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 これが私たちの召しです。私たちが神の御旨と一致している限り、彼の御業は私たちの内で前進し続けることができます。まず大事なのは私たちの活動ではありません。神が関心を寄せておられるのは、私たちが彼のために何を行うかよりも、私たちの内に何がなされているかです。私たちが大いに働いている時よりも不活発な時の方が、私たちに対する御旨が果たされることがしばしばあります。モーセが荒野にいてあまり多くのことを行えなかった時、陶器師の御手が彼の上にありました。四十年の間、彼はただ羊の世話しかしませんでした。これはあまり大したことではありません。間違いなく、「自分は何のためにここにいるのでしょう。私の生活に何か価値はあるのでしょうか」と彼は時々疑問に思ったことでしょう。しかし、主権者たちや権力者たちは何かを見て、神の知恵に驚きました。この人をどのように備えればいいのか、この生活の中に御自身の道をどのようにもたらすのか、神は御存知でした。これは神の多くの僕にも言えます。神は益のために働いており、御自身の器を形造っておられます。私たちに対する彼の取り扱いの中には、必ず知恵があります。しかし、自分自身のために何の計画も個人的野心もないように、私たちは注意しなければなりません。土は完全に御手の中になければなりません。もし私たちがここにいるのが本当に神のためなら、神は御旨を遂げられること、彼は私たちの内で御旨を成就されることを、私たちは確信することができます。そして、そこに私たちは力を見い出します。

 あなたは自分が神の偉大な御旨の中にあることを確信しているでしょうか?誰もがその中に何らかの分を持っています。パウロは、教会について述べる時、これを次のように描写しています。「からだ全体は、各々の節々が供給するものにより、適切に組み合わされ共に結合されます」。体のどの部分も機能を持たないことはありません。各々のどの肢体も神の御旨の中になければなりません。とても小さな部分もありますが、それにもかかわらず、それらは同じように重要です。私たちは思い出さなければなりません。私たちが自分自身を神に明け渡す時に実現されるある目的のために、神は私たちを召されたのです。神が私たちを召されたのがどんなことでも、私たちは覚悟を決めてそれを行おうではありませんか。聖霊に所有された生活は常に目的を帯びています。そのような生活では、何も見落とすことはありえません。単なる一般論を信じないようにしましょう。それは十分良いものではありません。私たちの生活に対する神の御思いの中には、遥かに確かな何かがあります。個人的願望をすべて放棄して、「ただちに」と促す御霊に満たされようではありませんか。神に召されたことを知っている人たち、自分たちの生活の目的を明確に認識している人々は、自分をそれにまったく明け渡すでしょう。そのような人々は、この地上に属する物事に対して、もはや何の興味も抱きません。彼らには無駄にする時間はありません。彼らは自分の時間を贖い取らなければなりません。


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 パウロは彼の手紙の中で繰り返し「彼の御旨にしたがって」召された者たちについて述べています。エペソ書三・一〇~一一にはそうした明確な言葉の一つがあります。「それは今や、天上にいる主権者たちや権力者たちが、教会を通して、永遠の御旨にしたがって神の多様な知恵を知るためです」。私たちはこれを未来時制で考えるかもしれませんが、これは明確に「今」と述べています。神は今、御自身の教会の中で、主権者たちや権力者たちに教える何かをなさっています。私たちは目に見えない知的存在に囲まれており、彼らは私たちに対する神の取り扱いを見ています。彼らは私たちがくぐり抜けなければならない経験を見ています。それらの経験は神の永遠の御旨と関係しています。その御旨とは何でしょう?それは、私たちは御子のかたちに同形化されなければならない、ということです。エレミヤ一八・二~三には「立って、陶器師の家に下って行きなさい。その所で私はあなたに私の言葉を聞かせよう(中略)すると見よ、彼はろくろで作品を造っていた」とあります。主権者たちと権力者たちは、言わば、陶器師の家に下って来て見ているのです。陶器師の手の中にあるこの器は何でしょう?それは教会です。しかし、天の陶器師は御自身の器に満足されません。彼はそれを壊して、新しい器を形造らなければなりません。今、その土はろくろの上にあり、あらゆる種類の神の取り扱いと御業が必要です。そして、これらの目に見えない知的存在は、天の陶器師がどのように私たちを形造っておられるのかを見ています。私たちはこの土です。そして、陶器師が御自身の教会を形造っておられる間、私たちは時々、陶器師の手による圧力や切り込みを感じます。しかし、私たちの試練や私たちの苦難はみな、私たちの困惑はみな、私たちをこの目標にもたらすための神の方法にすぎません。彼の取り扱いはみな、私たちの上に影響を及ぼして、私たちの内に変化をもたらします。そして、より高度な知的存在たちはこれを見て、神の知恵に、そして、キリストがどのように私たちの内にますます形造られているのかに驚きます。


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 マルコによる福音書は明確さという特徴を帯びており、主イエスを主の僕として示しています。マルコによる福音書特有の言葉は「ただちに」という言葉です。この言葉はこの福音書の中に約四十回現われ、僕のあるべき姿を示しています。もし私たちが主とその奉仕のためにここにいるのなら、時間を無駄にできません。私たちの心は彼にささげきっていなければなりませんし、私たちの生活は彼への従順という目的意識によって特徴づけられていなければなりません。彼に関する私たちの姿勢は常に「ただちに」でなければなりません。

 ですから主イエスは、彼の人生と関係している御旨に関するこの知識から、多くの力を引き出されました。この目的意識から、私たちのものである神聖な使命に対するこの意識から、私たちも力を得なければならないことに疑いはありません。こういうわけで敵は常に私たちを落胆させようとします。敵は「お前たちの労苦は無駄である」と私たちに告げて、常に私たちの心の中に、この目標の達成可能性に関して、疑問や疑いを生じさせようとします。私たちの人生の使命に関する感覚を私たちから奪うことに敵が成功するとき、私たちの証し、私たちの働き、私たちがくぐり抜けなければならない苦難の価値に関して、私たちに疑いを抱かせることに敵が成功するとき、私たちは自分の力を失い、敵が優位に立ちます。

 イエス・キリストは最後まで神の力の中に保たれました。なぜなら、彼は使命感によって支配されていたからです。御自身の目的を堅く保たれたからです。もし私たちが自分の人生の目的を堅く保つなら、もし自分の天的召しに目をとめ続けるなら、私たちも力の中に保たれるでしょう。しかし、もし私たちが自分自身の何らかの野心を成し遂げようとするなら、もし自分自身の計画を遂行するなら、もし何らかの運動を進め続けるなら、私たちが利用できる神聖な供給源は何もないでしょう。力の中に保たれるには、自分が神の御旨の中にあることを知ることが不可欠です。私たちの奉仕は常に神の御旨の結果でなければなりません。自分は神の御旨の一角を占めていることを理解することが極めて重要です。私たちは自分自身を否まなければなりません。神の御旨の中には、個人的権益のための余地はありません。「神を愛する者たちには」、神とその御旨を成し遂げることとに専念している者たちには、「すなわち、彼の御旨に従って召された者たち」には、すべてのことが共に働いて益となります。これは、信者たちは神の御旨の中に召されていることを示す、明確な宣言です。自分は神の御旨の中にあることを、主イエスが知っておられたのと同じくらい明確に、私たちも知らなければなりません。


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 聖書の以下の節に見られるこの目的の強烈なしるしに注意することにしましょう。

 「私の食物は、私を遣わされた方のみこころを行い、その御業を成し遂げることです」ヨハ四・三四。

 「……私を遣わされた父(中略)私を遣わされた方を信じる者」ヨハ五・二三~二四。

 「……私を遣わされた方(中略)私を遣わされた父」ヨハ五・三〇、三七。

 この明確な目的を同様の方法で表している、次のような他の節もあります。

 「私が来たのは、彼らが命を持ち、豊かに持つためです」。

 「人の子が来たのは、失われた者を探して救うためです」。

 これらの引用すべての中に、一つの特別な使命が示されていることがわかります。この世界への主イエスの来臨の背後には、一つの明確な、予め定められていた目的があったことがわかります。彼は何らかの事業や運動のためだけに来られたのではありません。彼は運動を始めようとしていたのではありません。彼の全人生は神の御旨と関係していました。「世の基が据えられる前の」神の永遠の御旨の中には一つの明確な計画がありました。それを成し遂げるために主イエスは来られました。それが挫折しえないのは、これが理由です。地獄の門ですら、それに打ち勝てませんでした。

 主イエスの人生に単なる偶然はありませんでした。あらゆることに一つの明確な目的がありました。それゆえ、預言者イザヤは彼のことを「主の僕」と呼びました。主イエスは御自身の使命に関して「私はしなければならない」と何度言われたことでしょう。「私は私を遣わされた方の御業をしなければなりません」という彼の言葉は、義務感を帯びています。それは不明確なものは何もないことを物語っています。


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 この地上におられた時、主イエスは常に天の中で生活されました。彼は決して物事を当然視せず、まったく信仰による生活を維持されました。信仰の力の中で、また祈りにより、彼はこの地上の諸々の状況に勝利されました。祈りが彼の生活の中で大きな地位を占めていました。御父の栄光のために御自身の働きを果たすのに必要な力と手段を、彼は常に天的供給源から引き出されました。それは御父に関する信仰の働きであり、彼にとって必要なものでした。彼との合一による信仰と祈りの基礎に基づいて、私たちはさらにどれほど生きなければならないことでしょう!

 さて、キリストのこれらの隠された供給源の最後のもの――神の御旨の力――について考えることにしましょう。

 御自分が永遠の宇宙的御旨と関係していることを、主イエスは意識しておられました。マタイ一六・一八には、この御旨に関して彼が「私は私の教会を建てます。ハデスの門もこれに打ち勝ちません」と言われた、とあります。この発言の力と意義を理解しましょう。

 御自分が十字架への途上にあることを主イエスは御存知でした。生ける神の御子であるキリストに関するペテロの偉大な宣言の直後に、主イエスは、御自分がエルサレムに行って苦難を受けなければならないことを弟子たちに示して、彼らに十字架について語り始められました。さて、これに直面して、主は「私は私の教会を建てます」というこの計画的発言をされました。これは、キリストの命は死によって打ち負かされることがありえないことを明確に示しています。十字架はそれを損なうことができません。彼は事実上こう言われました、「私は十字架に付けられようとしていますが、私が来たのは私の教会を建てるためですし、私はそれを建てることになります。私が来た目的が妨げられることはありえません。十字架はそれを妨げることはできません」。ここに、彼の人生を特徴づけている、死よりも力強い、一つの明確な目的を私たちは見ます。そうです、彼は「ハデスの門もこれに打ち勝ちません」と付け加えることすらなさいました。暗闇の全軍勢も彼の人生の目的を妨げることはできません。なぜなら、それは永遠と、死と地獄が抵抗できない力と結びついているからです。


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