イエスに逃げ込め

 汚された時、われわれはイエスに逃げ込み、身を低くして汚れた足を貫かれた主の御手の中に置かなければならない。しかし、これがなされた時、信仰は「今や私は清められている」と告げる。

 自分の諸々の罪を告白したクリスチャンは、神の不興を買っているという意識や、汚れているという意識を抱えたままうろついてはならない。

 信仰は告げる、「私は神が私に要求しておられることを為しました。今、神は確かに信実であられ、それに関する御自分の分を果たして下さった、と私は信じます。神は私を赦して下さいました。その祝された御顔には何の険しさもありません。神は私を清めて下さいました。私は清いです。そして、神は再び私の存在の隠れた部屋の中に快く住んで下さると全く確信しつつ、私は神の奉仕の中を進んで行くつもりです」。

 われわれは、救いのときと同じように、それに関する神の役割を信仰によって受け入れなければならない。

 聖別のとき、われわれはそのために自分を明け渡し、次に、「神が御自分の役割を果たして下さることをあえて疑うつもりはないのだから、自分たちは聖別されている」と信じる。それと同じように、この聖別が汚される時、われわれはその詳細をことごとく神に告白し、喜んで立ち去る。なぜなら、神は再び御自分の役割を果たして下さった――われわれを赦して清めて下さった――とわれわれは信じるからである。

 結局のところ、これはすべて信仰による。われわれは信仰によって開始し、信仰によって進み続ける。われわれに要求されているのは単純かつ合理的なことであり、われわれはそれを為す。そして次に、神は為すと約束されたことを為して下さったとわれわれは信じる。

 結局のところ、これは何と単純なことか!私はこれをとても難しいものにしてしまったかもしれない。とはいえ、これを極めて単純なものにするよう私は心掛けてきた。

神に明け渡せ

 まず第一に、聖別のために神に明け渡すことである。それに続いて、信仰の明確な行動である。この信仰は告げる、「神はそれを為して下さいました。私は聖別されています」と。その後、汚れが侵入してきたら、告白せよ。そして次に、再び信仰の行動である。この信仰は告げる、「神は私を清めて下さいました。再び私は隈なく清くなりました」と。それから、神の輝かしい御力の現れを期待しつつ、われわれは神の奉仕の中を進んで行く。その時、彼の平安は「私たちの心と思いをキリスト・イエスを通して保(守)」ってくれるのである。


「キリスト・イエスにある新しい生活」 完


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 2.さて、備えに向かうことにしよう。この備えは、同様に崇高・単純・十分なものであり、神がわれわれのために用意して下さったものである。

 まず第一に、少しのあいだ、神の御言葉の中で最も馴染み深い節の一つを見ることにしよう。「もし私たちが自分の諸々の罪を告白するなら、神は信実で正しくあられるので、私たちの諸々の罪を赦し、すべての不義から私たちを清めて下さいます」(一ヨハ一・九)。

 それゆえ、汚れた者になった時、われわれには清めの問題に関して為すべきことがある。「もし私たちが自分の諸々の罪を告白するなら」。これは単なる罪深さの告白とは大いに異なっており、その重要性はそれよりも遥かに心を探るものである。われわれは罪深さの告白はたやすくする。「そうです、私は罪人です」と言おうとしない人は、われわれの内に一人もいない。

 「もし私たちが自分の諸々の罪を告白するなら」。これが意味するのはまさに、憎むべきものを一つ一つ持ち出して、それらを神に示し、「私はこのことやあのことをしました」と言うことである。親なら誰でも、子供たちから「不従順でした」という一般的告白を得るのはとても容易だが、「自分がしてきたことは悪いことでした」と言わせるのはそれほど容易ではないことに気付いているだろう。

 われわれの諸々の罪を告白することは、憎むべき罪を取り上げて、それを神の御前にさらけ出し、神にそれを見てもらうことである。神の御前に、その白光の中に、それをさらけ出すなら、罪はわれわれが誘惑に屈した時のように麗しいものには見えないだろう。

 これ――告白――が清めの人の面である。言うまでもなく、これは信者の特権である。キリストを拒絶する人が地獄に落ちるまで自分の諸々の罪を告白したとしても、その人の諸々の罪は相変わらず同じままだろう。「誰も私によらなければ父のもとにくることはできない」とキリストは仰せられる。救いには一つの道しかない――信仰の道である。しかし、信じてきたわれわれが自分の諸々の罪を告白する時、われわれは次の約束を要求することができる。

 「神は信実で正しくあられるので、私たちの諸々の罪を赦し、すべての不義から私たちを清めて下さいます」。

 最初に赦しであり、次に清めである。

 これは何と単純なことか!さて、これを私があなたに示した御言葉と関連付けよ。ペテロは「決して私の足を洗わないでください」と言い、キリストは「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関係もなくなる」と仰せられた。他に助けはないことがわかる。


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さて、少しの間、これらの汚れについて要約することにしよう。

忌むべきものを描かれた内なる部屋

 聖所の中の偶像、あらゆる種類の忌むべきものを描かれた内なる部屋、そこにいるのを好んでいるイスラエルの長老たち。他方、外の庭では、人々は神の祭壇に背を向けている。彼らは血のしたたる十字架を忍ぶにはあまりにも「進歩」しており、美的観点から太陽を礼拝している。

 さて、新約聖書に向かうことにしよう。

 「さて、ユダヤ人の過ぎ越しが近づいたので、イエスはエルサレムに上って行かれた。彼は宮の中で、牛や羊や鳩を売る者たち、また両替人たちが座っているのを御覧になった。そこで彼は縄でむちを造って、彼らをみな、羊も牛も宮から追い出し、両替人たちの金を散らし、その台をひっくり返された。そして鳩を売る者たちに言われた、『これらのものをここから運び去れ。私の父の家を商売の家とするな』」(ヨハ二・一三~一六)。

 おそらく、この節の教えを、神礼拝のために建てられたブロックや石や木でできた宮に適用しようとしている人もいるかもしれない。しかし、さらに深い真理が常に象徴の背後にあるのである。ここで描写されている思想は、人の天然の力を売り渡して単なる利益の追求の道具とすることである。体を利用して、それを金儲けの機械とすることである。

金儲けの機械

 あるいは、体を他ならぬ飲食用の機械とすることである。この体は神の宮である。われわれはこれに心当たりがあるのではないだろうか?

 さらに述べるまでもなく、これは確かにわれわれを探るものである。われわれは、偶像を思う思いを自分自身と神との間に割り込ませて、それにもかかわらず愛していると言い張る。また、心の思いは汚され、想像力は清くないものへとさ迷わされ、内なる部屋には秘密の汚れた像が描かれている。自然や自然法則を礼拝する狂った礼拝により、神の祭壇に背を向けている。


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「それから彼は私に言われた、『ああ、人の子よ、あなたはこれを見たか?さらにもう一度向きを変えよ。そうするなら、これらよりもさらに大いなる忌むべきものをあなたは見るだろう』」。

さらに大いなる忌むべきものを見る

 「そして、彼は私を主の家の内庭に連れて行った。すると見よ、主の宮の入口の、廊と祭壇との間に、二十五人ほどの人が、主の宮に背を向け、顔を東に向け、東に向かって太陽を拝んでいた』」。

 さて、太陽礼拝のまさに本質は自然礼拝に他ならない。われわれが自然を見渡す時、太陽はわれわれの目に映る最も輝かしい物体である。それは、その上に命と慰めとそういったすべてのものがかかっているものである。したがって、神から離れ去った心にとって、太陽が自然の諸力に向けてなされるこの礼拝の一種の中心になるのも自然なことである。

 「あなたはこれに関する考察に時間を浪費しています。この国には太陽礼拝のようなものはありませんし、私たちが神の祭壇に背を向けて太陽を拝んでいるようなこともありません」と、あなたは言うかもしれない。

 申し訳ないが、あるのである。これはまさに最も巧妙な忌むべきものなのである。

最も巧妙な忌むべきもの

 これこそまさに、今日、キリスト教徒の思いと心の中に許されているものである。これは、現代教会がいわゆる科学を異常なほど敬っていることに表れている。大衆は、創造や人の起源に関する聖書の記述から、いわゆる科学者たちの改良された理論やもっともらしい仮説に転じつつある。それらの理論は神を現象の背後に隠して、超自然を否定するものである。信仰を告白する数百万のクリスチャンが「霊の世界における自然法則」という本を買っているのを見よ。

 おそらく教会史全体を通して、今ほど、このように神の祭壇と神の宮に背を向けて自然崇拝に転じたことはなかったし、これらのものがこのような深刻な害を及ぼすこともなかった。信仰を告白する数百万のクリスチャンにとって、ドラモンドとダーウィンはモーセよりも権威があるのである。


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すべては隠されていた

 壁に描かれていた言語を絶する忌むべきものも、イスラエルの長老たちが隠れて香を捧げていることも、すべては人の目から隠されていたのである。

 しかし、この型を適用することにしよう。われわれ自身、この宮に対応するものである。外庭、聖所、至聖所は、体、心、思いに対応している。これらすべてに関して、われわれはいくらか知っているのではないだろうか?われわれは聖別の行為により、イエスに全存在を所有してもらい、彼を心と思いの中に奉納した――その後、想像を解き放って内なる部屋の壁に世人が見たがらない絵を描いたのではないだろうか?しかも、教会通いを続けて――おそらく、日曜学校で説教したり教えたりしながら――神の民であると告白して世人の前で生活しているあいだ、そこに入ってこれをすべて眺めるのを好んでいるのではないだろうか?われわれはこれを自覚しているのではないだろうか?あるいは、もしそうでなくても、われわれは偶像を宮の中に置こうとしているのではないだろうか?

大切なもの

 口では常に「そうです、神は至高です」と言いつつ、何か大切なものをわれわれと神との間に割り込ませようとしているのではないだろうか?これについてわれわれには心当たりがあるのではないだろうか?それは金や、社会的地位や、習慣かもしれないし、あるいは自己――あらゆるものの中で最も醜い偶像――かもしれない。

 「そのとき彼は私に言われた、『人の子よ、イスラエルの家の長老たちが暗い所で行っていること、各々その想像の部屋で行っていることを見たか?』」。

 これはみな暗闇の中にあった。自分の想像が描いた絵を、われわれは喜んで外に持ち出して、われわれの仲間に見せようとするかどうか、私には疑問である!

 「彼はまた私に言われた、『さらにもう一度向きを変えよ。そうするなら、彼らが行っているさらに大いなる忌むべきことをあなたは見るだろう』。そして、彼は私を、北に向かっている主の家の門の入口に連れて行った。すると見よ、そこに女たちが座ってタンムズのために泣いていた」。

 タンムズ――太陽神礼拝である。太陽が沈んだ時、まるで彼が死んだかのように、彼らは泣くことによって彼を礼拝した。そして毎朝、まるで彼が再生したかのように、彼らは太陽に挨拶した。これは主の宮にとって大問題だった。そうではないだろうか?


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