当ブログを御覧の皆様

いつも当ブログを御覧いただきありがとうございます。このたび、C. I. スコフィールドの「真理の言葉の正しい切り分け」の電子書籍の校正を終了し、正式版を無料公開しました。

今回用意した電子書籍は epub3.0版kindle版の2種類です。epub3.0を閲覧するには専用のリーダーをお使い下さい。また、kindle版を閲覧するには、Kindle PaperwhiteあるいはPC用のソフトKindle Previewerをお使い下さい。なお、本書は著作権フリーですので誰でも自由に閲覧・配布することができます。

使徒パウロは同労者であるテモテに対して「あなたは真理の言葉を正しく教え」なさい(二テモ二・一五、口語訳)と勧めました。ここで「正しく教え」と訳されている言葉はギリシャ語原文では orthotomeho であり、「真っすぐに切る」「正確に分割する」を意味します。これは、「恥じるところのない練達した働き人」(二テモ二・一五)となるには、真理の言葉を正しく切り分ける能力が必要であることを示しています。本書は以下の重要な項目に関して、真理の言葉の適切な切り分け方を示しています。

 ・ユダヤ人、異邦人、神の教会
 ・七つの経綸
 ・二つの降臨
 ・二つの復活
 ・五つの裁き
 ・律法と恵み
 ・信者の二つの性質
 ・信者の立場と状態
 ・救いと報い
 ・信者と口先だけの者

真理の言葉の適切な切り分けに失敗するとき、歴史が示しているように、信者の間に無用な誤解・混乱・対立・分裂等が生じます。そしてその結果、信者の霊の命の成長は阻まれ、キリストのからだである教会も損なわれます。残念なことに、今日、多くのクリスチャンや団体がそのような悲しむべき状況にあります。本書はこのような問題を解決するための一つの助けとなるでしょう。また、本書は特に、「練達した働き人」(二テモ二・一五)となることを願う人々に大きな益を与えてくれるでしょう。

どうか主が本書を御旨のために大いに用いて下さいますように。

オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 管理人


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 これはみな、次の点と緊密に関係している。

 振る舞いである。義務がしばしばとても困難であるだけでなくとても退屈でもある理由は、すぐにわかるだろう。その困難さや不快さは正しい状態の欠如から生じることが多いのである。

 「もしあなたたちが協力的であって従順であるなら」。この二つの事柄の順序に注意せよ。協力的であることは神の思いと一つである状態である。この調和がない時、交わりがやんで力がもはや流れていない時、振る舞いは駄目になる。

 振る舞いとは行動する意志に他ならない。神をあがめて、われわれを神の微笑みの中に保つ歩みは、神の意志と一つである意志の働きである。

 自由とは律法からの自由――許可証――ではなく、律法の中の自由である。

 律法を伴わない自由なるものがある。これが真の自由に関する天然の人の理想かもしれない。しかし「不法」は、神の判断によると、まさに罪の本質である。

 律法の下にある状態もある。しかし、これは束縛の状態、律法主義者の状態である。

 律法に対して取りうる第三の幸いな関係は、律法を造り込まれて自分の内に律法を持つことである。心という肉の板の上に神の御霊によって記してもらうことである。

 自由とは勝手に振る舞うことではないし、支配されることでもない。厳密には、自制している状態にあることでもない。それは神の支配の領域内にとどまって、自分の中及び周囲に命の霊を持つことである。

 その性質を伝達して下さる聖霊は、この状態をも生み出して下さる。そして、この状態からこの振る舞いを生み出して下さる。「御霊の実」(ガラ五・二二)からこれがわかる。第一に、われわれは自分の内に生み出される心の状態を持つ。すなわち、「愛、喜び、平安」である。内的・意識的祝福のこの状態が、あらゆる外的な実際的従順の前に、まず生み出されなければならない。聖霊が嘆くことなく――非難する者というよりはむしろ慰め主として――住んでおられる所では、これが味わうことを許される聖霊の実の最初の部分である。信者は多かれ少なかれ、神の愛の中に住むこと、神の喜びで満たされること、神の平安の中にとどまることがどういうことなのかを知ることになる。

 この状態が、他者に対する実際的振る舞いにおいてもたらすのは、「寛容、親切、善意」である。そのような振る舞いが、性格の建て上げにおいてもたらすのは、「誠実、柔和、自制」である。

 この最初の三者の中にあるのは内的気質である。二番目の三者の中にあるのはその外的現われ、最後の三者の中にあるのは個人的性格である。これは、神の御子のかたちへのわれわれの段階的造り変えにおける四番目の最後の要素を考察するよう、われわれを導く。


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 もう一つの節は「しかし、わたしたちはキリストの思いを持っています」(一コリ二・一六)である。使徒は福音や啓示された諸々の真理のことを、神の知恵、御霊の事柄として述べている。これらの事柄は神の霊から離れては知りえない、と使徒は宣言する。しかし次に、彼は読者に次のことを思い出させる。すなわち、彼らは神の霊を受けたのであり、それは彼らがこれらの事柄を知ることができるようになるためである。天然の人、あるいは再生されていない人は、これらの事柄を理解できない。「キリストの思い」を持つことは、霊的な思いを持つことである。

 しかし、再生された人でも非霊的になる可能性がある。「天然の人」だけでなく信者ですら、「キリストの思い」を持たないおそれがある。コリントのクリスチャンたちは「肉的」――ただの「赤子」――になってしまい、もはや霊的に識別することができない(一コリ三・一。付録の注記B参照)と使徒は宣言したが、信者もそうなるおそれがある。

 「キリストの思い」は、すべての霊的知覚、すべての神を知る知識の成長のために欠かせない条件である。聖書の中でわれわれに啓示されている「測り知れないキリストの富」を理解する鍵がここにある。この心の状態を持たなくなる時、われわれは霊的知性を持たなくなるか、神の教えを受け入れなくなる。

 日毎の導きという問題にも、これと同じことがあてはまる。人生の絶え間ない出来事の中で神の御旨を素早く理解するには「キリストの思い」が必要である。

 「自分の義務だと信じていることに関して、ほとんど瞬間的な即断を下すことが必要になる時が、われわれの人生の旅路の中には無数にある。その分かれ道では、おそらく、友人の所に行く余裕や、真理に関する神託を聞きに行く余裕はほとんどないかもしれないし、自分自身の胸中の問題を熟慮する余裕すらないかもしれない。そのような時、正しいことを瞬時に知覚する能力は無上の賜物である。

 さて、聖なる事柄に親しんでいる人々は、徐々に、いかなる主題についても何が神の思いや御旨であるのかが分かるようになる。これは驚くべきことである。それは第二の霊的感覚の一種である。その過程を説明することはほとんどできないが、それがもたらす結論は概ね正しいものであり、外面的検討や熟慮よりも遥かに良いことがしばしばである。(中略)最初の考えの方が二番目の考えよりも良い。なぜなら、最初の考えでは人からのものがより少なく、御霊からのものがより多いからである。

 その最初の考えがこのように信頼に足る人々とは誰か?この人々は愛と知恵の泉である御方と絶え間なく長きにわたって交わってきたことにより、この御方の観点から物事を見、この御方の基準によってそれを評価し、この御方の愛情を感じるようになったのである。そのため、彼らは『私たちはキリストの思いを持っています』と言えるのである」(ブライトンのジェームズ・ボーハン師)。

 だから、霊的な思いを持てるようになるには、再生――新しい性質の伝達――が必要であると主張する一方で、新創造となった人でもこの世的な状態の中に落ち込むおそれがあることを忘れないようにしようではないか。「肉的な思い」を持つ者になるかもしれないのである。未再生の人にはなりえないが、堕落するかもしれない。御霊の事柄を思うのをやめて、肉的な事柄を思っているのかもしれない(ロマ八・五~六)。キリスト・イエスにある新創造となっている人々とはまるで無関係であるかのように、ローマ八章のこれらの節を読むことがないようにしようではないか。これらの節が指し示している心と思いの状態は、悲しいことに、神の子供たちの多くが頻繁に陥るものなのである。その結果は何か?霊の自由と力をすっかり失ってしまうことである。自分の存在中の法則に従うとき、自由を見出す。神の性質にあずかる者として、もし自由でありたいなら、われわれは神の性質にふさわしい状態に絶えずとどまらなければならない。

 「キリストの思い」はこのように、誘惑の力に対するわれわれの盾となる。


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 しかし今やわれわれは状態に来る。霊的性質と霊的思いは異なる。クリスチャンはみな、御霊から生じた性質を有している。しかし、すべてのクリスチャンが霊の思いを持っているだろうか?

 深い重要性を持つ文脈の中で「キリストの思い」に言及している三つの節を見ることにしよう。

 「キリスト・イエスのうちにもあったこの思いを持ちなさい」(ピリ二・五)。これが述べているのは、自己に関して考える思いの状態である。それは自己を全く無視する思いだった。「彼は御自身を空しくされました」。徹底的自己抑制というこの路線に沿って、彼は御父をあがめた。彼ははっきりと「私は自分自身からは何もすることができません」(ヨハ五・三〇)とわれわれに告げておられる。つまり、自分自身からは何一つできないということである。また、「私は自分自身では何もしません」(ヨハ八・二八)。あるいは、「私は自分からは何もしていません」。「私は自分で(あるいは、自分から)話しているのではありません」(ヨハ一四・一〇)。彼は僕の立場――子の立場――を取られた。子たる身分の観念はまさに依存の観念を含む。「完全な子たる身分は、意志と行動が御父と完全に一つになることを含んでいる。(中略)『私のうちにおられる御父が御業を行っておられるのです』(ヨハ一四・一〇)。正しい読み方によると、私のうちに住んでおられる御父が御業を行っておられる、ということである」(カノン・ウェストコット)。

 今や、信者はキリストが歩まれたように歩むよう命じられる。この完全な自己否定の思いは、それゆえ、維持すべき状態である。「この思いを持ちなさい」。彼が御父のうちに御父に基づいて生きたように、われわれもキリストのうちにキリストに基づいて生きるべきである。

 われわれが正しい状態にある時、自己ではなくキリストがわれわれの存在の中心を占有される。その時、彼は内側で王として妨げられることなく統治される。筆者は、そう遠くない昔のこと、長年にわたってクリスチャンだった人が、以下の言葉を述べるのを耳にした。「私は、キリストが王であることを聞いてきました。確かに、キリストは私の中で治めておられました。しかし、それは立憲君主としてにすぎませんでした。私が首相だったのです。私が自分でかなりの働きをしていました。その後、キリストが絶対君主でなければならないことを私は見い出しました。そして今では、キリストが絶対君主なのです」。この思想の中にどれほど多くのことが込められていることか!この状態にどれほど多くのことがかかっていることか!ある意味で、すべてがこれにかかっているのである。

至高の天よりも高く、
 深甚な海よりも深く、
主よ、あなたの愛は遂に征服なさいました。
今、私の魂の願いをかなえて下さい、
 「自分からのものが何もなくなって、すべてがあなたからになりますように」。

セオドア・モノド牧師



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当ブログを御覧の皆様

いつも当ブログを御覧いただきありがとうございます。このたび、メアリー・マクドゥーノフの「神の贖いの御計画」の電子書籍の校正を終了し、正式版を無料公開しました。

今回用意した電子書籍は epub3.0版kindle版の2種類です。epub3.0を閲覧するには専用のリーダーをお使い下さい。また、kindle版を閲覧するには、Kindle PaperwhiteあるいはPC用のソフトKindle Previewerをお使い下さい。

本書は神の贖いの御計画の全体像を命の観点から簡潔に示しており、命の道に従って主を追い求めるすべての人にとって大いに有益です。なお、本書は著作権フリーですので誰でも自由に閲覧・配布することができます。

どうか主が本書を大いに用いて下さいますように。

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