これは説明するのが最も難しいことの一つです。私たちはそれを理解できますし、パウロが言わんとしたこともわかります。そこにそれに対する鍵があります。その鍵とは、キリストは一つであるということです。キリストの中に争い、軋轢、分裂、分派はなく、あるのは完全に調和のとれた、秩序ある命です。キリストの霊である聖霊――それゆえ聖霊はキリストであるものと完全に一つです――は、キリストをそのすべての肢体に分配されます。彼ら自身がいかなる者なのかということと、キリストが彼らの中でいかなる者なのかということとは、別問題です。キリストは、私たちの人性のこのすべての争いの中に入って来られますが、それによってその性質を帯びるわけではありませんし、御自身の完全な調和と一体性を失うわけでもありません。私たちの内におられるキリストからのものが、一つの方法で、一つの目的をもって、一つの事を成し遂げつつあります。明確に定められた計画を為しつつあります。それは完全に一つであり、完全に関係しあっています。あなたに与えられているのはキリストの一つの面、一つの特徴であり、他方、私には別の特徴が与えられており、三番目の人にはまた別の特徴が与えられています。しかし、これらの特徴すべてがひとりの完全な人を構成しており、この目標のために必要です。もし私たちが御霊の中に生きているなら、もし私たちの生活が御霊の中にあるなら、私たち自身がいかなるものであれ、私たち全員を通してキリストのあの完全な一つが存在することになります。すなわち、キリストからの何かが一人一人の中に働いていることになります。それは、他のすべての者たちの内におられる彼と関係しているものであり、キリストを完全に表現します。

 これがパウロの見たものであり、私たちが見なければならないものです。このように使徒はコリントの状況を調べました。ある人は「私はパウロにつく!」と言い、別の人は「私はアポロにつく!」と言い、また別の人は「私はペテロにつく!」と言いました。パウロは「キリストは分けられたのですか?」と言いました。彼が言わんとしたのは、「それはあなたであって、キリストではない」ということです。あなたは真理を犯しており、現実を損なっています。現実は、キリストは一つのままであるということです。あなたは自分自身のうちに生きているので矛盾しているのです。しかし、キリストが一つである事実は残ります。このような一連の状況を放棄して、キリストの立場の上に来るなら、あなたはこの偉大な事実の中に入るでしょう。


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聖霊とからだの中の秩序

 聖霊によるパウロのこれらの書を、そこに見られる事実という光に照らして、あるいは、それらに出会う状態という光に照らして読むとき、息を飲まずにはいられません。このからだに関してパウロが持っているのは、驚くべきビジョンです。それらを読む時、これらの事柄から一歩下がって見さえするなら、これは驚くべきことであるか不可能であるかのいずれかであると感じるでしょう。多くの人は降参して後者の結論に至りました。

 パウロはここで教会、キリストのからだを、次の二つの特徴と共に示しています。すなわち、すでに完全であって、すでに機能しているものとして示しているのです。彼は現在形で語ります。「からだ全体が、しっかりと組み合わされ結び合わされ(中略)増し加わって行きます」。このからだは一つです。彼は教会について、まるでそれがいつの日かしっかりと組み合わされるようになるかのようには述べていません。彼は教会について、すでに完全なものとして述べており、さらに注目すべきことに、今すでに機能しているものとして述べています。「このかしらから(中略)からだ全体が、しっかりと組み合わされ結び合わされ(中略)増し加わって行きます」。あなたはこれに息を飲み、幾つかの問いを発して、それに関する結論に至らずにはいられません。実際のところ、私たちが目にしているように、このからだはしっかりと組み合わされていません。それは混乱の中にあり、無秩序の中にあります。このように調整されているもの、このように関係しあっているもの、このように完全に組み合わされているものの表れである、と称しうるものに出くわすことは、稀にしかありません。それとは反対のものに遥かに多く出くわします。完全に組み合わされている二人の人を見つけるのはほとんど困難です。それでもパウロは、そのようなものであるからだ全体について語ります。私たちはそれについて、「理想論であって、不可能だ!」と言います。私たちの見るところ、それは確かにそうではありません。パウロはこれらの言葉を数百年前に記しました。まるで教会は当時そのような状態であったかのようです。そして、パウロ自身の時代の状態を見て、コリント人とガラテヤ人への手紙を読みさえするなら、彼の観念と現実の矛盾した状態とは異なることが分かります。

 それは不可能なことではありません。もしパウロが見た通りに私たちもそれを見るなら、きっと私たちも同じ事を言うでしょう。キリストのからだである教会についてパウロが見たのは、明らかに霊的なものであって、時間に属するものではありませんでした。彼は教会を下からではなく上から見ました。彼が見ていたのは信者たちの人間的な面ではなく、争いや軋轢を生じさせる信者についてでもありません。適応性、交わり、一体性の破損や欠如を見ていたのでもありません。彼はその内なる関係性を見ていたのです。


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聖書朗読:ローマ一二・三~八、一コリント一二・四~七、エペソ一・二二~二三、四・一五~一六、コロサイ一・一八、二・一九、一テモテ四・一四、二テモテ一・六

 私たちの前の黙想に続けて、その反対側の面、団体的な面について述べるべきことが残っています。それは、教会に関する神の究極的御旨に対する御霊による生活の関係です。御言葉が示していることを理解するなら、私たちが述べたことは個人的なものだけでなく団体的なものでもあることがわかります。

 教会には二つの称号・名称があります。私が思うに、それらは数々の名称の中で最高のものです。第一は、一コリント一二・一二にある「そのキリスト(the Christ)」です。この節を読むとき定冠詞を維持しなければなりません。「体が一つであるように(中略)そのキリストもそうだからです」。これは教会の最高の名称のように思われます。もう一つはエペソ二・一五にある「新しい人」です。これらは両方とも、「彼のからだである教会」という他の名称によって示されています。パウロが意味するところによると、このからだは団体的に表されたキリストです。また、それは「ひとりの新しい人」です。

 この二つの名称――「そのキリスト」と「ひとりの新しい人」――は、代表権という観念全体を示しています。そして、それは今やここでは、もっぱら団体的なものとして示されています。私たちは個々の信者における子たる身分の霊について多く述べてきました。しかし、それよりも遥かに完全な意味で、子たる身分の霊は教会の中におられます。私たちが一つからだの中へとバプテスマされたのは一つ霊の中でであり(一つ御霊によってではありません)、子たる身分の霊の中でです。

 これは、個人がからだの中でからだに服することの重要性を意味します。使徒が「私に与えられた恵みにより、私はすべての人に勧めます。各人は思うべき限度を超えて思い上がってはなりません。私たちは互いに肢体だからです」と述べた時、彼はこれに導いていたのです。一つのからだがあり、私たちは互いに肢体です。そして、個人をこのからだに優るもの、それ自身に意味があるものとして、このからだよりも重視してはなりません。使徒が完全に明らかにしているように、個々の信者は重要であり、とても重要なのですが、この個人の重要性が突出してはなりません。

 これは私たちを、神の御言葉の中に示されている、キリストのからだの偉大な真理のもう一つの決定的な面に導きます。それは、聖霊とからだの中の秩序です。


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 このヘブルの信者たちの問題は、彼らはこの新しい状況に順応しなければならなかった、ということです。次に、エルサレムの宮は過去のものになって、彼らの視界から去らなければなりませんでした。神の眼中にもはやそれはなかったからです。その奉仕は今や、すべて終わらされて、キリストの中に集約されています。したがって、彼らにとって、宮とそのすべての奉仕は終わったのです。彼らがそれから離れるとき、何が起きるでしょう?ユダヤ人社会全体が、背教者である彼らに反対するでしょう。ですから、使徒パウロはこの問題を提起して、「ですから、誹りを耐え忍びつつ、宿営を出て、彼の御許に行こうではありませんか」と言います。起きるのはこういうことでしょうか?その代価はこれなのでしょうか?宿営を出ることをそれは意味するのでしょうか?どんな宿営でしょう?おそらく、広く受け入れられて認知されている宗教規定という宿営でしょう。彼らは誹りの下に来るでしょう。どんな誹りでしょう?彼の誹りです。私たちには順応性があるでしょうか?もし代価のゆえに立ち止まるなら、私たちに順応性はありません。そして、もし順応性がないなら、神は目標に達することができません。神の目標は来るべき世界に対する主権です。

 私たちの召し、その召しに到達するのに何が必要か、この偉大な包括的事柄――御霊による生活、聖霊の統治の下にある生活――がわかるでしょう。ああ、この偉大な目標、この経綸を支配している御旨の光には、何という促しと励ましがあることでしょう。その御旨とは、すなわち、諸国民の中から一つのからだを確保して、そのからだに属さない贖われた諸国民を統治させ、来るべき世界を支配させることです。

 あなたはこれをもっとよく調べることもできます。これがそうかどうか確かめることができます。きっとあなたは、これこそ天の召しであることを理解するでしょう。


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 これが、ヘブル人への手紙とガラテヤ人への手紙全体の中に記されています。それは、新しい立場に順応する一つの事例です。このヘブル人たちはユダヤ教の中で、宮の奉仕の厳格な課程の中で育てられました。今、使徒は彼らに告げます、「キリストは、そこに記されていることをすべて成就して下さいました。キリストがすべての予型の本体として来臨された以上、それらの予型は用済みです。もはや宮も、祭司もありません。もはやいけにえはなく、神の目から見てそのようなものはもはや全くありません。この御方にあって、それはすべて成就されて、除き去られました」。これは、彼らが順応しなければならないことを意味しました。大事なのはもはや地的体系ではなく、天的体系でした。イエスの御名の中に共に集められることが宮でした。いけにえは主イエスの贖いの御業の中に集約されています。同じように祭司職も、天におけるキリストの祭司の働きの中に集約されています。天で彼は絶えず生きていて、執り成して下さっています。この問題は完全に、神は私たちに対して何をすることができるのか、神は何を用いる決定をすることができるのか、という問題であり、私たちの順応性によって神は御旨に到達するための自由な道を得ておられるのか、という問題です。

 これはみな、御言葉から大いに明らかです。しかし、私たちに適用される時になると、それはとても実際的な問題になります。主の民の多くは、真理に順応するのを思いとどまります。それはしばしば、自分が「とても重要であり、とても貴いものである」と見なしてきたものとの断絶を意味します。結局のところ、それは自分の思い込みだったことがわかります。神の目から見ると、それは私たちが思っていたような地位を全く占めていなかったのです。そのため、それを後ろに残していかなければなりません。それよりもさらに高く、さらに完全なものに、さらに霊的で天的な観念に、私たちは順応しなければなりません。


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