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(C)柔軟性

 この本から再び引用することにします。「将軍職に対する最も困難な試金石は、意志の強さと柔軟性の間のバランスを取ることである。これに敵は失敗した。敵は意志の強さによって大成功を収めたが、柔軟性の欠如のせいで大損害を被ったのである」。
この「柔軟性」という言葉は問題を起こしかねないので、それに代わる言葉を提案することにしましょう。例えば、適応性、順応性、教えやすさ又は「素直さ」、才能の豊かさ、独創性です。これらの言葉はみな「柔軟性」という言葉を横から照らす光です。東南アジア軍事作戦の場合、私が紹介した引用はまさに次のことを意味しました。すなわち、敵は一定の型にはまりきっていたのです。特定の道を行くことに固執して、それによって堅く縛られていたので、何らかの原因でそれが覆されたとき、全く意気阻喪してしまったのです。敵には代替案がありませんでした。不意の出来事に対応する能力、計画外のことに対応する能力がありませんでした。自分の決めた道から状況が外れると、全く混乱の中に陥りました。「柔軟性の欠如のせいで大損害を被ったのである」というこの引用の通りです。ここには学ぶべき教訓が確かにあります。

 おそらく、意志の強さという資質はどんなに重視しても重視しすぎることはないでしょう。新約聖書は、堅く耐え忍ぶこと、前進する決意、退かないこと、といった事柄で満ちています。私たちはそのような人々でなければなりません――これはその通りです。しかし、ここで述べられていることがわかります、「将軍職に対する最も困難な試金石は、意志の強さと柔軟性の間のバランスを取ることである」。これに取り組むとき、それは本当に困難な学課であることがわかります。新たな状況に順応しつつ、それでも堅固であり続けるすべを学ぶのは難しいことです。幸いなことに、新約聖書の中にこれに関する実例がいくつかあります。それらの実例を見ずに、教会史の中にあまり深く立ち入ることはしないことにします。

(1)ペテロとコルネリオ

 さてペテロは、旧約聖書とそれに関する自分の解釈にしたがって、自分の決まった道、自分の決まった立場を取っていました。彼の決まった立場、彼の堅く定まった立場の観点から、彼は「それはだめです、主よ!」と主と議論しようとしました。彼が「その幻について考えて」(使徒一〇・一九)主と共にこの問題に決着をつけるまで、彼には柔軟性も順応性もありませんでしたし、教えられやすくもありませんでした。しかし、堅固さや意志の強さを失うことなく、主が与えられた新しい光、主を知る新たな知識、主の新たな道に彼が順応した時、それはペテロだけでなく教会全体にとって何と途方もない一歩だったことでしょう。しかし、それでも多くの人々にはそれができません。どうしてもできません。


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神の備え――「命のパン」

 私たちが把握する必要があるのは、食物の原則は命であるということです。これは私たちの好き嫌い、気に入るか気に入らないか――「好みがうるさい」かどうか――の問題ではありません。まったくそうではありません。これはただひたすら命――命!――の問題です。こういうわけで主イエスは「私は命のパンです」(ヨハネ六・三五)と仰せられました。このパンによって益を受けるには、このパンの中にあるのと同じ命が私たちの中になければなりません。相応の命――命を握る命、命を供給する命――がなければなりません。これはたんなる興味の問題ではなく、不可欠な問題でなくてはなりません。

 本としての聖書に精通し、開講中のすべての聖書講義に出席することができても、依然として霊的に成長しないおそれがあります。これは厳粛な事実です。これが真実であることを私は知っています。数年間、私はキャンベル・モルガン博士と、彼の聖書教師協会の会員の一人として、親しく交際しました。その協会の方法は完全に、聖書を分析して教えるというものでした。しかし、その方法を数年間ためしてみても、その聖書講義に出席した人々の多くは、霊的成長を少ししかあるいはまったく示しませんでした。霊的成熟らしきものに少しでも到達した人は、彼らの中にほとんどいませんでした。その聖書講義をすべて聞いた後も、彼らは依然として赤子でした。彼らは講義をすべて自分のノートに書き留めました――そのような方法で彼らは講義を学びました。しかし、この一大軍事作戦に不可欠な要素になることに関して、彼らは少ししか役に立たないか、まったく役に立ちませんでした。

 いいえ、これはたんに聖書をそのように知る問題ではありません。とはいえ、それは基礎として有用かもしれません。本質的問題は、それは命の問題でなければならないということです――確かに命か死かの問題でなければなりません。命か死かの二者択一です。私たちが生き残るかどうかはこの食物の問題にかかっています。

 そして、この食物はキリストです。主イエスは「私はあなたたちに食べるための大量の教えを与えます」とは言われませんでした。彼は「私は命のパンです」と言われました――「私、自らが、命のパンです」と言われました。ですから、このパンの益を受けるには、まず彼との生き生きとした実際的な関係を持たなければなりません。食す人と食物との間に命の関係がなければなりません。

 これは確かに食物の種類の問題です。異なる種には異なる種類の食物が必要です。被造物の一つの種の食物は他の種と異なります。あなたも私も動物の特定の種の食物で生きることはできません。彼らもおそらく私たちが食する類の食物で生きることはできないでしょう。霊の人(すなわち正常なクリスチャン)は、霊の食事によってのみその必要が満たされる種に属しています。それは主を知る実際的な生ける知識であり、そして、ただそれによってのみ戦争に勝利できます。聖書知識を「天然的」知的に得ることは霊の食物の代わりにはなりません。

 ですから、これらすべてのことから重要な教訓を得るよう努めようではありませんか。霊的備えを、してもしなくてもよいもの、と思わないようにしようではありませんか。そのような態度を取るなら、遅かれ早かれ、私たちは戦いの中で看破されるでしょう。私は信じていますが、過去に主から教わったことはすべて途方もない価値があったことに今気づきつつある人々が、この世界に大勢います。他方、他の人々は、自分たちには切り抜ける能力がないことに気づきつつあります。


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神の備えに関心を持つ必要性

 しかし、私たちは覚えておく必要があります。主には備えをする気も用意も大いにあるのですが、他方、主はその備えの対象者の側に、それに関心を持つよう要求されます。これはかなり核心を突いていると思います。ご存じのように、この霊の食物の問題に関して不満が広がっています。入手可能なものがほんの少ししかない、真の教えがほんの少ししかない、堅い食物がほんの少ししかない、という不満です。これがどう述べられているにせよ、この食糧不足に関する不満がかなりあります。しかし、このように不満な状態が存在するのは、大部分、士官か人々かいずれかの側が霊の食物に十分関心を持っていなかったためではないでしょうか?彼らはこの問題に注意せず、実際のところそれに関心を持っていなかったのです。キリスト教的事柄に関する軽食を食べて生きることで満足してきたのです。真に真剣な人々のために、主は資源を利用できるようにされます。真に戦いのさなかにある人々、主の栄誉と勝利に真に関心を寄せている人々のために、主は適切な供給が与えられるよう配慮されます。あなたや私にそのような気持ちやつもりがないなら、主は「自分の真珠を豚の前に投げ」ないでしょう――あまり関心のない人々にご自身の霊的富を与えられないでしょう。しかし、もし私たちが関心を持っているなら、主は備えをして下さるでしょう。

 主は常にご自身の備えが有益なものとなるようにされることがわかります。それは実際的背景に対して備えを与えることによってです。実際的背景があって初めて、私たちは主の備えによって益を受けられます。こういうわけで彼は常に私たちを、主をいっそう深く知ることが必要な状況の中に投げ込まれます。新約聖書に記されていることはすべて、大いに実際的な背景に対して私たちに与えられる、というのは周知の事実ではないでしょうか?人々は座って随筆、論文、その類のものを書いたのではありません。彼らは極めて危機的な状況に直面し、そうした状況を対処するために書いたのです。生きるか死ぬかの諸問題によって、これらすべての書き物が生み出されたのです。それが背景でした。当時言えたことは、依然として私たちの生活にも言えます。すなわち、実際的背景がなければ、私たちは主の備えから決して益を受けられないのです。


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(B)備え

 今、一つの要素に取り組むことにします。それは遅かれ早かれ、軍隊と軍隊のすべての部隊に決定的影響を及ぼします――つまり備えの問題です。取り掛かる時は、とても熱心で、大いに明け渡しているかもしれません。最初は良い心づもりや良い意思が相当あるかもしれません。しかし長期的に重要なのは体格、持久力、耐久力です。これらのものは食料の備え、供給に依存します。進軍の基礎に関するナポレオンの言葉をご存じではないでしょうか?それは大いに真実です!天然の事柄に関してそれが真実であるのと同じように――少なくとも――霊の事柄でもそうです。資源の適切な支援なく、一時しのぎの供給原理に基づいて軍隊を戦場に送ることは、とても大きな間違いであり、確かに軍隊を確実に危険にさらします。そして私たちが考察しているこの物語では、兵卒たちは痩せ、不平を鳴らし、散り散りになり、多くの他の問題が生じました。人々が適切に養われなかったからです。適切な備えが十分ではなかったからです。

持久力に不可欠な備え

 食料は、ですから、戦争の戦略全体にわたって不可欠な要素です。備えは、確かに、贅沢ではありません――絶対に必要です。そして、これは真の霊性です。あなたも私も、霊の食物を得るかどうかは各自の選択の問題であり、そうしたいかしたくないかによって決まる、という考えを自分の心の中から取り除かなければなりません。十分な資源を利用できるようにすること、それらを活用することが、軍事作戦全体にわたって不可欠です。ですから、この問題に対する私たちの態度は大いに真剣なものでなければなりません。戦いは私たちの霊的体格、私たちの持久力、私たちの耐久力にかかっています。そして、これらのものは同様に私たちの食事にかかっており、その備えをなすことにかかっています。軍隊は刺激剤に頼って無限に戦い続けることはできませんし、もちろん「興奮剤」に頼ることもできません。彼らには食事が必要です。

 しかしクリスチャンの世界では、食事ではない「刺激剤」や「興奮剤」が大いに投与されています。それは何かを完成させるための企てでであり、人々をしばらくのあいだ進ませるための企てです。しかし、真の忍耐が要求される状況になると、それは効果がありません。ですから最高司令官はこれに注意を払います――長期戦のために備えをします。私たちがこれに順応するのが早ければ早いほど良いのです。戦いはすぐに終わると思っている間はかなりよく戦える人々もいます。しかし、最も長く持ちこたえられる人々が勝つことを、私たちは歴史から知っているのではないでしょうか?霊的持久力、耐久力、堅固さというこの問題全体に関して、新約聖書の中にどれほど述べられていることでしょう!「最後まで忍耐する者は救われます」(マタ一〇・二二、二四・一三)。(ヘブ三・六、一四、六・一一、黙二・二六と比較せよ)。

 さて、主は私たちのために霊の食物を備えて下さるというこのことには、おそらく私たちが理解するよりも遥かに多くの内容が含まれています。これについて間違わないようにしましょう。遅かれ早かれこれに関して私たちは暴露されることになります。霊の事柄の中で養われ、霊の事柄の中で建て上げられてきた人々、利用可能な霊の食物をすべて活用してきた人々こそ、真の試練がやって来る時に持ちこたえる人々です。次のことは、私たちの経験――ごく単純な道についても――に合致しているのではないでしょうか?すなわち、私たちが状況に立ち向かう時、非常に多くの場合、私たちは主が過去に私たちに教えて下さったことを活用できるのです。その備えがなければ、私たちは困っていたでしょう――切り抜けられなかったでしょう。しかし今、私たちは主が私たちに与えて下さったものを常に利用できます。これが繰り返し起きるのは何と素晴らしいことでしょう!まさに、危機的な時や状況のとき私たちを救う、と彼が私たちに約束して下さった通りです(ヨハネ一四・二六)!私たちは過去の彼の御言葉と彼の道を思い出します。これは重要であり、功を奏します。しかし他方、圧迫に屈してしまう人が何と多いことでしょう。それは彼らには何の背景もないからです――その状況に必要な主からの知識を彼らは持っていないのです。


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 そして、前に述べたように、主は私たちの隠れた姿を考慮されることを忘れないでください。練兵場では、すべての人が私たちを見ており、衆人環視の前で自分たちに何が期待されているのか私たちは承知しています。しかし、主は私たちの隠れた姿を考慮されます。主はダビデにそうされました。ダビデは神が選んだ人でした。なぜなら、主は彼の隠れた姿――彼の隠れた責任――を見ておられたからです。あなたも私も覚えておかなければなりません。神が選んで用い、推進・昇進させる人は、人が見ていなくても真実であり続ける人々です。あなたはこれを理解しているでしょうか?主が自分を選び、用い、推奨し、さらに多くの責任を与え、昇進させて下さることを、あなたは欲しているでしょうか?主がそうされるのは、人々が見ている時のあなたの在り方によってではなく、密かなあなたの在り方によってです。なぜなら、訓練が最大の真価を発揮するのは――「彼処では戦闘が続いています。私たちは戦いの役に立たなければなりません!」という理由以外に一切何の動機もない時だからです。

 これは、もちろん、多くの領域を網羅します。これは私たちに対する主の取り扱いの多くを解き明かすのではないでしょうか?こういうわけで私たちはこのような訓練を受けているのであり、様々な立場――とても困難な立場、鼓舞してくれるもの、励まし、刺激がまったく無いように思われる立場――に置かれています。私たちは立ち続けるか倒れるかのいずれしかない状況の中にもたらされます。時としてその試みは、私たちがどうするかは問題ではないように思われるせいで、その厳しさを増します。


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