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神に対して「否」と言う心

 しかし今や実際に十字架の時に至ります。磔殺の前の時と磔殺の時に至ります。この十字架をめぐって人類のあらゆる面がことごとく示されます。内輪の人々から外部の人々に至るまで皆がそこにいます。そして、その焦点はイエスの十字架です。この十字架は何を明らかにしているのでしょう?これに関する二、三の例・事例を挙げましょう。歴史上最高の宗教組織・体制の最高代表者から始めることにします。

 カヤパはイスラエルの大祭司であり、この民族は公式にこの人を中心としてまとまっています――彼はこの国民の代表者です。カヤパがこの劇の主人公である、これらの記事をまとめた物語を読んで下さい。私や人の言葉では、この別の人たる御方を前にしたこの人を描写できません。この人を何とか描写する唯一可能な描写、唯一可能な言葉はかなり昔にイザヤによって預言されたものだと思います。覚えているでしょうか?イザヤ書六章の言葉は馴染み深いでしょう。「誰がわれわれのために行くだろうか?……」という主の要請に預言者は応じて、「ここに私がおります。私を遣わして下さい!」とイザヤは言いました。主は彼に何と言われたでしょう?……彼は言われました(主は言われました)「行ってこの民に告げよ。『よく聞け、しかし理解してはならない。よく見よ、しかし悟ってはならない』。この民の心を肥え太らせ、彼らの耳を鈍くし、彼らの目を閉ざせ。それは、彼らが自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で理解せず、立ち返らず、癒されることのないためである」。これは恐ろしく聞こえます。「……しないためである。……しないためである。彼らが立ち返らないためである」。彼らがそうできないようにせよ、自分の道を引き返す彼らの能力を取り去れ。これは恐ろしくないでしょうか?

 しかし、ここでは何を扱っているのでしょう――心のかたくなさを扱っているのです。それは御言葉に対して、預言者たちに対して、神が与えて下さったあらゆる啓示に対して、ただただ何度もかたくなになります。かたくなになり続けて、とうとう引き返せない点を超えてしまいました。神は言われました、「あなたはあなたの心をあまりにもかたくなにして、私の道に対してとても積極的に『否』と言ってきたので、もう治療できません」。これが十字架でのカヤパとイスラエルです。神に対して「否」という心です。

 至高の権を持つ御方の御前における、何という心、何という暴露、人の可能性の何という啓示でしょう。そうです、それまで進行していたことが今や明らかになります。その始まりは、おそらく、とても単純なものだったでしょう。しかし、それは成長を続け――引き返すことは可能だったのに引き返せなくなりました――とうとう神がこう仰せられる時になりました、「聞いたり見たりする彼らの能力を取り去れ」。神のあらゆる訴え、嘆願、うめき、涙にもかかわらず、人の心はかたくななままであり、それに対する裁きが十字架で明らかになります――私たちの心がどうなるおそれがあるのかについて十字架が啓示するところが明らかになります!

 「それはカヤパであって、私ではありません」と言う人がいるかもしれません。もしそう言うなら、あなたは人の心が分かっていないのです。もし自分の心の中で少しも反逆したことがなく、主に対して『否』と言ったり争ったりするおそれが決してなかったなら、あなたは人の心が分かっていません。それは存在します。それはカヤパではなくアダムです。これは発達して最後までつきまとうアダムです。


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神類の人:この別の人

 ですから、いわゆる四福音書は時や出来事の順序にしたがっていません。この四福音書は何でしょう?二つのものです。もちろん、四福音書は神類の人の紹介です。彼は地上に置かれ、次に神類の人と並んで別の種類の人が配置されます。衝撃を受けずに、この観点からこれらの福音書を読むことはできません。この別の人――神が只中に置かれたこの人――の傍らにいるこの人が暴露されるのを見て、「驚いた」と言うしかありません。この光の中であなたの福音書を読んで下さい。この人に対する人々の反応を見て下さい。恐ろしくないでしょうか?一体どうやって彼らはさかしくもこの人への反対を述べたのか、と時々疑問に思います。

 さて、福音書には絶えざる進展、この道における進展、露呈、暴露があります。この種類の人の露出が強まります。この悪意、この憎しみ、この偏見、この邪悪さが新たに強まるように思われる時点に注意して下さい。誰に対してでしょう?ああ、私の主が何をしたというのでしょう?この怒りや悪意は何を意味するのでしょう?まさに十字架の時に至るまで、これが強まって行きます。もちろん、あなたは覚えておられるでしょうが、彼はバプテスマ以降、十字架に付けられた人の立場に基づいて行動されました。それを敵対勢力が働いている不可視の領域に適用すると、これは意義深い事実です。


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転換:聖霊の支配の中で

 ですから、あなたの新約聖書の中にあなたが見い出すものは、いずれにせよ、この転換です。また、私たちが自分自身の霊的経験の中に見い出すものはすべて、もし私たちが真に聖霊の御手の中にあるなら、これと関係しています。「ああ、私はこの経験を通っているところであり、この困難を抱えているところです。私は悲しみのこの道、困惑のこの道を通っています」とあなたは言います。どうであれ、それはみな聖霊の支配下にあり、この移行と関係しています。一つの立場から別の立場への、一つの種類の人格から別の種類の人格への移動と関係しています。その焦点は目下のところ、あなたのいる状況にあります。良い状況であれ悪い状況であれそうです。「いかなる道を通っても、いかなる代価を払っても」とある通りです。

 そして、まずは黙想するのが心地よくない次の点から私たちは初めることにします。それは何でしょう?一つの種類の人性の実際的滅亡が絶対に必要だということです。私は実際的という言葉を強調します。私たちの古い人性の教理的、理論的、神学的、哲学的滅亡ではなく、実際的滅亡です。

 旧約聖書は最初から最後まで、一方において次のことに満ちていることに、あなたが気づいているかどうか私には疑問です。それは、極めて有利な条件下でも、この人性は神を満足させられないことを明らかにしている、ということです。神は一つの民を召し出し、彼らを御自身に結び付けて、御自身のものとされました。彼らが彼の立場にとどまっている間、彼はあらゆる地的な一時的祝福――霊的祝福ではありません――で彼らを祝福されました。彼らが戒めに従順でありさえするなら、彼らの香油、たくわえ、かご、家族、仕事は祝福され、彼らはこの地上でことごとく繁栄しました。彼は御自身の主権の下で、エデンの園の間ずっと、またイスラエルの時代のあいだずっと、彼らに素晴らしい経綸を与えられました。それなのに、私たちの旧約聖書の最後はどうなっているでしょう?いかなる条件下でも、神が一時的に賜ることのできたあらゆる有利な条件下でさえも、この種類の人性は失敗したのです。それは悲劇的物語であり、旧約聖書はそこで閉じざるをえません。この人性は目標に到達せず、失敗しました。この面に関して人類史全体の上に、神に対して「失敗した」と大文字で記さなければなりません。

 さて、新約聖書に入ると、どんな出来事が見られるでしょうか?この問題はすべて、新約聖書で絶頂に至ります。神が踏み込んで介入し、一つの筋道に沿って仰せられました、「私たちは徹底的・積極的にこの問題を最高点・極点に至らせます。しかしそうするには、あらゆる歴史あらゆる時代の人々に次のことを見せて知らしめなければなりません。すなわち、この人性を私たちが最高点・極点に至らせることが必要な理由です」。ああ、私たちは単なる幻想に興味はありませんが、これは魅力的です。一度これを見始めると、これは興味深くなります。


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 さて、こう述べておいて先に進むことにしましょう。この期間の今の時間、私たちは二つの人性に専念しています。特に一つの人性から別の人性への移行に専念しています。最初のアダム(これは包括的言葉・語句であり、個人的であるだけでなく団体的でもあります)の人性から最後のアダム――この御方も個人的でありまた団体的です――の人性への移行です。

 今週末、この新しい人性の団体面についてさらに何か述べるかもしれませんが、そこに至るまでに網羅すべきことがたくさんあります。その地点に至るには、この団体面――私たちはそれを教会と称しています――に関する私たちの考えや観念に大きな調整がなされなければならないと思います。この教会という観念について考えを改めなければならないと私は確信しています。しかし、この問題は置いておいて、今朝、私たちはこの移行に、一つの人性から別の人性へのこの過ぎ越しに戻ることにします。全聖書特に新約聖書はこれに満ちています。

 私は自分の言葉を慎重に選んでいます。私はとても注意深くしています。あなたに多くの教えや情報を渡すことに私は少しも関心・興味はありません。そうするには私はあまりにも年老いています。すべては、運命がかかっている命にかかわるものを含んでいなければなりません。ですから、私は自分の言葉を慎重に選んでいます。そして、私は次の点を繰り返したいと思います。新約聖書は一つのことでまったく占められています(この一つのことの中には多くのことが含まれていますが、これが唯一のものです)。すなわち、あの一つの人性、存在の種類――人類――から、別の人性への移行です。この他方の御方であるキリスト、この新しい種族と人類の秩序の第一位である御方の上に、神の御心は最初から定まっていました。人類のこの新秩序は、昨日言及・指摘したように、御使いたちよりも遥かに重要です。小さな子供の頃、「私は御使いになりたい」というささやかな詩歌を歌ったものでした。そうではないでしょうか?神はあなたのために御使いよりも遥かに、遥かに偉大な未来を備えて下さっています。「御使いたちはこれらのことを見ることを願っています」。それは「彼らはこれを見ることを願っています」と述べています。「御使いたちではなく、人に」――これがこの被造物について神が御心に抱いておられる最高の御旨であり、この被造物においては御子であるキリストが第一――その始まり――です。


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 「主よ、私たちは知っています。私たちは昔の人の一人が大昔に使った言葉を今しがた使いましたが、その人は、語っているのは主であることを理解していませんでした。彼は、語っているのは人――神の人――だと思いましたが、最終的に事実に直面しました。語っているのは人ではなく神だったのです。そして次にあなた御自身に彼は直接話しました、『主よ語って下さい、あなたの僕は聞いております』。主が語っておられる時、語っているのが単なる人ではなく主である時、どうかそれが分かりますように、と私たちは祈ります。そして、ああ、サムエルに対してそうだったように、私たちに対する主の語りかけに何と多くのことがかかっていることでしょう。私たちは神の民の間で力強い権威だったサムエルのようでありたいのです。私たちはあなたに求めます。他のいかなる声を通してあなたが語られたとしても、どうか私たちが真にあなたに聞くことができますように……内側で主の御声を聞くことができますように……あなたの御前に行って、私たちが受け取ることをあなたが願っておられる指示や委託を何でも受け取ることができますように。ですから、主よ、今朝、あなたの御名のために私たちを助けて下さい。アーメン」。

 私たちの詩歌の本の一つの中に、ある詩歌があります。あなたたちの中には知っている人も知らない人もいるでしょう。それはこう述べています。

私の目標は神御自身です。
喜びや祝福ではなく、
私の神、彼御自身です。
御旨に私を導いて下さい。
私の意志ではなく御旨に、この地上で、
いかなる代価を払っても、愛する主よ、
いかなる道を通っても。


 あまり経験のない若いクリスチャンたちはこれを大いに情熱的に歌います。年配のもっと成熟したクリスチャンたちはこれを心を込めて歌います。あなたがこの最後の数行「いかなる代価を払っても、愛する主よ、いかなる道を通っても」に同意するかどうか私には疑問です。あなたはこれに「同意します」と言います。あなたがそうするとき、何かが起きることをあなたは覚悟しなければなりません。なぜならまさにこの立場に基づいて、今朝私たちは一つの課題に直面するようになると私は大いに確信しているからです。それは実際的転機という一つの課題をもたらすでしょう。その上に、私たち全員の多くにとって、私たちが思う以上にとても多くのことがかかっています。


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