この戦いの領域

(a)この戦いは二つの王国の間の戦いである
 さて、ただちに要点に取りかかることができます。この戦いは二つの領域で作用します。第一に、神からのものとサタンからのものとが存在する領域で作用します。私たちはみなこれを知っています。これはこの敵意が作用する最も単純で最も明確な領域です。つまり、これはすべての再生された神の子供が、この命を受けるやいなや移る領域です。主のものとなって、主の喜びで満たされ、それから、誰もがこれを大いに喜んで歓迎してくれるものと期待しつつ、この世の自分の仕事や自分の生活圏に戻るやいなや、疑いの目を向けられて、雰囲気が怪しくなるのを、私たちはみな知っています。一言も話す必要はありません――敵意がそこにあります。大抵の場合、神の子供がこの世の中で動き回ると、一言も話していないのに、まさに敵対的・対立的雰囲気が生じます。これは想像ではなく、実在します。相手側の魂の命が強ければ強いほど、相手側は私たちの内にあるものをますます素早く察知します。何かがあるという結論に明確に達すれば達するほど、この敵意はますます明らかになります。つまり、単純で素朴な人々は、あなたのことを理解せず、あなたと同行することもできませんが、他方、強い魂の命を持つこの相手方の人々から出て来るものをあなたに話す事もしないのです。この外側の領域を私たちは知っています。その領域では、この敵意は明らかにサタンからのものと神からのものとの間のものです。これを辿る必要はありません。これはとてもよく知られています。


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 罪がある限り、神とのいかなる交わりもありえなかったでしょう。そして、罪が存在していたのです。罪に関して、あなたはどうするつもりでしょう?あなたは罪を清算することができません。罪は死ななければなりません。しかし、罪は抽象的なものではないこと、人は罪となったことを理解しつつ、人性――そこからいわゆる罪を取り出したり、根絶したりすることはできません――を取り扱うには、罪の無い別の人性を導入しなければなりません。その時、私たちに起きなければならないことは何でしょう?罪を引き抜いてもらうだけでなく、死んで、キリストに私たちのところに来てもらうことです。「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私ではなく、キリストです」。キリストの礼拝は、罪に反対する証しとして放棄された命によりました。

 これがアベルのうちに働いていたことがわかります。もちろん、アベルは自分の命を放棄しませんでした。この型はこの点で欠け目がありますが、原則は同じです。アベルの死は罪に反対する証しでした――「あなたの弟の血が叫んでいます……」。

 さて、この争いがわかります。この争いは全く明らかです。そこにはカインの死の道があります。この道は礼拝、神に対する感謝、神への献げ物、それ自身の領域では輝かしいもので満ちています。また、アベルの命の道があります。後者は献げ物という結果になります。物ではなく自分を献げます。そして、この献げ物は祭壇の上にあります。被造物は死ななければなりません。


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 さて、主イエスを見て下さい。主イエスは常にユダヤ人と反対の立場に立っており、ユダヤ人は主イエスと反対の立場に立っています。この対立は外面的なものでは全くなく、内側深くのものです。彼は礼拝しました。しかし、全く神に明け渡された生活によって礼拝しました。しかし、それ以上です。彼は神の性質そのものによって支配されている生活によって礼拝したのです。神は聖であり、神は義です。神には混合が全くありません。神は純粋です。神は光です。神の中に暗闇は全くありません。暗闇、もや、透明性の欠如の疑いはありませんし、それを示唆するものもありません。神が過去にいかなる方だったのか、そして今いかなる方なのかが、主イエスの礼拝を支配していました。つまり、神が過去にいかなる方だったのか、そして今いかなる方なのかを理解して、神に似つかわしくないものは何でも全て永遠に放棄しない限り、神を真理の中で礼拝することは不可能であることを、彼は分かっておられたのです。神を礼拝するために神の土台の上に来るには、そこに神に似つかわしくないものや、神に反するものを持ち込むことはできませんでした。真理の中で神を礼拝しなければなりません。偽りであるもの、嘘であるもの、矛盾であるもの、真実でなく非実際的な人間性を信じ込ませるものがたくさんあります。真の礼拝者になろうとするなら、そうしたものとすべて手を切らなければなりません。そして、ここでは神を弄ぶこと、神を欺くことは不可能であること、そのようなものが自分にある限り、神と交わることは不可能であることを、認めなければなりません。神がいかなる方なのかという思慮によって、あなたは完全に支配されることになります。これ以外のことをするのは、極めて敏感な人がいる所にやって来て、その敏感な人を苦しめるようなことを言ったり行ったりするようなものです。もしあなたが音楽家、音楽の才能のある人なら――あなたが演奏したことがあるかどうかということではありません!――あなたに音楽の才能があり、高度な鋭い音感があったとして、もし誰かがあなたの居る所にやって来て、絶えず不調和音をかき鳴らし、打ち叩いたとするなら、それがどんな苦しみか分かるでしょう。あなたは赤くなったり、青くなったりするでしょう。音にとても敏感な人を知っていて、あなたに特別な音楽の才能がない場合、もしあなたに良識があるなら、あなたはそのような人の前で演奏しようとは決してしないでしょう。私はある人のことを覚えています。その人はかなり上手なバイオリンの奏者で、バイオリンがとても上手な人の演奏を聴きに行きました。その人は後で私のところにやって来て、「私はバイオリンから足を洗うつもりです。二度と演奏しません。あの人が私の演奏を聴いたら、頭に来てしまうでしょうから!」と言いました。私の言わんとしていることがお分かりでしょう。要するに、主イエスはこのように神と同調しておられたのであり、彼が重んじられたのは神の性質だったのです。神は礼拝者に何を要求されるのでしょう?何らかの形式でしょうか?神を礼拝することは、罪に反対する証しとして放棄された命によりました。これを覚えておいて下さい!主イエスの死には様々な面がありますが、これはとても決定的な面です。主イエスの死は、罪に反対する証しとして御自身の命を放棄することだったのです。


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キリスト・イエスとユダヤ人

 さて、これをただちにキリスト・イエスとユダヤ人に当てはめることにします。ヨハネによる福音書ではカインについて用いられたのとまさに同じ言葉がユダヤ人にも使われていることがわかります――恐ろしいことです。しかし、私たちと主の全ての民が把握すべき要点は次のことです。すなわち、カインの立場に立ついわゆる不敬虔な者や、アベルの立場に立つ真の意味で敬虔な者について、私たちは必ずしも扱っているのではありません。私たちはもっと遥かに狭い領域の中にあります。肉に従うイスラエルと御霊に従うイスラエルがあるのです。

 ですから、当時のキリストとユダヤ人に向かうことにします。ユダヤ人は礼拝をしていましたが、殺人を犯しました。これは恐ろしい組み合わせです。彼らの礼拝はその領域ではとても敬虔なものであり、ある意味で代価を要するものでしたが、それにもかかわらず、外面的なものでした。これについて主の口にのぼった様々な御言葉をあなたたちに思い起こさせる必要はないでしょう。「あなたたちは器の外側を清める」「彼らは自分たちの経札を広くする」「あなたたちは長い祈りをする」。彼らは「まず人に見てもらうことを喜び」ました。等々。それは外面的でした。彼らの礼拝は彼ら自身の栄光であり、働きでした。彼らが礼拝をした時、彼らは自分たち自身に注意を引きました。そして、彼ら自身の礼拝を自己栄光化の機会としました。それはすべて形式の問題であり、その中に彼らはおそらく心を込めて飛び込みました。しかし、それにもかかわらず、それによって彼らは自分たちのために利益を得ることを求めました。礼拝ですら、常に彼ら自身に向けられており、実際のところ神に向けられてはいませんでした。彼ら自身の好みや利益のためでした。神の御心とは何の関係もありませんでした。神の満足だけを考えていたわけではありませんでした。


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カインとアベルが示していること

 キリストにある命の法則のこれらの働きの第二に移ることにします。これは旧約聖書もしくは創世記の七人の代表者の二人目に示されています。いま私たちが目にするのはカインとアベルです。ここでは、自らを対比的・対立的に示す命の法則・原則が見えます。命のある所では――私が話しているのは通常の人の命ではなく、神の命、霊の命、キリストであるところの独特で特別な命であることはお分かりでしょう。命はキリストであり、この命がある所には、必然的にこの敵意が生じます。これは常にそうであり、この命に反することをしない限り、この衝突を避けることも抑えることもできません。神の命がどこかに見つかるやいなや、敵意が現れて、戦いが始まります。

 ですから、私たちはここにこの命を見いだします。いま述べているのは予型の領域でのことです。アベルの道に命が見つかり、カインの道に死が見つかりました。私たちはその違いを調べなければなりません。その違いとは何でしょう?カインのことをとても注意深く眺めることにしましょう。

 私たちはカインについて皮相的な見方をして、極めて正当的で正しくはあるものの不適切な結論に至るおそれがあります。カインに対して大いに公平で、大いに厳密になりましょう。カインは神を無視したのではありませんし、神に外面的に敵対している者でもありませんでした。カインは神を認めていました。神を礼拝の対象として認めていました。カインは礼拝行為として、自分の知る最上の物、自分が持っている最上の物を神に持って来ました。私が言う「最上」とは、彼が知っていた最上のことであり、彼が知り得たはずの最上のことではありません。この領域においては、カインが持って来たものは良い高価なものでした。これを認めて、このように述べない限り、私たちは死と命の違いを理解する道の上にはありません。いわゆる死の道を黒色や暗色で描写して、「死の道は神に対する極めて凶悪な怒りという特徴を必ず帯びている」と考えても仕方ありません。「死の道に入るには、公然と積極的に神に敵対すること、神を無視すること、神を実際に認めることを拒否することが必要である」と思ってはなりません。死の道に入るのに、これらのことをする必要はありません。死の道はそれよりもさらに深いものであり、それよりも遥かに深いものです。先に進むにつれて、これがそうであることが分かるでしょう。

 カインは自分の天然の命の成果を持ってきたことがわかります。これはそれに尽きます。こう述べる時、もしあなたがこれを理解しているなら、あなたは事の核心に近づいたのです。

 アベルの場合、その姿勢は「生きるには死ななければならない」というものでした。神に受け入れてもらえるものを私たちは何も持っていません。神に拒絶される命しかありません。アベルは罪を認め、罪深い魂は注ぎ出されて死に至らなければならないこと、その魂、その働きや成果を神に献げてはならないことを見ました。カインの側では、魂が自分自身の善とおぼしきものの立場に基づいて受け入れてもらおうとしているのが分かります。


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