そして、私たちはこの命の道の中にあります。それはこの信仰の道です。私たちは敵意が存在する地点を超えて着実かつ確実に進んでいると、私は信頼しています。私たちの心の中に神への敵意はあるでしょうか?神に失望しているでしょうか?神のことを腹立たしく思っているでしょうか?苦々しい気持ちや、遠慮があるでしょうか?そのようなものが何かあるでしょうか?そのようなものがもしあるなら、それは私たちの内に働く死の働きであることがよくわかります。それは命ではありません。唯一の道は、この命にそれ自身の信仰の法則に従って働いてもらうことです。なぜ私たちは失望しているのでしょう?なぜ悲しみを感じているのでしょう?主が私たちの期待通りの方ではないことがわかったためである、と私たちは堅く確信しているのでしょうか?そうであると堅く確信しているのでしょうか?私たちの願うように物事が運ばず、野心が失望に終わったためではない、と私たちは堅く確信しているのでしょうか?そう堅く確信しているのでしょうか?物事が私たちの願い通りにかなってさえいれば、私たちはどれほど神を喜んでいたことでしょう!「神は忠実であり、神は信実です。私たちは主を愛します」とどれほど快く言っていたことでしょう。しかし今、物事はうまく運ばず、状況は容易ではありません。状況は困難で、私たちに敵対しています。この状況のせいで私たちは困っています。愛する人よ、私はこう信じています。もし私たちが主を目的とする地点、主が私たちの目標となる地点、「私の目標は神ご自身であって、喜びや平安ではなく、私の神ご自身です」と確かに言える地点に達するなら、私たちは命の道の中にあります。しかし、それ以外の慮りや影響が私たちの天然の命から忍び込んで来て、すべて台無しにしてしまいます。この問題は極めて明白であることがわかります。


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すべてのすべてである神

 さて、この命の法則のすべての面をまとめました。命の御霊の法則とは何でしょう?それはどこでどのように働くのでしょう?最初から最後まで主御自身がすべてである、というこの立場に基づいて働きます。主御自身がすべてとなること、これがこの問題の核心です。「あなたの国、あなたの親族、あなたの父の家から出て行きなさい」。出て行きなさい――この地上のものに関する野心、たとえそれが神に関するものだったとしても、そこから出て行きなさい。物事から、たとえそれが神に可能な事や神が与えることのできるものだとしても、そこから出て行きなさい。どこに向かって出て行くのでしょう?神ご自身に向かってです。その結果が分かるでしょうか――ああ、これは素晴らしいです!――「私の友であるアブラハム」。私の友!何と多くのものをこれは含んでいることか!神のためにすべてを手放すこと、完全に神の側に立つこと、神に御自分の道を進んでいただくこと、たとえ神が御自身を否定して矛盾しているように思われても神に信頼することは、私たちが神の御心の中に直ちに入る結果になります。私の友!これは命でしょうか?命の道でしょうか?この言葉がアブラハムについて言えたのと同じように、最終的に私たち全員にも言えるようになるなら、それは確かに命ではないでしょうか?確かに、これは何物にもまして欲すべきものではないでしょうか?この地点に達するなら、「これはまさに命です!」と私たちは言うでしょう。これには何物にも代え難い価値があります!そうです、命は神との友情という基礎に基づいているのです。

 神との友情とは何でしょう?それはすでに述べてきたことです。神との友情はこの世との友情ではありません。私たち自身の天然の命や、その影響、慮りとの友情ではありません。神の事柄における野心、計画、達成との友情ですらありません。神が私たちのためになしうることとの友情ではありません。神ご自身との友情です。これがすべてです。そうである以上、主がたとえ遅れたり矛盾していたとしても、それにもかかわらず私たちは信頼しなければならないことを、これは意味します。友情とは敵意をすべて除き去ることであることがわかります。敵意はサタンからアダムを通して入り込みました。そして、アブラハムによって除き去られました。これは何を意味するのでしょう?信仰によって除き去られたのです。信仰は敵意を徹底的に滅ぼします。もちろん、それは漸進的です。アブラハムは一生の間このように生きなければなりませんでしたが、その結果、神の友になりました。


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遅延や一見矛盾のように見えるものを神は用いられる

 さて、第三に、アブラハムの事例では、一見死の道のように見えるものに沿って命が働いていることがわかります。この一見死の道のように見えることには二つの意味があります。すなわち、遅延という神の道と、矛盾という神の道です。神はアブラハムに息子を約束されましたが、約束して立ち去ってしまい、この問題を何年も放っておかれました。約束の成就が遅れたことは、神を信じる信仰の深化に役立ちました。そして、アブラハムの生涯に神からのものが桁外れに増し加わる道を備えました。遅れが長引けば長引くほど、希望の成就はますます神からでなければならなくなり、人にはますます不可能になります。これが目的です。私たちが好もうが好むまいが、神はこのような方法で働かれます。私たちがこの目的を大切にしようがしまいが、これは本当です。神が実際に命の法則に従って働いておられる時、私たちは信仰のこの領域の中にもたらされなければなりません。この領域では、神の約束さえも差し止められていて、すぐには成就しないように思われます。神は真実です。神は人に借りを作りません。最終的に、神に借り方はなくなります。これは決着済みです。神は、御自分に対する適切で正当な期待にすべて応えて下さいます。そして最終的に――たとえそれが長く待った末のことだとしても――神の正しさと神の信実さが不可抗力的に証明されます。私たちはみな次のような態度を取ることが許されています。「主よ、私が長く待った末にあなたの御前に立つ時、『あなたは私の信頼を裏切った』とあなたの帳簿に繰り込みうる根拠を、あなたはすべて清算して下さらなければなりません」。このような立場に立つことが神にとって大切です。かの日、神に信頼した者たちが、「主よ、あなたは一つたりとも期待を裏切らず、私が正当に望みうること、キリストにあって正当に望みうること以上のことをして下さいました」と言うようになることを、まさに神の性質と性格は要求します。神はこの目標を達成して下さいます。しかし、命を深め、命を強め、神の似姿を生み出し、死の力とサタンの働きを滅ぼし、アダムの過ちを逆転させるために、神は私たちの信仰――御自分の約束に対する信仰さえも――伸長しなければなりません。神はそうなさいます。それが成長のしるしであり、成熟のしるしです。遅延という神の務めはこのようなものです。

 次に、さらに、矛盾という神の務めがあります。ようやく息子が与えられました。しかし、次に何が起きたでしょう――「あなたの息子を取って(中略)私に献げなさい……」。矛盾です。神は与え、そして取り去られます。成就することを約束しておきながら、その後、それを一撃で拭い去るかのように思われます。さて、これは何を意味するのでしょう?その真意は何でしょう?私が思うに、愛する人よ、この箇所の核心は、神は常に御自身のものにしようとされる、ということです。心は神に向かうべきであって物事に向いてはならないのです。たとえ約束の成就が遅れたとしても、神は、私たちのためになされる御業よりも神ご自身を求める境地に、心を引き寄せようとしておられます。もし矛盾というこの務めの下にあるなら、その目的は私たちを物事から引き離して神ご自身のものにすることです。


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 こうしてロトはアブラハムから分離されました。何が起きたのでしょう?それまでずっと制限の原因だったこの血縁関係はこれで終わったのでしょうか?そのように見えます。これが起きるその日、天然的影響が断ち切られるその日、神が新たな命の領域と共にやって来られます。この原則は本当です。神の御前で真に繁栄や成功をすべて手放す地点、人々が重んじるキリスト教的働きやキリスト教的務めさえもすべて手放す地点に達することができた時、それは前進し続けている印です。クリスチャンたちの間で得られる絶好の機会や大きな利益を手放して、「全く構いません。主はご存じです。与えるにせよ、差し控えるにせよ、それは主が決めることです。私はそのような賞を求めません。そのようなものが神と共なる私の歩みに影響を及ぼすのを私は許しません。野心によって私の道が決まることはありません」と言えることは成長の確かなしるしです。それはこの地上ではあまり大したものに思われないかもしれません。広く開かれた扉とか、そのような類のものには思われないかもしれません。しかしどういうわけか、そこに命があることが分かります。霊的影響力があることが分かります。何か大事なものがあることが分かります。最終的に、それは大事なものになります。しかしこれは時として、まず第一に、野心とのこの戦いを必然的に伴います。この戦いでは、こうした示唆や影響をすべて下ろさなければなりません。こうして私たちは、命の道はたとえすべてを犠牲にしても神と共に進み続けることであることを理解する地点に達します。命の御霊の法則はこのような方法で働きます。


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 往々にして、子供、幼稚園児、信仰の初歩的段階にある、あまり圧迫に耐える力がない人々に対して、神はすぐに結果を与えてしるしを顕わさなければなりません。成熟のしるしは通常、外側の顕現やしるしが差し控えられるようになって、神ご自身のためにただ神と共に歩むよう要求されるようになることです。神が外面的事柄を差し控えられるようになることが、神の学校を卒業したしるしです。これは、この命に野心を抱いているかどうかに関する試験に合格したことを示します。

 アブラハムはこの最初の試験、この真理の最初の適用に失敗しましたが、幸いにも教訓を学びました。主の僕たちが霊的に前進するとき、私たちはそれを常に称賛しなければなりません。次の出来事――二つの出来事が立て続けに起きるのは注目に値します――では、この同じ領域で驚くべき素晴らしい勝利を目にします。十二章にはアブラハムがエジプトに下ったことが記されています。これは彼にとって死の道であり、命の道ではありませんでした。野心は死の道であることが判明しました。次の章で直ちに生じるのは、牧草と水を巡るアブラハムの僕たちとロトの僕たちの間の争いです。アブラハムはこの問題のことでロトのもとに行き、「争わないようにしましょう。何を争う必要があるのでしょう?(私たちは自分自身のために何かを欲しがっているのでしょうか?――これが彼の言葉の主旨です)さて、ロトよ、周りを見て、目を上げて、この地を見渡しなさい。この地の最も良いところを見て、それを選びなさい。あなたの好むところを私に知らせ、その残りを私に与えなさい。あなたは選んだものを取りなさい。あなたが行くことを選んだ方向とは反対の方向に私は直ちに進みます」という主旨のことを言いました。ロトは目を上げて、よく潤っていて肥沃なヨルダンの平野全体を見渡し、それを選びました。それで彼らは互いに別れました。アブラハムの側では、それは野心に対する勝利でした。直ちに神がやって来て、「あなたの目を上げなさい。(中略)あなたが見ている全ての土地を私はあなたとあなたの子孫とに永久に与える。私はあなたの子孫を地の塵のようにする」と仰せられます。結局のところ、ここに命の道があります。地的獲得、野心、満足の道、地上で何かを得ようとする道は、ロトにとって死の道になりました。この世に関する限り、アブラハムは手放しました。神のために手放しました。それで神がやって来られたのです。


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