そこで今、コリント人への第一の手紙に向かうことにすると、最初に導入されているのはこの世であり、二番目が人、天然の人です。他方、三番目が諸々の関係や人の関わり合いです。そこで、このコリント人への第一の手紙はすべて、矯正するための手紙であることがわかります。それはこの世に触れ、人に触れ、人間関係に触れます。これはみな矯正的です。それでは、この手紙はもっぱら何を取り扱っているのでしょう?この手紙の関心はキリストのからだである教会です。「キリストは分けられたのか?」が、この手紙が私たちに突き付ける問いです。そして、「キリストの中には何の分裂も無秩序もない」と、この手紙はただちに答えます。この手紙を読み進むと、神の御心にしたがって教会を真に霊的に理解するなら、アダムを通して入り込んだ無秩序はすべて正されることがわかります。こうしたことがこの手紙の中で一つ一つ取り扱われています。

 これを別の言い方で、もう少し単純に述べましょう。キリストのからだである教会が神の御心にしたがって霊的に表現されている所では、アダムを通して入り込んだ混乱や無秩序といったものの余地は全くありません。それは排除されます。この世は排除されます。天然の人は排除されます。人間関係の中のこの無秩序は排除されます。教会は完全な神の秩序を表します。そしてこれは、その中にいると主張するすべての人に諸々の要求を突き付けます。その一つの根本的要求が、この矯正するための手紙の冒頭に見つかります。「私はあなたたちの間で、イエス・キリスト、十字架に付けられた方以外に何も知るまいと決意しました」。教会に属すると主張しているこの人々の上に課せられた、この一つの根本的かつ包括的な要求とは、主イエスの十字架を通して――これによりこの世は十字架に付けられ、これにより天然の人は十字架に付けられ、これにより人間関係の中の混乱はすべて十字架に付けられました――ただキリストだけを知るべきであり、ただキリストだけを認めるべきである、というものです。なぜならここで私たちは、教会の性質そのものである奥義に触れるからです。その奥義とは天からのキリスト、この世からのものが何もない、団体的に表現されたキリストです。地上の人にしたがっているのではなく、天的な人に関する神の御心にしたがっているキリストです。天的秩序の化身であるキリストです。私は組織という言葉が嫌いで、この言葉をしょっちゅう悪い意味で用いていますが、この言葉を正しい良い意味で用いることも可能です。もしそれを我慢していただけるなら、私は言いたいのですが、キリストは天的組織の化身です。キリストのからだである教会の中に入ることは、ある天的な組織、神聖な秩序の中に入ることです。ですから、この完全で神聖な秩序の領域がキリストのからだである教会であり、それは「そのキリスト(the Christ)」と呼ばれています。さて、これにより私たちはこの一般的真理の適用へと導かれます。


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神の秩序の一部である天的性質

 次に、天的性質は単なる何か抽象的な類のものではなく、物事の秩序、天的秩序の一部として現れることがわかります。秩序立った生活、秩序立った関係、天的秩序にしたがったあらゆるものの一部として現れるのです。次に見る必要があるのは、完全な神の秩序がいかなるものかということです。これについて黙想し、熟慮するよう、私はあなたにお勧めします。

 愛する人よ、今はかなり多くのものが矯正的であることがわかります。これは混乱と無秩序のせいです。最初、麗しい神聖な秩序がありました。どの領域、どの方面にも秩序がありました。すべてがあるべき所にあり、正しい関係を保って、完全な秩序のうちに機能していました。摩擦、矛盾、不安、圧迫は全くなく、すべてが安息に満ちていました。神は、はなはだ良い、と宣言されました。当時、神の標準に照らしてそう言えたからには、そのような秩序は大いに良いものであるにちがいありません。神の標準は私たちの標準より遥かに高いからです。摩擦や矛盾、圧迫や緊張のない秩序をある程度得るとき、「自分は何かとても良いものを得た」と私たちは感じるようになります。しかし、ああ、神の標準は何と高いことか!神があるものについて、「はなはだ良い」と言われる時、それは本当に良いに違いありません。

 しかし、次に混乱が生じました。すべてが無秩序になり、神の宇宙の調和は破壊されました。圧迫、戦いが生じて、もはや安息はありません。そしてその時以来、無秩序と混乱というこの要素が状況を支配し続けています。神の秩序がこの世界に回復されることは決してありませんでした。無秩序が至る所にあります。混乱が至る所にあり、あらゆるものの内にあります。諸々の要素の中にあります。人類の中にあります。あらゆる関係の中にあります。至る所にあります。そして今、神に関する限り、この混乱のせいで、すべてが矯正の過程の中にあります。

 まず第一に、この無秩序、この混乱は、人自身の中にあります。人はもはや調和しておらず、一つのまとまりでもありません。人はみな無秩序の中にあります。次に、この無秩序は人間関係の中に見られます。人間関係はみな、無秩序で転倒しています。次に、人が造ったこの世の中にもあります。人はこの世を造って、今の秩序を設けました。それは神の観点では無秩序です。この世の至る所に無秩序があります。これがどれほど正しいのかを示し続ける必要はありません。この世の至る所に、神ではないもの、神の意図ではないものが見つかります。秩序はなくなって、もはや見あたりません。


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 このもう一つの点に注意することにしましょう。この点は重要であり、興味深いです。この点とは、特別な方法でヤコブに対してこの「家」が登場する、ということです。アブラハムはユダヤ人国家の祖父でした。ユダヤ人たちは常に「アブラハムの子孫」と呼ばれています。しかし、アブラハムは父祖だったにもかかわらず、聖書の中に「アブラハムの家」という句は全く見あたりません。次に、神は何度も何度もご自身のことを「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と宣べておられるにもかかわらず、聖書の中に「イサクの家」という句は全く見あたりません。しかし、「イスラエルの家」という句はあります。ですから、これはみなヤコブに遡るのです。

 さて、この意義がわかると思います。イスラエルは天的で神聖なものを表しており、地的な人からのものを除いたものを表しています。ヤコブは地的なものの型です。イスラエルが道から外れた時、霊的に衰退した時、主はイスラエルのことを「ヤコブ」と呼び、御心にかなっている時は「イスラエル」と呼ばれたことはご存じでしょう。「イスラエル」は天的な面です。ですから実際に神の家が登場するのは、ありのままのヤコブに対してではなく、イスラエルに対してです。同じ人なのですが、今では言わば天に移されており、今や天的な人です。「見よ、イスラエル人を。この人のうちに悪巧みはない」(ヤコブはない)。これはナタナエルに対する途方もない誉め言葉だったと思います。すべてをご存じの主が、「ここに真に霊的な人、霊的洞察力と判断力と識別力を持つ人がいます」と言えたのです。そこに「ヤコブ」はいません。彼が言わんとされたのはこれだと思います。

 さて、原則はこれで十分だと思います。神の家は、人にしたがっているものをすべて排除して、神にしたがっているもの、天的なものをもたらすことを要求します。


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 さて、これが象徴的にヤコブのはしごに集約されていることがわかります。何かが天から降りて来て地に達しています。主はその上におられ、神の御使いたちが上り下りしています。これをヨハネ一章にあてはめると、この原則がこの世界の中に働いていることがわかります。「見よ、まことのイスラエル人を。この人の内には何の悪巧みもない」(ヤコブはいない!)。次にナタナエルに向かって言われました、「あなたはこれよりも偉大なものを見るでしょう(中略)これから後、あなたは天が開けて、神の御使いが人の子の上を上り下りするのを見るでしょう」。天と地、地と天をつなぐのはキリストです。キリストにあって、すべての神聖な伝達が人に対してなされます。「そこで神はご自身をあなたに啓示された」という御言葉を成就するのはキリストです。

 神の家はキリストです。しかし、覚えておいて下さい。これはキリストに個人的に言える一方で、この奥義の啓示として私たちが見るようにされたのは、神の家はキリストのからだである教会によって団体的に表現されたキリストである、ということです。そして、団体的キリストの中で、このからだの中で、キリストはかしらであり、そこに神の啓示と伝達があります。この神の家、教会の中に、ヤコブが「天の門」と呼んだものがあります。これが神のベテルです。

 すべてのことをまず天的な観点から、キリストにあって天から出たものとして見なければならない一方で、私たちはこの二番目の点を見なければなりません。すなわち、「イスラエル」のための場所を設けるために、ヤコブは排除されなければならないのです。つまり、人からのものはすべて排除されなければなりません。それは、神の家における神聖な秩序のための道を設けるためです。ヤコブはヤコブで、神聖な事柄を侵害し、生得権を侵害しました。確かに、神の主権により、ヤコブは生得権のために選ばれた者でした。しかし、神の選びは決して一方的なものではありません。神の選定には常に二つの面があります。一つは主権的行為である選びであり、もう一つは選びの器がそのために選ばれたものにふさわしくなることです。ですから、たとえヤコブが神の主権と選びの道筋の中にあって、生得権が確約されていたとしても――その本体として教会もそうなのですが――神の主権が取る別の道筋があるのです。その道筋とはつまり、ヤコブ的な立場から全く離れることです。嗣げるのはありのままのヤコブはないからです。嗣ぐのは「イスラエル」です。


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聖書朗読:創世記二八・一〇~一二、一九、ヨハネ一・四七、創世記三一・一三、三五・一、六、七、一コリント一・二〇

 私たちのために創世記の中で七人の人物によって示されている命の七重の働きについて、これまで考えて来ました。私たちの前の黙想では、七番目すなわちヤコブに到達しました。神の命の道としてヤコブが示していることに、私たちは再びこの黙想で専念することにします。

 神の家、教会、ベテルが、私たちの特別な目的です。再びヤコブを私たちの絵図として取り上げるなら、教会に関する限り、すべてはその地的面からではなく天的面から始まらなければならないことがわかるようになります。これがヤコブの生涯の支配的事実です。これが彼の人生をどのように解き明かすのかを見ることにします。

天の法則と支配

 ヤコブが彼の道を進んでその巡礼の旅を始めた時、それは地上における彼の巡礼の旅であるだけでなく、霊的過程の旅でもありました。この霊的過程は、彼の地上生涯や歩みのあらゆる出来事、事件、事象の背後にあるものでした。意義深く印象的なことに、この巡礼の旅で彼が最初に止まった地点が、一晩だけではありましたが、ベテルでした。そして、ベテルが天からのものとして聖書の中に初めて登場します。これが聖書における教会への最初の言及であり、ヤコブと共に登場します。それは天から出たものとして登場します。つまり、その天的な面から出たものとして登場します。そして、これがヤコブの残りの経歴や霊的巡礼を支配し、解き明かす法則となります。この時点で始まるのは、天的なものの統治です。そして、この統治が神によって導入される時、地的意志にすぎないものは、その瞬間から、罪定めと神の懲らしめの下に落ち込んで滅びに至ることになります。それは、すべてが少しずつ、その起源、その源、その発端にしたがって天的なものになれるようになるためです。私たちはこのすべてを包括する問いを発しなければなりません。「すべてはどこから始まり、すべてはどこに至るのでしょう?」。答えは一つです。すべては天において始まり、すべては天に至り、天において究極的に完成されます。これは、「すべてはキリストからです。天から出たものはみな、キリストからであり、キリストの中にあります」ということの別の言い方に他なりません。「万物は御子によって、御子のために創造されました。御子は万物よりも先にあり、万物は御子にあってまとまっています」(コロ一・一八~一九)。これに対応する真理は示しませんが、御子は万物よりも先にあるだけでなく後にもあることを示す御言葉がたくさんあります。


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