透明でないもの、純粋でないもの、清くないもの、まっすぐでないもの、疑わしいもの、おそらくは秘密の習慣があるかもしれません。ああ、もしかすると多くの事柄の中の一つによって、生活の中からあの堅固さ、あの明確さ、あの積極性、あの透明性が取り去られ、時には無意識のうちに当事者の中に、何かに直面しているという恐れ、見つかったものを白状しなければならないという恐れが生じます。停滞させるものが生活の背後にあります。そのせいで証しから真の活力が、生活の中から真の衝撃力が、交わりの中から真の実り豊かさと価値が奪われています。往々にして形はありませんが、何かがそこにあります。その上に手を乗せることはできませんが、正しくないもの、透明ではないものが、その生活の中にあることがわかります。そして次に隠し事、ごまかし、分離が生じます。あるいは、他の多くの種類の悪の兆候が生じるかもしれません。それはすべて、神の御前で絶対的に透明ではない何かがあるせいです。敵が一つの要素を植え付けました。その要素が純粋な光を損なって、その生活に影、もやを生じさせたのです。敵の狙いは神にある命の完全な水晶のような透明性を損なって、それにより命全体を麻痺させることです。外形は依然として同じであり、信仰告白はそれまでと全く同じかもしれませんが、停滞してしまうのです。

 これを述べたのは非難するためではありません。御自身の民、エルサレムに対する神の御旨を損なうために敵がそれに沿って好んで働く諸々の路線の一つを指摘するためです。神の御旨とはすなわち、エルサレムが最終的に天から出て、神の栄光を持ち、その明かりが高価な宝石のように、碧玉のようになることです。そして、それに関するすべてのものが、ガラスのように透明で、水晶のように透明な純金となることです。ああ、このような言葉や句には、何という霊的価値と重みがあることか!

 これはみな議論の余地のない明確なことです。私たちは次のことを理解しなければなりません。すなわち、敵は絶えず、私たちを知らないうちに「自分は雲の下にある」と感じる地点にもたらそうとしているのです。時として敵は誤った立場を設けて、「自分は誤っている」と私たちに感じさせます。私たちは誤っていないかもしれませんが、敵は「自分は誤っている」と私たちに感じさせて、私たちが自信、確信、堅固さ、立場、地位を失うあの領域にもたらそうとします。その領域で私たちは潜り込んだ何らかの要素によって弱められてしまいます。敵は公然と神の民を雲の下に、疑いの下にもたらして、彼ら自身の心を疑いや疑問の下にもたらします。それは、透明性、確実性、力を損なうためであり、そして、彼らが万人に対して、彼ら自身に対してさえ、大きな問題となるようにするためです。


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 黙示録には、奥義なるバビロンと述べられているある都が出てきます。この意味は、もちろん、それはこの世の文字通りの歴史的バビロン、人々によって文字通り建てられた都ではありません。奥義なるバビロンは霊的なバビロンであり、その特徴がバビロンの道徳的・霊的要素である民です。文字通りのバビロンから道徳的・霊的に現れたものを私たちは知っているので、奥義なるバビロンを特定するのはあまり困難ではありません。要点は、これは神の都である奥義なるエルサレムを真似たサタンの偽物だということです。この文脈で使われている「奥義」という言葉は、表に現われないものを意味します。ある表われは見えますが、実体は背後にあり、霊的知性だけが識別できます。これは奥義なるバビロンにあてはまります。奥義なるエルサレムにあてはまります。奥義なるバビロンは大きな惑わし、欺き、宗教史上の罠であり、奥義なるバビロンの網にかかる人はみな、極めて恐るべき方法で欺かれ、盲目にされます。彼らは歴史上きわめて恐るべき手段に訴えているにもかかわらず、それでも自分たちは神に仕えていると思うおそれがあります。奥義なるバビロンを私たちに知らせるものの名を述べる必要はないでしょう。

 奥義なるバビロンがサタンにとって意味することは、奥義なるエルサレムが神にとって意味することでもあります。それは天的な素晴らしい意味においてであり、知者や賢者から隠されている事柄、世人から隠されていて知恵と啓示の霊によって彼を知っている人々に対してのみ開かれている事柄が、その中にすべて集約されています。


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