「小羊への」

 それはこれを意味します。すなわち、救いに関する彼らの観念は個人的利益によって支配されたものではなく、また、彼らは救われて自分のために救いを享受するために救われようとしたのではないのです。彼らの観念では、救いはまったく主に対するものであり、主のためです。これは完全にいっそう高い水準にあります。これは区別を設けるものであると、私は示唆したいと思います。自分が救いを得るために救われることを喜ぶ多くの人々、クリスチャンがいます。なぜなら、彼らにとって救われることは良いことだからです。救いは彼らのために多くのものを保証してくれますし、それは天と栄光を意味します。しかし、これらの別の人々の主要な関心事は小羊の栄光です。「小羊への」。彼らは彼が行く所へはどこへでも従って行きます。

「キリストの苦難の交わり」

 当然ながら、王の行く所へはどこへでも従って行くことの方が容易かもしれません。彼が肉身にあった時代、彼が行く所へはどこへでも追いかけて行く多くの人々がいました。彼らが常にそこにいるのをあなたは見い出します。ああ、彼は「パンと魚」と仰せられました。彼らがそこにいたのは彼の力強い御業を見るためでした。しかし、この人々は小羊に従います。これは、彼らには「キリストの苦難の交わり」に――この句を最初に用いた使徒のように――応じる意向があったことを意味します。使徒にとって、キリストの苦難の交わりは避けるべきものではありませんでした。「それは私がキリストとその苦難の交わりとを知るためです」(ピリ三・一〇)。小羊の苦難に与る意向がそこにはありました。これは特別な種類の民、特別な一団という結果になります。それをこのように見るとき、私たちの諸々の疑いや私たちの諸々の恐れはなくなります。これらの人々が誰なのかを特定するなら、他の立場は道を譲ることになります。

 私たちが小羊について述べてきたすべてのこととの関連の中でそれを見るとき、これが一体何を意味するのかが明らかになります。つまり、あなたは小羊に関する神の御言葉全体を理解し、この人々が誰であり、何者なのかを理解します。なぜならこの人々は、疑いなく、小羊というこの句が意味するすべてのもの、小羊の命、小羊の性格、小羊の御業を受け入れ、それにあずかり、その化身となったからです。

 これが示しているのは、第一に、小羊であるキリストとの特別な交わりによって選定・区別された一団です。小羊という言葉、小羊の御名に、それが持つすべての意味と合わせて、注意して下さい。次にここで、小羊であるキリストと特別な関係にある一つの民を、彼が小羊であることの意味と合わせて見て下さい。この群れに与えられる特別な栄誉があることに、疑いの余地はほとんどありません。彼らの地位は、特別な栄誉ある地位です。彼らについて述べるその口調は、主にとって大いに聖なる貴重な意味を持つ民について述べる口調そのものです。


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完全な統治

 そして次に、彼らは特定の人数であり、特別な一団であることが述べられています――彼らは十四万四千人です。これは確かに、「小羊」という言葉を文字通り受け取ってはならないのと同じように、文字通り受け取るべきではありません。それはある意味を帯びた数です。十二かける十二です。それは統治であり、統治の数であり、完全化された統治です。しかし、これは彼らを区別するものであることを、もう一度見て下さい。私たちは後で、誰も数えることのできない大群衆に来ますが、この人々は数えられています。彼らは、はっきりと異なる特別な一団です。

純潔な民

 彼らに関する他の特別な点にも注意してください。「地から外へ買い取られ(中略)女によって汚されなかった。彼らは純潔な者たちだからである」。この御言葉の中に、文字通りの意味を読み取ってはなりません。そのような意味はまったくありえません。旧約聖書と新約聖書の全体を通して、神の選びの民は純潔な民と見なされていますが、これはその特定の意味と調和しています。イスラエルが姦淫を犯したのは、他の諸国民、この世の民族と霊的関係を持つことによる姦淫でした。純潔の意味は次の通りです――すなわち、この世の背後にあるあの霊的体系から絶対的に分離して、その分離を維持することです。それとのつながりが決してあってはなりません。今日、この問題は喫緊の問題です。中国に行けば、これが喫緊の問題なのかどうか、自分がこの大きな姦淫に、大きな赤い龍に降伏するかどうかがわかります。今、それは生か死かの問題であり、この人たちは降伏しなかった人々です。彼らは純粋さを保ち、汚されませんでした。彼らは「小羊の行く所へはどこへでも従って行」きます。常にそうしてきたからです。それが習慣になったのです。これが彼らの内に生じて、彼らの中に造られた気質です。彼は地上でそうしましたが、そうし続けます。彼らは発作的に小羊に従う人々ではありません。ある日は前進するけれども翌日は後退するような人々ではありません。彼らは絶えず小羊に従っています。それは主イエスに対する徹底的な献身です。彼らは小羊への初穂です。「小羊への初穂」と述べられていることに注意して下さい。彼らの内で小羊の性格と御業とが初めて成熟に達します。彼らの中に、彼はまず御自分の魂の苦しみを見て、そして満足されます。それは小羊のためであり、その満足のためです。


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天のシオン

 しかし、「これは或る特定の群れのことである」と述べられていることがわかります。彼らは、まさにこの特徴によって、他の者たちから区別されています。彼らを見て、彼らが誰かを特定して下さい。彼らは地から外へ買い取られた一団であり、ただ単に地から買い取られたのでも、地において買い取られたのでもありません。地から外へ買い取られたのです。小羊への初穂となるために買い取られ、小羊と共にシオンの山の上に立っています。その場所は裁きの開始の前であることに注意してください。この群れは天にいます。これに間違いはありません。それゆえ、これは地ではなく天のシオンであることを、それは意味します。このシオンは天にあります。これはヘブル書一二章のシオンです――「あなたたちはシオンの山に(中略)天のエルサレムに来ているのです」。これがここのシオンです。これを述べておく必要があります。なぜなら、黙示録の中には、イスラエルの諸部族からの別の群れを伴う別のシオンもあるからです。それは七章の中にあり、それはこの群れではありません。これは天の一団であり、彼らは御座の前の天で歌っています。顕著な天的性質が、この人々の特徴です。他の何者にもまして、また他のすべての者たちの前で、この人々は天的性質を現します。

勝利者たち

 次のことに注意して下さい――これは途方もない効果を及ぼす点です――この書の最初の数章にある勝利者たちへの諸々の約束は、この群れにおいて成就されていることがわかります。主は勝利を得る或る人々に関して、「私は彼らの上に、私の神と私自身の新しい名を記そう」(黙三・一二)と仰せられました。こうあります、「彼の名と彼の父の名がその額に書かれていた」。この人たちは勝利した人々であり、諸教会の中の他の人々から区別されています。


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 この御言葉に特別な解釈を与えようとしたり、このような結果のいずれかをもたらす特別な教えを広めようとする意図は、私にはまったくありません。私が真に望んでいるのは、この問題の核心に至ることです。なぜなら、これには今この時、神にとって又その民にとって途方もない重要性がある、と私は考えているからです――今は終わりの時です。時には、諸々の疑いについて疑うことも必要です。主の権益で最も重要なものの幾つかが、しばしば最も疑問視されてきました。そして、その嫌疑自体が疑わしいものなのです。それは、何か別のものであることが明らかになります。そこには何かがあるか、敵が特に大反対している何かがあるのかもしれません。そこには、おそらく人に恐怖、反抗、憤りを抱かせて、その心を深く掻き立てるような結果をもたらす何かがあるのかもしれません。そのような類の事柄は、たやすくレッテルを貼られてしまうおそれがあります。あるいはそれは、その事柄の中に含まれているもののゆえに神にとって大いに重要な何かを、排除しようとする試みを意味するのかもしれません。ですから、「時には、自分の諸々の疑いについて疑うこと、自分の諸々の疑問に疑問を投げかけること、自分の諸々の反応を篩にかけることが必要である」と私は言っているのです。人気のあるものが必ずしも正しいとは限らないことを思い出そうではありませんか。歴史はそのようなものに満ちています。リスター卿はとても不人気で、防腐剤に関する自分の「理論」のために恐ろしい孤独な戦いをしなければなりませんでした。彼の正しさは一般的に証明されています。それには時間がかかりました。フローレンス・ナイチンゲールは、高位にあるすべての人たちと、必死の戦いを戦いました。彼女は実際には孤独でしたが、徹底的に支持されてきました。人気があるものは、必ずしも、真実、正しいものとは限りません。このような問題に直面する時、私たちはこれらのことを思い出さなければなりません。この問題は、すでに述べたように、疑いや反対によって曇らされてきました。

 しかし、この問題に近づくことにしましょう。確かに私たちはみな、次のことを信じる用意があります。第一に、「小羊の行く所へはどこへでも従って行く」ことは、重大かつ厳粛な重要性を帯びた事柄です。第二に、皆がそうしているわけではありません。これで一件落着ではないでしょうか?「これらの者は、小羊の行く所へはどこへでも従って行く」――これは神にとっても私たちにとっても最も大事なことです。そして、これは疑いや拒否の対象にすべきものではありません。


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 戦いと論争のこの領域において、とても多くのことを伝える一つの句があります。それは福音的クリスチャンの間ですら深刻な疑義が持たれている句であり、もしそれが神の御言葉の中になければ、私自身もこれが理由でそれを避けていたでしょう。しかし、使徒ヨハネが用いた一つの句によって生じた疑義を、私たちは彼に着せることはできません。そのような句を用いた時に彼が何を言わんとしていたのかを、私たちは誠実に理解しようとしなければなりません。私が述べているのは「初穂」という句についてです。「これらの者は(中略)小羊への初穂として(中略)買い取られた」。

 おそらく、この句を理解する最も助けになる有益な方法は、それが言及している十四万四千人が誰かを特定することに努めることでしょう。しかしそうする前に、すなわち、この群れが誰かを特定しようとする前に、その反対の姿勢に取り組んだ方がいいでしょう。なぜなら、そのような姿勢には理由があるかもしれないからです。真理の或る特定の面があまりにも強調されすぎて、それが全体的真理と見なされるようになる時――この問題に関しては、ある集団の中で、確かにこれが起きました――反対の姿勢には常に理由があります。また、そのような誇大な強調により、主の民が分裂して、排他的な優越感を抱く結果になることが許される時、それを疑って逆の態度を取ること、少なくとも反対の立場を取ることには一理あります。さらに、間違った点に強調点が置かれて、必然的にバランスの崩れた状況が生じる時、その問題に対する疑問を公にするのは正しいことかもしれません。そして、この特定の問題では、まさにそれが起きたのです。諸々の用語が造られましたが、それらは間違った点を強調するものであることが直ちに明らかになりました。例えば「携挙」という用語と、それと共に「選択的」というあのもう一つの言葉です。この用語は確かに間違った点を強調しています。このような句が使われる時、私たちは的を外します。この用語を造ってそれを用いている人々によって導かれた結論は、からだの分裂を意味します。主が御自分の勝利の喜びと恵みにより、誰かを臨在の中にもたらされる時――主はこれを私たちの生活でほぼ毎瞬行って下さっています――私たちは決して「あなたはからだの中に分裂を生じさせています」と主を責めることはしません。もし私たちがこれを知ってさえいれば、今この時、世界中の無数の場所から、神の子供たちはその臨在の中へと召す輝かしい召しに与っているところだったでしょう――言わば、集団全体が直ちに上っているところだったでしょう。主は残りの者たちを少し長く残すことによりからだの中に分裂を生じさせる、とは私たちは決して思いません。間違った点が強調されてきました。この間違いを直ちに取り除きましょう。なぜなら、それはまったく間違った前提だからです。


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