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 この聖なる書物の擁護者・教師たるべき人々の多くが、この書物を完全に否定しないまでも、その至高性を損ない、その無誤謬の権威に疑問を呈する人々の仲間入りをして、少しでも安っぽい人気を得、高い教養を身につけようとしている傾向を見るのは、とても悲しく残念なことです。聖書は、すべてか無かのいずれかです。鎖の強さはその最も弱い箇所によって決まりますが、もし神の御言葉が絶対的かつ完全に真実でないなら、それは私たちが錨を下ろして、私たちの永遠の平和を保証するにはあまりにも弱い綱ということになります。神に感謝します。私たちには、聖書を超自然的な神の超自然的な啓示として、人の言葉ではなく、永遠に生きて存続する神の御言葉として受け入れる根拠があるのです。

 時代は過ぎ去っても、聖書は批判家たちの攻撃を生き延びてきました。聖書は哲学や科学を教えるものではありませんが、哲学や科学はいくら進歩しても、聖書の信頼性に対して一つも反論できません。ある世代の科学なるものが聖書に異議を唱えたとしても、次の世代の高度な知識によって聖書の正しさが確認されることになるのです。

 かつて次のような時代がありました。創世記一章は科学上の既成事実と矛盾すると思われていたのです。創世記一章は、最初に光が創造され、太陽や他の天体は四日目まで創造されなかった、と教えているからです。しかし、数年後、神は科学を導いて分光器を発見させられました。そして、それに伴って光が太陽の前に存在していた事実と、モーセは自然界の現実と完全に一致していることが明らかになったのです。

 敬虔な学者たちは、自然界の荘厳な事実に対する神の御言葉の比喩の中にすら、偉大な真理との隠れた調和――この調和を科学はいま発見し始めたばかりです――があることを、日々、見いだしつつあります。ヨブがプレアデスの麗しい影響について語り、ダビデが詩篇十九篇で物言う光について述べた時、彼らは実際に、光学と天文学という壮大な科学の深遠な事実と最新の発見の一部を教えていたのです。どの戦いでも、この神聖な書物はその正当性を証明されて勝利します。

谷間からせりあがり、
中腹に雲をいただいて
恐るべき姿でそびえたつ
高い絶壁のように、

たとえ中腹には群雲が
広がっていても
永遠の陽光が
その頂を照らす。



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「あなたたちが再生されたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の生きている、存続する言によるのです。なぜなら、『すべての肉は草のようで、人の栄光はすべて草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に存続する』」(一ペテロ一・二三~二五)。


 今日、神の御言葉の霊感性と最高の権威ほど、人の心に強く訴える必要のある証しはありません。悪意あるサタンと傲慢な人間文化は、かつてなかったほど、聖書の中から超自然的なものを排除しようとしています。そして神のこの書を、この世の文学の残骸の中から救い出された、たんなる古文書集に変えようとしています。

 聖書は他のどの本とも異なっており、敵のあらゆる攻撃を生き延びてきましたし、これからも生き延びるでしょう。それはニューヨーク湾の水面を照らす電照灯のようです。無謀にもそれに飛び込む多くの海鳥の翼に打たれてきましたが、なおも動じることなく輝き続けています。他方、無謀にもそれに突っ込んだ愚かな海鳥たちは、その足元で血を流して傷つき倒れています。

 聖書は、敵対的な批判のハンマーを何度も打ち砕いてきた金床です。この金床は、それを襲ったあらゆるものの残骸のただ中で、動じることなく依然として残っています。

 聖書は、他のどの書にも優る崇高かつ孤高な書です。「私に本を持ってきてください」とウォルター・スコット卿は死の間際、義理の息子に言いました。ロックハートが「どの本ですか、ウォルター卿」と尋ねたところ、「一つしかありません――聖書です」という単純な返答がありました。

 アレキサンダー・ダフが、八百冊以上の立派な蔵書を含む大量の素晴らしい荷物を持ってインドに向けて航海していた時、乗っていた船が喜望峰の沖で難破しました。救出された乗客らが海岸に辿り着いた時、彼の荷物の中で唯一助かったのが、波で砂浜に打ち上げられた一冊の聖書でした。彼がそれを拾い上げて、包装を取り除くと、まったく無傷であることがわかりました。彼はこの出来事に深く感動したので、その聖書を開いて、海岸で自分の周りに立っていた小さな群れに、その尊い約束のいくつかを読み聞かせました。彼の立派な蔵書はなくなりましたが、聖書だけが難破から唯一救われました。彼にとって、それは次のことを示す美しい絵図でした。すなわち、後に彼の人生の目的となったものである聖書は、この世の文学の中から残る唯一の本であり、インド――その地で彼は一生涯過ごそうとしていました――に与える価値のある唯一の本であることです。

 諸々の時代の文学はみな、時の流れの中で消え失せることになります。しかし、ダフの救出された聖書のように、神の御言葉は時代の荒波を生き延びて、それを受け入れた人々に、それ自身と同じくらい輝かしい不滅性を与えます。


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 最後に、私たちの心と生活の中に啓示される神の啓示は、あの輝かしい神の出現――これを時代は待ち望んでいます――の前味わいにほかなりません。私たちはあの祝福された望み、偉大な神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの輝かしい出現を待ち望んでいます。キリストは待ち望んでいる花嫁の心にご自身の性格を投影しておられます。ご自身をその人々に対して大いに現実的なものとしておられます。そして彼らのために、ある日、感覚の覆いを破って出現されます。彼らは彼を見つめつつ叫ぶでしょう、「見よ、この方こそ私たちの神です。私たちはこの方を待っていたのです」。

 昔、ニューイングランドで、ピルグリム・ファーザーズの一団が窮乏の中にありました。彼らはイギリスからの物資を積んだ船をずっと待っていました。その群れの中の一人の善良な女性は、強い信仰を持って祈り、その船はやがて着くと人々に話していました。すると確かに、ある晩、彼らがボストン湾を見渡すと船が見えました。彼らの心は喜びと希望に満ちました。しかし、朝になると、その船は消えていたのです。彼らの中のある者たちは言いました、あれは蜃気楼だったか、おそらく、船本体が現れる前に光の屈折によって投影された近づく船の虚像だったのだ、と。しかし彼らは、その幻を見た以上、必ずその船を見ることになるのは確かである、と感じていました。そして、彼らはその船を見たのです。その週の終わる前に、船は港に停泊して、飢えた植民地の人々に積み荷のパンを供給したのです。

 このように、神はまず私たちに、生ける、個人的な、栄光のキリストのビジョンを与えてくださいます。まもなく、私たちの目は彼を見るでしょう。そして、私たちは永遠に彼と共にいるようになるでしょう。全き栄光の中におられる彼を理解しようではありませんか。いつの日か、ありのままの彼を見る時、私たちは彼のようになるのです。


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 結論として、神がご自身の至高性を強調されるのは、人間の無知で愚かな高ぶりのためなのです。私たちは、人間が自己満足している時代に、奢った人間が「さあ、行って、その頂が天に届く都と塔を建てよう」と言っている時代に生きています。それに対して神はあわれみとさげすみをもって、「さあ、下って行って、彼らの言葉を混乱させよう」と言っておられます。

 しかし、神が常にご自身を主張されるのは、私たちとは違って、ちっぽけな利己主義的精神からではありません。ご自身の主権が、ご自身の栄光のために必要であるように、宇宙のために必要だからなのです。神がこの人称代名詞を繰り返して、崇高な自覚をもって私たちの前に立たれる時、人にはおこがましいことが神には正しいこと、そして、神がすべてのすべてとして認識されることが、宇宙の秩序と幸福のために必要不可欠であると、私たちは感じます。

 神の主権と至高性は、私たちの必要をすべて満たします。私たちが減少して彼が増し加わるほど、私たちの幸福と祝福はますます増し加わります。私たちの自尊心は、神が私たちの心と生活の中に啓示されるのを妨げる最大の障害です。神が入って来るには、自己は出て行かなければなりません。自己に対して死ねば死ぬほど、神を完全に受け入れる余地が増えるのです。

 勉強の進み具合が悪くて父親に叱られた少年の話は教訓に富んでいます。その少年は、自分は最善を尽くしているのに、読んだことを覚えられない、と不満を漏らしていました。父親は少年の部屋に黄表紙の本がたくさんあることに気づき、「チャーリー、食器棚の上にあるリンゴの入ったかごを空にしておくれ」と言いました。チャーリーがリンゴを出すと、父親は、「隣の大工の店に行って、かごいっぱいのこっぱと削りくずを持ってきておくれ」と言いました。少年は父親に言われたとおりにしました。かごが戻って来た時、それは削りくずでいっぱいでした。「さて」と父親は言いました。「リンゴを入れてごらん」。チャーリーがリンゴをいくつか入れると、リンゴは転がり落ちてしまいました。「リンゴを入れなさい」と父親は言いました。「全部入れなさい」。「できないよ」とチャーリーは言いました。「入らないよ」。「どうして入らないんだい?」と父親は言いました。「だって」とチャーリーは言いました。「かごは削りくずで半分埋まっていて、もうリンゴは全部は入らないんだもん」。「ああ」と父親は言いました。「それがお前の問題なんだよ。お前は有益な知識を自分の頭に詰め込もうとしているが、お前の頭はすでに愚かしい物語の本でいっぱいなんだよ」。

 この物語を少し応用すると、私たちの霊的失敗の隠れた理由がわかります。私たちは聖霊に心を満たしてもらおうとしてきましたが、心はすでに多くのもので満たされていたのです。キリストを王としようとしてきましたが、その間ずっと、古い反逆者の自己が彼の邪魔をして、彼の王座を奪おうとしていたのです。


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 ハガイ書には美しい約束の数々があります。それらの約束の中で神は、ご自身の奮闘している小さな群れに向かって――彼らは困難な時にわずかな力しかないのに回復の偉大な働きを成し遂げようとしていました――「私はあなたたちと共にいる。私の霊があなたたちの間にとどまっている。あなたたちは恐れる必要はない。強くあれ、そして、成功を確信しつつ働きなさい」と告げておられます。この美しい段落では、預言者が「万軍の主はこう言われる」とこの高貴な御名を何度も繰り返しているのが印象的です。それはまるで、神がご自分の震える子供たちに、神の顔を見上げて、神が語っていること、神がそこにいること、神はこの緊急事態にも対応できることを再確認せよ、と絶えず命じておられるかのようです。

 これは、パウロの弱さに対してキリストがされた約束の、あの美しい訳文に対応しています。「彼は私に言われました」、あるいはギリシャ語では、「彼は私に言い続けられました、私の恵みはあなたに対して十分である、と」。何度も何度も彼は私たちに、ご自身の臨在と十全性を繰り返し保証してくださるのです。

 キリストは、使徒たちに出て行って諸国民を福音化するよう命じた時、彼らにご自身の全能性と偏在性を力強く強調されました。「天においても地においても、すべての力が私に与えられています(中略)見よ、私は世の終わりまで常にあなたたちと共にいます」。

 これこそ、私たちの宣教事業、このうえなく大胆な信仰、このうえなく高邁な努力、このうえなく困難な企てに対する保証です。私たちには、主権者たちや権力者たちや地と地獄の勢力に立ち向かうときに私たちを導いてくださる、超自然的なキリストがおられるのです。


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