内側から来る汚れにせよ、外側から生じる汚れにせよ、神はすべての汚れを祭儀上取り除くことのできる諸々の手段を備えて下さった。そして、神がこの備えをされた目的は、御前で彼の民が親密で永続的な交わりのうちに歩めるようになることだった。

 今、このような諸々の特権が旧約の経綸の下で現実のものだったからには、新約の経綸の下ではそれらはさらにどれほど現実的であることか!

 すべての清めの真の基礎はキリストの死にあるというこの中心的事実を、われわれは決して見失ってはならない。命と清さに二つの泉、二つの源はない。ただ一つの中心的泉しかない。それは十字架である。

 らい病人の清めに関する律法と、赤い雌牛の定め――この二つの儀式は十字架を指し示していたのである。罪の赦しを受けられる場所は、汚れからの清めを受けられる場所でもある。

 らい病人と、死と接触した人の両者が清められて、神との交わりに回復されるのは、神が定められた備えを明確かつ個人的に自分のものとすることによった。イスラエル人に考案できるいかなる手段も、このような回復を成し遂げられなかった。なぜなら、他のいかなる手段も祭儀上の汚れを除けなかったからである。

 それゆえ、ただキリストの十字架にしか、魂をあらゆる道徳的汚れから分離する力は見出せない。

 そして、このような汚れは魂を神との交わりから放逐するため、この状態の中でなされたクリスチャンの務めはみな、どれほど入念に遂行されたものであっても、「死んだ業」にすぎない。その中に霊の命の息吹がないからである。

 御子の死によって神と和解させられたことを知るのがわれわれの特権であるように、この同じ死によって罪の汚れから分離されているのを理解するのもわれわれの特権である。われわれの赦しと義認の源は、われわれの清めの源でもある。そして、咎による罰からの解放の何たるかを知っているなら、あらゆる不純さから清められてその清めの状態を維持してもらうことが、内なる意識に関してどういうことなのかも、われわれは知ることができる。こうして初めて、神との永続的交わりの真の意味をわれわれは学べるのである。


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 不幸なことに、たとえキリストの死は罪のための贖いに十分であることを理解していたとしても、その死は罪からの個人的清めの秘訣・源でもあることを見落としているおそれがある。

 罪はわれわれの上にのしかかる重荷や、われわれの上に処罰的結果をもたらした違反であるだけではない。それは、われわれを神の臨在にふさわしくない者とする汚れである。重荷が去ったこと、咎が贖われたことを、われわれは喜んできたかもしれない。しかしそれでも、キリストの清める力を少ししか知っていないかもしれない。たった一つの不従順な行いのせいで、われわれはわれわれの主との交わりから放逐されているかもしれない。われわれはこのようにして、咎だけでなく汚れをも意識するようになった。

 旧契約の下におけるイスラエルに対する神の取り扱いの中に、これがどれほど鮮やかに示されていることか!

 例えば、レビ記を読む時、祭儀上の汚れから分離される必要性が強調されていることに衝撃を受けずにはいられない。そこで与えられている諸々の指示の中に、エホバがどれほど妬みをもってこの件で御民を見張っておられるのかにわれわれは気づく。食物、衣服、習慣、他の家庭内の決め事に関して、事細かい指示がなされている。これはみな、単なる物質的・祭儀的事柄よりも遥かに深い意義があったことを、われわれは知っている。福音の光の中で、われわれはそれらの完全な真の重要性を学ぶ。

 汚れというこの問題全体を見渡す時、汚れは二つの異なる源から生じることにわれわれは気が付く――外面的源と内面的源である。

 内側から生じた汚れが、レビ記では主に述べられている。これは内住する悪から発する道徳的汚れと関係している。また、死と外面的に接触することを通して、内側から生じた汚れは、民数記でさらに顕著に示されている。そこでは、世との接触によって引き起こされた汚れの諸々の効果の型が示されている。

 前者の内側から生じる汚れに関して言うと、その最も顕著な絵図がらい病人によって示されている。この恐ろしい病ほど、昔のイスラエルに罪のおぞましい性質を力強く印象付けられるものは何もなかった。

 そのような者は聖所から追放されることになっていた。その人は神礼拝から締め出され、神の民とのあらゆる関係から追放された。

 無視して意図的に、あるいは無意識のうちに、死と接触を持った人も同様である。その人は直ちに祭儀上汚れた者となり、贖われた礼拝者のすべての特権から「断ち切られ」た。

 これは今でもそうではないだろうか?

 これらの型の本体は魂の肖像である。祭儀上の汚れと清めは、霊的汚染と、福音の中でわれわれに啓示されている清めを示していたのである。

 信者の交わりの停止は、その構成員をイスラエルの会衆から断ち切ることに相当する。

 こうしたすべての福音の絵図的描写により、神は御自分が贖った民に次のことを教えておられたのである。すなわち、神は御自身のものとした人々や、その間に御自分の住まいを定めた人々に対して、いかなる汚れも容認できないのである。そして、神は御自分の民に聖くなることを要求されたがゆえに、神は彼らのために特別な備えをされたのである。


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 罪を犯すことについて話す時、もちろん、それは行いを意味する。しかし、行いという言葉は外面的なものだけを意味するのではなく、純粋に内面的なものをも意味する。違反は、それゆえ、神の律法を外面的に破ることだけに制限してはならない。それは、神の御思いと御性格に反する、魂のすべての内的行いを含む。

 ローマ六章が特に考察している罪の側面は、支配する力としての側面である。罪はそこでは、信者を支配しようとする者として人格化されている。

 堕落に何が伴っていたのか、考えよ。堕落は人の上に違反としての罪による刑罰をもたらしただけでなく、支配的原理としての罪の下で人を奴隷にした。罪は人間存在の中枢の中に入り込んでいる力であり、そこに自らを確立して、人性のあらゆる部分をその支配下に置いている。罪は本質的に神に敵対している一つの原理であり、人の意志と愛情を乗っ取ることによって、人を神の敵とし、公然と神に反逆するよう人を導く。こうして人は罪の奴隷となったのである。

 われわれの性質の中心部分から、罪は人全体を支配する。われわれの体は「罪の体」(ローマ六・六)である。すなわち、「罪の(罪に属する)体」である――「誘惑の入口としての、また、罪の仲介者としての(中略)物質的体」(ディーン・ボーハン)である。われわれは罪の支配の下にあり、他方、体はそれを通して罪が自らの働きを遂行する道具である。体は罪に所有されており、罪の支配下にある。

 このローマ六章で、使徒は罪に関する信者の現在の立場を示している。キリストの十字架刑は罪に対する信者の立場を完全に変えた。キリストの死は、違反としての罪の結果から信者を分離しただけでなく、主人としての罪の権威から信者を分離した――信者を解放したのである。

 キリストが自分のために死んで下さったことにより、自分は罪の刑罰から完全に解放されたことを、信者は理解する。同じように、信者には次のことを理解する特権がある。信者はこの死の中でキリストと一体化されているので、信者は支配的原理としての罪からも解放されているのである。その力は破られた。この意味で信者は「罪から解放」されている(ローマ六・一八、二二)。

 この六章における使徒の目的は、「キリストが罪に対して死なれた」時、信者がどれほど完全にキリストと一体化されたのかを示すことである。この死の意義の中に完全に入り込むことは、われわれの昔の主人である罪をこれ以上取り扱わなくても済むように、キリストがわれわれを解放して下さったことを理解することである。今や「神に対して生きて」おられるキリストの中にある立場を取る特権を、信者は持っている。この観点から、信者は今後、罪を見なければならない。信者は今も、また永遠に、昔の主人と昔の支配から自由である。十字架が一度限り永遠にこのつながりを断ち切ったのであり、あっけなく断ち切ったのである。昔の主人である罪に対して、決定的かつ完全な断交を成し遂げたのである。

 「これがキリスト者の聖化の神聖な秘訣である。これは単純な天然的道徳とは根本的に異なる。後者は人に対して『あなたがなりたい者になれ』と言う。後者は信者に対して『あなたが(キリストにあって)すでにそうであるところの者になれ』と言う。これは道徳的努力の基礎に、一つの積極的事実を据える。この基礎に信者はいつでも立ち返って、あらためて頼ることができる。こういうわけで、信者の労苦は不毛な渇望という結果になることはないし、絶望に終わることもない。

 信者は罪から徐々に解かれるのではない。信者はキリストにあって一度限り永遠に罪と手を切るのである。意志の決然たる行いにより、信者は完全な聖潔の領域の中に置かれる。そしてその領域の中で、個人生活の漸進的更新が進む。この二つ目の福音の逆説である信仰による聖化は、一つ目の逆説である信仰による義認に基づく」(ローマ六章についてのゴデット教授の言葉)。

 十字架はこの解放を効率的に成し遂げる要因である。罪の支配する力からの解放は、すべての信者がただちにあずかれる特権である。それは実際的前進だけでなく真の奉仕の必須条件、もしくは出発点である。このような成長や奉仕は、成熟した信者だけでなく若い回心者にも可能である。それゆえ、罪の支配からの解放は、赦しを受けるのと同じように、われわれが信仰によって要求できる祝福である。われわれはそれを、キリストがわれわれのために買い取って、われわれを直ちに受け入れるために獲得して下さったものとして、要求することができる。われわれは罪から解放された者として、そしてわれわれの主であるイエス・キリストにあって神に対して生きている者として、前進することができる。これが支配的原理としての罪からの解放である。


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 人類に対する罪の影響を認識することと、神に対する反逆としてのその本質的性格を理解することとは、別の問題である。人は罪を通して「傷づき台無しに」なっただけでなく、神から遠ざかった。人は神に積極的に敵対する姿勢を取った。それゆえ、罪は憐みを誘うもの、つまり単なる不幸であるだけでなく、刑罰に値するものでもある。なぜなら、罪は神の純粋さ、善良さ、威光に対する反逆だからである。

 もし罪が不法でなければ、いけにえ無しに罪を赦す神の憐みについて思い描くこともできただろう。しかし、いけにえの必要性は、罪は神の律法を破ることであることを、われわれに教える。この必要性は旧約聖書の中に紛れもなく明確に示されており、新約聖書でも同じくらい強調されている。

 「罪は律法を破ることです」(一ヨハネ三・四)。われわれは律法という言葉を次のように理解しなければならない。「律法という言葉は旧約聖書のモーセ律法だけでなく、新約聖書のキリストにある律法をも意味する。キリストはそれを言葉で説明し、生活の中で示された。この律法は人の心の中に記されていて、人に特別な指示を与える。それは複雑な戒め全体を含む」(ピアソン)。

 神が御言葉の中で啓示されたことを人は内側で感じている――罪には神の憐み以上のものが必要なことを感じている。この点で、聖書の教理と人の心の証しとは一つである。

 咎には償い以上のものが必要であることを、人の本性は直感的に人に教える。しかし、人は放っておかれると、自分の考案した方法でこの償いをしようとする過ちに陥る。これがすべての異教のいけにえの歴史である。

 罪は不法である。なぜなら、罪は神の主権に対する反逆であり、神の性質に反するものであり、神の聖さに対する侮辱だからである。罪は律法と関係している――理性の律法、良心の律法、適切な律法だけでなく、神の律法とも関係している。罪を本質的に構成しているのは、神の御旨との一致の欠如である。律法はこれを啓示する。罪は不法――律法を破ることである。それゆえ、律法は罪の罪深さを啓示する。「歪んだ線の歪みは、それだけで分かるかもしれない。しかし、直線という完全な標準と比べると、それはいっそう明らかになる」。

 われわれの罪という咎には何らかの改善が必要なことを、良心はわれわれに告げる。他方、ただ啓示だけが、その改善をなしうる方法を示すことができる。そこにおいてのみ、どんないけにえが人間の咎を贖うのに十分なのかをわれわれは学ぶ。罪に対するこの見解は、十字架上のキリストの死の意味の理解へとわれわれを導く。それは有罪判決を受けた犯罪者の死だった。「彼は私たちの咎のために傷つけられ、私たちの不義のために砕かれた」(イザヤ五三・五)。彼は死なれた。「義しい方が、義しくない人のために死なれた」(一ペテロ三・一八)。

 違反としての、神に対する犯罪としての罪からの解放は、それゆえ、こういうことである――すなわち、キリストの贖いの死により、罪は「取り除かれ」、「まるで罪が無かったかのように」なることである。「地や天のいかなる力も、為されたことを為されなかったことにすることはできない。唯一想像可能なありえる例外は、まるで一度も為されなかったかのようになること、つまり、その悪い影響が全て除去・抹消されることであり、また、罪が償いによって無効化されることである」(モズレー)。犯罪としての罪からの解放にあずかることは、現在の特権である。それは、十字架上のキリストの死を見て救われることにより、われわれが経験する自由の第一の面である。


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「罪は律法を破ることです」(一ヨハ三・四)。

「不義はすべて罪です」(一ヨハ五・七)。

「ですから、あなたたちの死すべき体を罪に支配させて、その情欲に従わせてはなりません」(ロマ六・一二)。

「私の不義をことごとく洗い去り、私の罪から私を清めて下さい」(詩五一・二)。

「キリストが私たちのために御自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出して、良いわざに熱心な特別な民を、御自身のものとして清めるためです」(テト二・一四)。

「私の魂を癒して下さい。私はあなたに対して罪を犯したからです」(詩四一・四)。

「私は彼らの背きを癒そう」(ホセ一四・四)。

「あなたたちのよく知っているとおり、あなたたちが先祖から伝統的に受け継いだあなたたちの空しい生活様式から贖われたのは、銀や金などの朽ちるものによるのではなく、傷もしみもない小羊の血のような、キリストの尊い血によります」(一ペテ一・一八~一九)。

「あなたたちを躓きから守り、あなたたちを傷のない者として、大いなる喜びと共に御自身の栄光の前に立たせることのできる方に、すなわち、唯一の知恵ある神・私たちの救い主に、栄光と威厳、主権と力が、今も、永遠に至るまでもありますように。アーメン」(ユダ二四~二五)。


 「あらゆる異端の根源は、罪に関する誤った見解にある」と言われてきた。贖いに関するわれわれの考えは、その贖いを必要ならしめた悪に関するわれわれの考えによってほとんど決まる。疑いもなく、逆もまた正しい。しかし、あの無限の犠牲に関する全き認識に向かって立ち上がりたいなら、われわれは罪の真の性質を、できるだけ完全に、理解しようとしなければならない。

 では、罪とは何か?悪の存在はあまりにも行き渡っていて普遍的なので、われわれはそれを、われわれの人間性から不可分なものと見なしがちである。しかし、罪はわれわれの人性を構成する本質的要素ではない。罪はもともと人の中に無かったこと、また、最終的に人が栄化されるときも人の中には無いことを、われわれは知っている。また、罪は人なるキリスト・イエスのうちに存在しない。しかしそれにもかかわらず、悪の存在以上にわれわれが自覚している事実は一つもない。われわれは至る所で罪に出くわす。すべての人がその荒廃をもたらす影響力を見ているし、感じている。罪は単なる想像の産物ではない。恐ろしい現実である。それは曖昧模糊とした陰ではない。現実の特別な悪である。

 またわれわれは、罪をわれわれの道徳的発展に必要なものと見なすべきではない。われわれの益となるよう罪を支配できること、罪をわれわれの霊的訓練に役立てられることは、疑いもなく真実である。しかし罪は、われわれの道徳的訓練や霊的成長において、必要不可欠な要素ではない。われわれは恵みが増し加わるために罪を必要としない。知識において前進したり、謙遜において成長したりするのに、われわれは罪の力の下にいる必要はないし、その染みによって汚される必要もない。

 罪の真の性質を学ぶために、われわれは罪を直視しなければならない。罪と自分の関係だけでなく、罪と神との関係をも見なければならない。われわれは神の無限の正義・聖さ・愛と罪の関係を凝視しなければならない。この光の中で初めて、われわれはその実際の性格を理解するのである。

 さらに、われわれは罪を多面的に考えなければならない。罪は途方もない悪なので、様々な観点から見ない限り、その真の性質に関する適切な観念を形成することはできない。罪には多くの面があるのである。

 しかし、どの側面から罪について考えるにせよ、その各面の特性は、神が罪のために備えられた治療法の中にある、それに適切に対応するものによって解決されることが分かるだろう。


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