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死において私たちと一つである

 彼は私たちの分である試みをすべて受けただけでなく、死すべき私たちの運命から免れることもされませんでした。なぜなら、御言葉を読むと分かるように、彼が万人のために神の恵みにより死を味わうべきこと、死を通して死の力を持つ者を征服すべきこと、死の恐怖によって一生縛られていた人々を解放すべきことを、神は定められたからです。私たちの最後の獄屋である暗闇の門にすら、彼は入られました。「彼は万人のために死を味わわなければなりませんでした」という表現はとても示唆に富んでいます。これは、彼はご自分に結合されるすべての者のために苦い杯をすべて飲み干されたこと、そして死を味わわれたことを示唆するように思われます。今や、その杯に毒はなく、その刺に毒性はありません。彼はそれを味わわれました。しかし、私たちが彼にあるなら、私たち各人にとって死の苦さは過去のものです。「私の言葉を守る者は、決して死を見ることはありません」。その人が見るのは、私たちの祝された主と開かれた天の門だけです。その杯の中にあった死をキリストはすべて飲み干されました。今や私たちは喜びの叫びを上げて言います、「神に感謝します。神は私たちの主イエス・キリストにより、私たちに勝利を与えて下さいます」。

「死と呪いがその杯の中にありました。
 ああ、キリストよ、あなたのためにこの杯は一杯でした。
 しかし、あなたはその最後の黒ずんだ一滴まで飲み干して下さいました。
 この空の杯が今や私のものです。
 私のために、主イエスよ、あなたは死んで下さいました。
 そして、私はあなたにあって死にました。
 あなたはよみがえり、私の縄目はすべて解かれました。
 そして今、あなたは私の内に生きておられます。」


 最後に、彼は栄光の未来において私たちと一つです。


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試みにおいて私たちと一つである

 「万物はこの方のために存在し、この方によって存在しています。多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの将を苦難を通して完成することは、この方に相応しいことでした」。「ですから、彼には罪がありませんでしたが、あらゆる点で私たちと同じように試みをお受けになりました」。ですから、人のあらゆる苦難を彼は通られました。そして今、彼は自分の経験に照らして、試みを受けている者たちを同情して助けることができます。そして、彼らは試みの中にあっても決して一人ではないこと、彼は親身になって理解しており、その同情と愛によって支えていることを、彼は彼らに悟らせて下さいます。それだけでなく、彼はこの同情する力を依然として保っておられ、私たちが感じるあらゆる痛みの疼きを感じておられます。なぜなら、彼は「私たちの弱さを感じ取って同情する」ことができるからです。「同情する」という言葉には大きな意味があります。それは、私たちの問題は彼の問題であること、私たちが苦しむとき彼も苦しまれることを意味します。これは感傷的な同情ではなく、苦しむ同情です。

 これは、心が疲れている人にとって、大いに助けになります。これは彼の祭司職の基礎です。それが私たちにとって絶え間ない慰めの源となるよう、神は意図されました。私たちは私たちの偉大な大祭司と一つであることを、もっとよく理解しようではありませんか。そして、苦しむ愛という彼の偉大な御心に、私たちの重荷をすべて委ねようではありませんか。苦しんでいる自分の子供の痛みを痛切に感じたことがあるなら、私たちの悲しみがどれほど彼の御心に触れて、その高く上げられた体を震わせるのか、ある程度分かるでしょう。母親が自分の赤ん坊の痛みを感じるように、友人の心が友の苦悩の叫びに共鳴するように、天においても、私たちの高く上げられた救い主は、その幸せな世界の歓喜のただ中にあっても、その霊の中では苦しんでおられ、その体はすべての子供たちと共に耐え忍んでおられるのです。「ですから、私たちにはこのように偉大な大祭司がいて下さるのですから、恵みの御座に大胆に進み出ようではありませんか」。そして、忍耐と勝利をもって、このくびきを担おうではありませんか。彼はこのくびきの重い方の端を担って下さいます。しかし、彼はまた死において私たちと一つです。


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霊的経験において彼と一つである

 しかしまた、彼は霊的経験において私たちと一つです。私たちが受けるのと同じ恵みを、彼もまた受けなければなりませんでした。私たちが行使すべき同じ信仰を、彼は行使されました。この節で、私たちが神に信頼するのとまさに同じように彼も神に信頼したこと、そして、私たちが祝福を受けるとき教会のただ中で神を賛美するのとまさに同じように彼も神を賛美したことについて、彼は述べておられます。この偉大な先駆者は私たちの道のりとクリスチャン生活を経過されました。羊が従って行く所がどこだろうと、彼は以前すでに行っておられるのです。

 これはとても素晴らしいことであり、理解するのがやや困難です。私たちはキリストのことを、まったく異質で崇高な命をもって天から私たちの所に下って来られる方と思いがちです。そのため、私たちはキリストの教えの完全な意義をよく考えないで受け入れてしまいます。キリストは私たちと同じように、信仰と従順の生活の訓練をすべて通るよう導かれました。キリストは、「私は自分からは何も行うことができません。私は聞く通りに話します。私が来たのは自分自身の意志を行うためではなく、私を遣わされた方の御旨を行うためです」と心から言うことができました。「子は自分からは何もすることができません」、「父が私を遣わされ、私が父によって生きているように、私を食べる者は私によって生きます」。彼は祈りの助け、神との交わり、聖霊の絶え間ない供給に、私たちと同じように頼られました。彼は私たちが霊的生活で経験する戦いをすべて、実際に親しく理解して下さいます。

 ですから、こう告げる預言的描写の中に、私たちは彼を見いだします。「私を義として下さる方が、私のそばにおられる。私と争う者は誰か?それゆえ、私は自分の顔を火打ち石のようにした。私は辱められることがないことを、私は知っている」。これは信仰の言葉であり、私たちが勝利するのと同じように、試みの時に勝利する信仰でした。彼は私たちと同じ経験をしただけでなく、私たちをご自身の経験の中にもたらして下さいます。真の聖化の性質とは実際のところ、キリストの聖さを私たちに分与することです。これが、「聖別する方と聖別される者たちは、みなひとりの方からでているからです」という節の意味です。彼は私たちにご自身の聖さを与えて、聖潔の霊の中で私たちをご自身と一つにされます。「彼らのために私は自分自身を聖別します。それは、彼らもまた実際に聖別されるためです」と彼が言われた時、彼が言わんとされたのはまさにこのことです。彼はご自身を私たちにささげて下さいました。それは、私たちの内に生きて、彼ご自身の純粋で完全な命を私たちの経験の中で再産出するためでした。聖潔はこのように聖なるキリストの内住であり、人の霊のイエスの霊との合一です。

 しかしまた、彼は試みにおいて私たちと一つです。


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子たる身分において彼と一つである

 「それゆえ、彼は彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされません」。「見よ、私と、神が私に賜った子供たちを」。彼は下って来て私たちの人性を身にまとわれただけでなく、私たちを彼の神性の中にもたらして下さいました。なぜなら私たちは、実際に、彼を通して、「神聖な性質にあずかる者たち」だからです。彼ご自身の存在そのものが私たちの中に分与されます。そして、御父に対する彼の実際の関係に、私たちはあずかります。「行って、私の兄弟たちに告げなさい」と彼はマリヤに言われました。「私は、私の父またあなたたちの父、私の神またあなたたちの神のもとに行きます」。これは養子にされることではありません。出自不明な可哀想な子供が貴族の家庭に迎え入れられて、法的な息子・世継ぎになるのとは違います。そうではなく、その子供が再び生まれて、その貴族の家庭の血族になるようなものです。私たちは実際に神と同じ性質にあずかる者にされました。ですから使徒ヨハネは、私たちの子たる身分の深遠な現実を、素晴らしい言葉で見事に言い表しました、「見よ、私たちが神の子供たちと称されるために、何という愛を御父は私たちに授けて下さったことか」。それから彼は、「私たちは神の子たちなのです」と付け加えます。神の子と呼ばれて法的にそう宣言されるだけでなく、神の命と性質を受けたがゆえに、実際に神の子なのであり、私たちの主のまさに兄弟たちなのです。彼の人性において彼の兄弟たちであるだけでなく、それ以上に、彼の神聖な関係においても兄弟たちなのです。彼はこの権利にあずかる資格を私たちに与え、私たちをそれに相応しい者にして下さいます。彼は私たちを、そのための教育を受けていない不相応な立場に着かせるのではありません。私たちの輝かしい立場にふさわしい性質を私たちに与えて下さるのです。そして、私たちが完成されて輝かしい地位に着き、彼ご自身の似姿を反射して、御父の栄光の中で輝く時、彼が私たちをご覧になって恥ずかしく思う理由はまったくありません。

 今この時ですら、彼は全天全地の前で私たちのことを認めて下さり、私たちを兄弟と呼んで下さいます。ああ、これは最も低い神の聖徒にさえ、何と威厳を与えることか!彼は「私たちを兄弟と呼ぶことを恥とされない!」のですから、私たちはこの世の誤解を少しも気にする必要はありません。イギリスのある将校の話です。その将校は、目立たない地位から高い地位に昇進したせいで、仲間の将校たちから無視され、嘲られていました。彼らはその人の卑しい出生を忘れようとせず、冷たく無視して通り過ぎていました。それを聞いた彼の上官は、ある日、兵営の中に入り、その人の宿営に向かって行って、そこに腰を下ろし、しばらくの間、彼と話をしました。それから、上官はその人の腕をつかみ、将校たちの宿営の前を半時間ほど腕を組んで歩きました。上官が通り過ぎる時、将校たちは深い尊敬を込めて敬礼しましたが、この敬礼に上官の連れもあずかりました。それから、上官はその地を去り、将校たちは驚き謹んでそのあとを見送りました。その日を境に、この新しい将校は常に敬われるようになったのです。その上官は自分の部下を恥としなかったのです。

 このように、私たちの祝された兄弟は、私たちの親類であることを、天地の前で宣言して下さいます。このように、彼は私たちの祈りを御座の前にささげ、御父の御顔の前で私たちの名を認めて下さいます。そして、死すべき人の名を、この宇宙の最高法廷で誉れあるものにして下さるのです。


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なぜなら、聖別する方と聖別される者たちは、みなひとりの方からでているからです。それゆえ、彼は彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされません。(ヘブル人への手紙二章一一節)


 この節は、私たちがキリストと一つであることの麗しい絵図です。私たちは性質において彼と一つです。

性質において彼と一つである

 子供たちが肉と血にあずかる者なので、彼も同じようにこれにあずかる者となられました。「なぜなら本当に、彼は天使の性質を身にまとったのではなく、アブラハムの子孫を身にまとわれたからである」。この「同じように」という言葉は何と尊いのでしょう!彼には私たちとまったく同じ人性があり、実際に同情心をもって、私たちの衝動、感情、希望、恐れを理解することができます。私たちの主の完全な人性は、どれほど深く理解したとしても理解しすぎることはありません。彼には人の体があるだけでなく、理性を持つ魂や精神のあらゆる属性、そして、私たちが持つあらゆる感受性もあります。それだけでなく、彼はこの完全な人性を依然として保有しておられます。彼はこの人間性を神の右にもたらされたのです。

「人の名を持つ彼は、
 我々の成り立ちの脆さを知っておられる。」

 彼の神性という卓越した栄光のゆえに、この輝かしい重要な真理を霞ませてはなりません。神の御子である方は、同じように人の子でもあります。しかし次に、彼は子たる身分において一つです。


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