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 弱さの時代にあって、次のことに決着がついていないなら、私たちは神にとって何の役にも立ちません。すなわち、キリストは復活されたこと、神はキリストのゆえに私たちを受け入れて下さったこと、この愛されている御方にあって私たちは愛されていることです。とても多くの人は依然としてこれを確信していません。主は自分たちを大いに喜んでいて本当に自分たちを愛して下さっているのか、それとも、主は自分たちに敵対しておられるのか、彼らは戸惑っています。そして、主はそもそも自分たちを喜んでおられるのかどうかに関して、彼らは絶え間ない恐るべき内省の中を堂々巡りしています。彼らは束縛の中にあり、他の魂を解放するために手を上げることができません。大事なのは私たちがいかなる者なのかではなく、神の恵みは私たちをいかなる者にできるかです。神の恵みのゆえに、私たちは愛されている御方にあって受け入れられています。神はキリストのゆえに私たちを受け入れて下さいました。そして私たちの欠け目はみな、キリストのパースンによって埋め合わされています。彼は私たちの十全性となって、是認の明確な証拠をもって神の御前に立つ立場を私たちに与えて下さいました。これはみな恵みによります。私たちがいかなる者なのかにはよりません。もし私たちが自分自身をまったく主にささげるなら(あなたはそうしましたか?)、主は御子の完全性をすべてもたらし、それらを私たちの口座に繰り入れて、御子のゆえに私たちは愛されている御方にあって受け入れられている保証を私たちに与えて下さいます。これに決着をつけなさい、そうすればさらなる一歩を踏み出すことができます。これに決着をつけない限り、あなたは弱さ、束縛、敗北、無力さの中にあります。ですから彼は自分の供え物を、神に受け入れられるかどうかの試金石として、主にささげました。これが彼の訓練の第一段階でした。その時、彼は主を少しばかり信じたのです!


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 第一に、彼のいけにえです。彼の祭壇が築かれ、その上に彼のいけにえが置かれました。そして、主の御使いがそれに触れると、それは燃やし尽くされて、火の中で上って行きました。ここでギデオンは自分を主にささげて、主が自分を受け入れて下さったことを自ら目撃します。この贈物は、自分自身を主にささげる贈物・行為を表していました。「ですから、兄弟たちよ、神のあわれみによってあなたたちに懇願します。どうかあなたたちの体を、神に受け入れられる、聖なる、生きたいけにえとしてささげなさい」(ロマ一二・一)。すべてが焼き尽くされて主に届きました。そして、あなたは主のものであり、主に受け入れられたという証しがなされます。ギデオンが彼のいけにえを持ってきた時、彼の試練は、主は受け入れて下さるのか、そして、受け入れたことを主は示して下さるのか、ということでした。これが彼の信仰を構成する第一段階です。この原則は次のように有効です。すなわち、神の力の中であなたが自分の務めに踏み出す前に、主は喜んで自分を受け入れて下さるという保証を、あなたは自分の心の中に得ていなければならないのです。

 主イエスはヨルダン川で成し遂げて御自身をささげられました。型として、ヨルダン川で御父に全焼の供え物をささげられたのです。死、葬り、復活の中でです。マルコによる福音書は「あなたは私の愛する子、私はあなたを喜ぶ」と述べています。ルカとマタイは「これは私の愛する子」と述べています。この変化は意義深いです。なぜなら、マルコでは重点は主の僕だからです。この僕が力ある神聖な奉仕に踏み出す前に、自分は神に受け入れられているという証しを彼は得ていなければなりません。そして次に、その奉仕の結果、主は喜んでおられるがゆえに、主は他の人々の注意をその御方に引きます。これがギデオンに見られます。まず第一に、彼がしたことのゆえに人々は彼を殺そうとしました。彼は自分の供え物を主にささげて、主は喜んでおられるという証しを得ました。そしてその後、彼を殺そうとした人々ですら彼の下に集まりました。まるで主がこの人に注意を引かれたかのようです。神が彼を受け入れられたので、彼らは彼を受け入れなければなりませんでした。


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 これが主に対するギデオンの返答でした。霊の力の回復の問題では、私たちは進みながら断片を拾い集めなければなりません。これがその道です。その後、信仰を構成する神の働きが始まりました。それはギデオンを神の御心通りの地点にもたらすためです。神の御心では、彼は勇敢な勇者でした。しかし、彼自身はそうではありませんでした。そこで、彼が神の御思い通りの者になる過程が始まりました。そして、それは信仰が構成される過程であり、彼の将来の務めの間ずっと彼がその上に立つべき信仰の基礎でした。というのは、霊的に広まっていた東方の民の手からギデオンがイスラエルを解放したのは、強力な信仰に基づいていたことがわかるからです。

 ヘブル十一章「私はさらに何を言いましょうか。ギデオン、バラク等々について述べるには時間が足りません。彼らは信仰を通して……」。それはこのような類の信仰です。そして、構成されなければならなかったのは、神を信じる信仰でした。それは、この事柄、この強大な力を力強く投げ倒し、絡みついて麻痺させるこの世とその圧政から主の民を解放するすためでした。これが世に打ち勝つ勝利、すなわち私たちの信仰です。そのような信仰を構成するには、深刻な経験の道を通らなければなりません。これらの士師たちはみな、イスラエルを解放できる地点に到達するために、ある経験を通らなければなりませんでした。弱さの時代に、解放の務めや霊の力の秘訣を見い出すには、神があなたを通らせる深刻な経験が必要です。その経験の中で、そしてその経験によって、あなたは神に信頼することを学びます。信仰の何たるかを学びます。私たちの多くにとって、それは長引いているものであり、ギデオンに対する単純な試練によって示されています。これらの試練の見る時、三つの点に気をつけて下さい。


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 さて、次の出来事はギデオンが問いを発したことであることに気づきます。それは麗しい問いです。それは議論のように聞こえます。「主が私たちと共におられるなら、どうしてこのようなことが私たちに降りかかったのでしょう?」。ここで言葉が一つ変わっていることがわかるでしょうか?どうしてこのようなことが「私」にではなく「私たち」に降りかかったのでしょう。この意義がわかったでしょうか?ギデオンは自分自身に生きていたのではありませんし、自分自身のために生きていたのでもありませんでした。彼は彼の民と密接に苦難を共にしていたのです。神の民と密接に苦難を共に共にしない限り、神に用いられる僕には決してなれません。御民から離れて立って彼らを攻撃するような僕を神は用いられません。ダニエルの務めを得たいなら、彼の重荷を負わなければなりません。エズラの務めを得たいなら、彼が持っていた情熱を持たなければなりません。彼は状況のゆえに心から苦しんで、神の前で顔を伏せました。彼は主の民の霊的状態を案じていたのです。

 主が得ようとしておられるのは、離れたところに置いて方々の御民の霊的状態をこきおろすためのものではなく、共に苦しむことによって彼らを助けるものです。この僕は彼らを心に留めます。自惚れに注意しなさい。何らかの経験のゆえに「自分は他の人たちよりもましである」と考えて、彼らがあるべき所にないという理由で他の人々を「攻撃」し始めてはなりません。神の御言葉を最初から最後まで見るなら、この原則が続いていることがわかります。すなわち、御自身の民の状況を対処するために神が僕を起こされる時は常に、その僕は恐ろしく苦しむのです。エゼキエルは「彼らが座していた所に座し」ました。状況に接してそれに圧倒される人は損害を被ります。イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、パウロはみなこの地点に達しました。パウロは言いました、「私は私の兄弟たちのためなら、自分自身が呪われることを望みます」。彼らをこきおろすのではなく、彼らの苦しみの中で苦しみます。彼は状況に深く触れています。このような類の僕を主は得なければなりません。すなわち、ありのままの状況に同情しつつ交わりを持つ人です。


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 ギデオンの箇所に来ると、主は言わば壁の後にやって来て、木の下に座し、ギデオンがミデアン人から少しの食物を保とうとして隠れて働いているのをご覧になります。その後、彼はギデオンに「勇敢な勇者よ、主はあなたと共におられます」という極めて驚くべき言葉を語られます!彼は到底勇者などではありませんでした。「私は私の父の家で最も小さな者です……」。彼は試されて、彼の父の偶像、画像、林を破壊するよう命じられた時、それを夜に行いました。それを昼に行うのが怖かったからです。その後、彼は行動する前に神を三回試しました。勇敢な勇者!これから私は大きな慰めを受けます。

 今日、主はギデオンのような僕を欲しておられます。というのは、主はありのままのギデオンではなく、これから主が造り変えようとしているギデオンを召されたからです。主はギデオンのことを、彼の中における御自身の取り扱いと活動の成果としてご覧になりました。主は彼のことを、将来勇敢な勇者になる者としてご覧になったのであり、当時の彼をご覧になったのではありません。ペテロにもまったく同じことが起きました。「あなたはシモンです。あなたはペテロと呼ばれることになります」。「あなたはペテロです。この岩の上に……」――この言葉を語られた後、ペテロは誓いと呪いをもって主を否み、女中に立ち向かうことすらできませんでした!ペトロスすなわち岩なのにです。主がご覧になっていたのはありのままのペテロではなく、彼を取り扱った後の彼の姿だったのです。

 主は無であるものをまるで有るかのように召されます。主はこの人の中に聖霊のエネルギーの可能性をご覧になりました。そこで生来の彼の性質にしたがってではなく、御自身の恵みと力にしたがって彼を召されました。私たち全員に望みがあります。「勇敢な勇者よ、主はあなたと共におられます」――これは生来のあなたや私のことではありません。主が私たちに対して御自身の道を獲得された時のあなたや私のことです。さて、これはいつ起きたのでしょう?「そして主の霊がギデオンの上に臨んだ」――そしてその後これが始まりました。大事なのは私たちがいかなる者なのかではなく、聖霊がいかなる方なのかです。聖霊が来臨される時、事が起きます。これが力の秘訣です。力は私たちと共にではなく、主と共にあります。


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